三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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10月31日 文昌市東郊鎮田頭老村、福羅村などで

2014年10月31日 | 海南島史研究
 きょう(10月31日)、朝8時半に文昌市文教鎮渓西村にある「宗儒戦役烈士紀念亭」に着きました。
 この紀念亭は、文昌县人民委员会が1958年7月に建てたもので、その前の石版に、
   “宗儒戦役は、1943年6月に、この亭から遠くない宗儒小学の公路で、琼崖抗日総隊第二支隊第三大隊の40人あまり
    の戦士が日本軍の車両を襲撃し、1台を破壊し日本兵数名を殺傷し、歩兵銃数丁を奪ったが、その後日本軍が兵
    され、局面が変わり、我軍が大くの犠牲者をだした戦戦闘である。このとき、大隊長鄭奇ら13人の同志が戦死し、
    副大隊長高仁新ら4人の同志が負傷した”
という意味の言葉が刻まれていました。
 「紀念亭」を離れ、宗儒学校に行きました。学校は廃校になっていました。
 そのあと、文教橋をわたり、文教鎮の市街地に行きました。3年前の2011年11月6日にわたしたちは、ここを訪ねたことがあります(このブログの2012年8月27日、28日の「海南島文昌市文教鎭と龍楼鎮で」1、2をみてください)。
 中心部の道路沿いに大きな枇杷樹が立っていました。日本軍がこの樹に、抗日戦士の首を切って吊るしたことがあったそうです。
 
 9時半ころ文教鎮から東郊鎮に向かいました。
 10時半過ぎから、東郊鎮の中心街に住む符和金さん(1935年生)に自宅で話を聞かせてもらうことができました。
 東郊鎮南宝村で生まれ育った符和金さんは、
   「南宝村で木の上で見張りをしていた符福蔭が、日本軍が近づいてくるのを見て、村に知らせた。村にいた遊撃
   隊は逃げたが、符福蔭は、木からおりるときに日本兵が来て捕まった。藍田坡で銃剣で刺し殺された。16~18歳
   だった。もう一人、見張りがいたが、逃げることができた。 
    わたしは当時5歳だったが、符福蔭が捕まるとき見た。自分も知らせを聞いて逃げたが、見える距離だった。南
   宝村のおとなはみんな逃げたので、日本軍はよその村に行った」
と話しました。
 符和金さんは、2014年7月10日に文昌市東郊鎮関工委五老編写小組が作成した「以血淋淋的事実 控訴日軍侵華的滔天罪行」をみせてくれました。文昌市東郊鎮関工委五老編写小組は、日本軍の東郊鎮地域侵略の歴史を伝えていくために2013年2月に符和金さん(老幹部)、符和培さん(老教師)、華開民さん(老戦士)、符史明さん(老教師)、符福通さん(老教師)、符瑜さん(老職工)。伍振卿(老幹部)さんの7人が結成した組織で、「五老」とは、戦士、幹部、専門家、模範労働者、教師だとのことでした。。
 「以血淋淋的事実 控訴日軍侵華的滔天罪行」は、小組の会員が地域の老人に聞いた話や自身の体験を記録したものを“資料”として符和培さんがまとめたものだ、“資料”集めはいまも続いている、紀念碑を建てるのが目的だとのことでした。
 符和金さんに話を聞かせてもらったあと、近くの田頭老村に行きました。 
 田頭老村で、1942年秋に日本海軍第15警備隊部隊が襲撃し住民を多数虐殺した祠堂をみたあと、符福通さん(1930年生)を訪ねました。
 符福通さんは、つぎのように話しました。 
   「この村で生まれ育った。家は改築したが、場所はそのままだ。
    祠堂で殺されたのはこの村の人ではない。海辺の邦塘村の人たちだった。
    邦塘村の近くで共産党が日本軍を襲撃して戦闘になったことがあった。それで邦塘村の人たちが日本軍に襲わ
   れると考えて、上坡村のほうに逃げた。上坡村は密林に囲まれていて、邦塘村の人たちは上坡村のまわりの密林
   に隠れていた。
    海辺から、邦塘村―田頭村―上坡村―東郊鎮の順。上坡村は東郊鎮にあった日本軍の基地に近いが、周りは密
   林なので、安全だと考えた。
    良民証を見ればどこの村の人かわかるので、村ではなく、村の外に広がる林に隠れていたが、日本軍が上坡村
   に入ってにわとりを捕まえようとして、逃げるにわとりを追いかけて、隠れ住んでいる邦塘村の人たちを見つけ
   た。このとき、邦塘村の人たちといっしょに、上坡村の77歳の女性とその3人の子どもも捕まった。あわせて21人
   がこの祠堂で殺された。男は、15、6歳の子、ひとり。あとはみんな女性と子ども。女性は若い人が多い。女性は
   強姦されて殺された。
    そのあと日本軍は祠堂に火をつけた。朝8時か9時ころ、祠堂から煙が出るのに気づいた。隣りの村(符姓が多い)
   の人たちにも声をかけあって消火作業をした。わたしもいっしょにした。
    消火活動のとき、殺されている人たちを祠堂の中や外でも見つけた。(殺された人たちの遺体は)祠堂の近く、遺
   体が見つかったすぐその近くに埋めた。
    日本兵は村の入り口を通って去っていったが、この村(田頭村)には入ってこなかった。通り過ぎて行ったあと、
   祠堂から煙が出てきた。
    祠堂に邦塘村の人たちが連れてこられたのは気がつかなかった。
    上坡村のまわりの密林で捕まえて、どうして祠堂に連れてきたのか、知らない。
    日本軍のなかに、朝鮮人、台湾人がいた。日本は朝鮮を攻めて、台湾を攻めた。それで、日本軍のなかに朝鮮人
   と台湾人がいたのだ。
    台湾人で日本軍の通訳をしていた鄭心軒が、日本の敗戦前に共産党に入り、解放後、県のしごとをしていたが、
   周りで、あいつは日本人だという人がいて、つかまった。そのあと、東郊の町で、群衆大会で銃殺された。1950年
   後のことだ。そのころはきちんと調べないで、訴えがあると捕まえて殺した。
    わたしは。21歳から東郊で教師をしたが、そのときのことだった。大会だから、学生、一般人、おおぜいがが見
   た。このときはひとりだけ銃殺された。
    群衆大会での銃殺は、はっきり覚えているのは、2回だけだ。もう1回は、宦官だった下東村の符和万と福城園村
   の潘儒保。銃殺するとき名前を示すので覚えている。こういう大会は1952年、53年ころに多かった。
    日本軍のしごとをしたことがある。母が行った。わたしも行った。このころ、父は、魚を取りに行って台風で死
   んでいなかった。
    調炳村の炮楼をつくるしごとをした。草や木を切ったり、レンガや土を運んだ。村人はみんな交代で行った。甲
   長が行けと言ったら、恐いから行かなくてはならない。1世帯にかならずひとりがいかなくてはならなかった。日
   本軍は金も食べるものをよこさないので昼食は自分の家からもっていった。
    日本軍は、近くの福羅村でもたくさん村人を殺した」。

 符福通さんに自宅前の大きな樹の下で長い間話を聞かせてもらったあと、福羅村を訪ねました。
 村の中心の広場にいた人たちに、昔のことを知っている高齢者はいないですかと聞くと、そこにいた符梢(1953年生)さんが母親の黄文香さん(1926年)さんをオートバイで迎えに行ってくれました。
 黄文香さんは、
   「わたしは林春園村で生まれた。16歳のとき結婚してこの村に来た。結婚してから、福羅村で日本軍がなにをし
   たのかを夫から話をいろいろ聞いた。
    夫の父の弟の符福興とその妻(名前はわからない)。夫の兄ふたり符和榜、符和益が日本軍に殺された。
    符福興夫婦はどこで殺されたのかわからない。夫の兄ふたりは清瀾の日本海軍の基地のところに連れていかれ
   て殺された。
    この広場にある木のそばに符福興の妻が埋められている。
    林春園村に2、3人の共産党員がいた。ひとりは、黄循仕。黄文香が共産党員に食事を運んでいた。姉も食事
   を運んでいた。代わりにわたしがはこんだこともある。13歳のころのことだ」。
と話しました。そばにいた符史森さん(1952年生)は、
   「父の符和桂から話を聞いた。父は2003年に85歳で亡くなった。
    日本軍がこの村を襲ったのは、父が8歳か10歳のころだった。父は逃げることができた。田んぼのそばに川があ
   って川に木の根がびっしり張っていた。そこにつかまって隠れていた。ひとりで。
    祖父(符福昇、父の父)、祖母(父の父の妻)、父の妹は祠堂で殺された。父の妹は4、5歳だった。父の父方のい
   とこの兄(符気壹)の妻が強姦されて乳房を切り取られて殺された。
    父は食事のたび、酒を飲んではこの話をしていた」
と話しました。午後5時40分過ぎに、村のみなさんに見送られて福羅村を離れました。
 その後、文昌市内の宿所にもどる途中、「符節烈士紀念園」を訪ねました。
 符節さん(1899-1928)は、文昌市东郊镇下田村で生まれ育った人で、1925年に黄埔軍官学校に入り、1927年に"八一"南昌起义と广州起义に参加し、1928年2月に海南島に戻り、琼崖工农红军政治部主任となり、同年5月10日に国民党第十一军第一师に逮捕され、同年7月4日に澄迈县金江镇で殺害された人です。「符節烈士紀念園」の建物の中に、1996年7月1日付の文昌市人民政府による「符節烈士簡介」、「東郊人民革命闘争簡史」、「革命烈士名単如列」がありました。「革命烈士名単如列」には、429人の名が記されていました。

                                    佐藤正人



 以下は、きょう(10月31日)の『海南日報』に掲載された記事です。

http://hnrb.hinews.cn/html/2014-10/31/content_14_1.htm
■日本学者再到海南搜集日军侵琼铁证
 佐藤正人愿助海南民间对日诉讼

  本报文城10月30日电 (记者刘笑非)
  昨天下午,冒着淅淅沥沥的小雨,日本学者佐藤正人再一次开始了他的海南寻证之旅。对于这片土地他已不再陌生,算上这次,佐藤正人已经是第26次到海南搜寻日军侵琼暴行的证据。而对于本报曾报道的文昌市东阁镇日军暴行幸存者准备发起对日诉讼,佐藤正人表示,他将尽自己的努力,在诉讼中予以协助。
  下午,佐藤正人和“海南岛近现代史研究会”同仁齐藤日出治、金静美一起,来到抱罗镇石马村,寻访“石马屠杀”幸存者谢春梅老人。他告诉记者,2003年,他曾到过石马村采访谢春梅,但由于老人的抵触情绪,最终未能获得完整的资料,而此行也算是对10年前采访的一次补充。谢春梅老人也终于放下成见,向佐藤正人完整还原了1942年正月初六发生在石马村的屠杀惨案。
  听完老人的讲述,佐藤正人和同仁们还走访了惨案的发生地,寻访两位当年惨案的亲历者:88岁的王录雾和84岁的潘正川,并详细记录下了两位老人的口述。佐藤正人表示,在整个海南岛,还有许多未被披露的日军暴行,随着幸存者越来越少,记录下这段历史显得尤为迫切。
  佐藤正人的日语翻译邢越告诉记者,佐藤一行此次将会在海南呆上10天,除抱罗镇外,还将前往东阁镇、东郊镇以及陵水、万宁等地,寻找遗落的铁证。对于东阁镇鳌头村准备对日诉讼一事,佐藤正人说,他曾协助过海南慰安妇的对日诉讼工作,若此次鳌头村幸存者们能够成行,他也会尽自己的努力,发动日本民间力量对他们进行协助。
  “毕竟,还原历史的路还很长,相互扶持,也会使这条路好走一点。”佐藤正人说,这一次来海南,还绝不是最后一次。
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