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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

2024年春の海南島「現地調査」報告 8

2024年05月02日 | 海南島近現代史研究会
  4月6日朝、4時50分ころから鶏鳴。
 7時半に旅館をでて南方の常樹村に向かった。
 
 澄邁県政協文史資料委員会編『澄邁文史』第十輯(日軍侵澄暴行実録 1995年発行か)に掲載されている王明恩「国恨家仇怎能忘 記侵瓊日軍占領加楽峒的罪行」に、
   「一九四一年六月一一日、日軍飛機炸常樹村、炸毀民房一五間、炸死農民六人、受傷一人、炸死家畜四隻
  只。……」(三〇頁)
   「従一九四〇年四月至一九四五年八月的五年、加楽峒共殺死無辜農民八八九人、平均毎村被殺死一〇・二人。
  “重災区”是常樹村殺死二五六人、北柳村被殺死四一人、加塘村遭殺二四人、加応村殺死二一人、加志村殺死二〇
  人……」(三三頁)、
   「日軍占据加楽期間、任意下村搶掄劫農民財産、随便抓人作押、勒索銭財。擄掠最突出的有:北柳村搶劫家畜
  二二三頭、勒索光洋一三七〇〇元:常樹村遭劫耕牛一五七一頭、勒索光洋一二五四三元……」(三四頁)。
と書かれている。

 1940年4月から1945年8月までの5年間に村人256人が殺されたと書かれている加楽鎮常樹を、わたしたちが、はじめて訪ねたのは2012年11月7日だった。
 この日、常樹村の自宅で王汀邦さん(91歳)は、つぎのように話した。
   「はじめ、村が爆撃された。そのあと、日本軍が何度も村を襲った。この村が 国民党と共産党の拠点だったからだ。
   日本兵のなかには台湾人もいた。
   日本軍の占領中は、生活が苦しかった」。若い女性が日本兵に暴行された。
 自宅で王川法さん(1933年生)は、つぎのように話した。
   「日本軍が2回目に村を襲ってきたとき、父が殺された。1942年12月28日だった。わたしは9歳だった。
   わたしは、父が殺されるところを見た。
   日本兵2人が、父の腕を両側からひっぱり、からだの両側から銃剣を突き刺した。父の名は、王澄禄。40歳だった。
   石で殴られて殺された村人もたくさんいた。日本兵がいまいたら、殺してやりたい。ミサイルで日本を攻撃したい気持ちだ。
   わたしの家は、父母、兄、わたしの4人家族だった。姉がいたが、嫁にいっていた。兄は15歳だった」。
 わたしたちが、王川法さんから話を聞いているあいだ、そばでずうっと黙って座っている女性がいた。

 村人の1人が、
   「日本軍が村を襲ってきた1942年12月28日は、その女性の結婚式の日だった。その日の朝、日本兵に強姦され、
  そのあと精神を病んでしまった」
 と静かに話した。
  村人たちみんなから、その女性がいたわれていることが、わたしたちに強く伝わってきた。
  別れ際に、王川法さんは、「この村で殺された人たちの名は、記録されていない。これから記録していきたい」と話した。
  その四か月半後、2013年3月31日に、わたしたちは、常樹村を再訪した。
  王川法さんは、日本兵に殺された常樹村の村人の名簿をみせてくれた。
 そのあと、王川法さんは、父が殺された場所に案内してくれた。そこは、王川法さんの家の近くの四つ角だった。大きな石があった。その石を王川法さんは黙って指さした。
 その後、海南島近現代史研究会は3度、常樹村を訪ねた。
 さらにその7年後、2014年4月6日に訪ねたとき常樹村の風景は大きく変わっていた。
 常樹村を10時半にでて、定安県雷鳴鎮南曲村に向かった。わたしがはじめて南曲村を訪ねたのは2012年3月18日だった。この日に南曲村を訪ねたのは、2011年の秋に海南大学図書館の海南地方文献室で見た海南省定安県地方志編纂委员会編『定安県志』(2007年)で、「為国犠牲」と正面に刻まれ背面に王毅瓊崖守備隊司が書いた800字の碑文が刻まれている「雷鳴郷抗倭殉国忠烈官兵紀念碑」が、南曲村にあることを知ったからだった。同書には、この碑は、1946年春に瓊崖国民党軍政当局が雷鳴郷公所の門前に建てたものであり、1950年代のはじめに南曲村の村民が村に運んで保存していると書かれていた。
 2012年3月に、わたしがこの碑の前に立っていると、村人が、この碑のことをよく知っている人がいると言って、王昭成さんの電話番号を教えてくれた。すぐに電話すると、海口に住んでいる王昭成さんは、たまたま雷鳴に向かっている途中であり半時間ほどで碑のところに到着するとのことであった。
 王昭成さんが来るまでの間、わたしは、その場をくわしくみて歩いた。
 そこは、村道の一角に開かれた200平方メートルほどの草原で、村道から向かって右側に、「為国犠牲」と刻まれた高さ2メートルあまりの石碑が建てられており、そこから7~8メートルほど離れた左側に「馮白駒将軍抗日駐地遺址 雷鳴鎮南曲村居禄山 公元二〇〇〇年四月立」と書かれた同じくらいの大きさの石碑が建てられていた。その左奥には、太く大きな榕樹(ガジュマル)がたっていた。
 まもなく着いた王昭成さんに、わたしは、紀州鉱山の真実を明らかにする会と海南島近現代史研究会のこれまでの運動の内容を話した。
 王昭成さんは南曲村の出身で、退職後、南曲村の“名誉の村長”と呼ばれている人だった。
 ふたつの碑の前で、王昭成さんはつぎのように話してくれた。
   「この“雷鳴郷抗倭殉国忠烈官兵記念碑”の正面の「為国犠牲」という文字は、国民党広東省第9区行政監督
  専門員兼保安司令官(陸軍中将)だった丘岳宋が書いたものだ。
   背面の碑文には国民党の瓊崖守備司令官の王毅の署名がある。
   これは、抗日戦争に勝利した後、定安県の雷鳴と富文での抗日戦争の犠牲者を追悼し、日本軍に抵抗した
  軍民の事績を伝えるために、1946年に国民党政府が雷鳴郷の郷公所があった雷鳴村に立てたものだ。
   雷鳴と富文での2度の戦闘中に、国民党の将兵17人と抗日志士8人が犠牲になった。そのなかの1人は、定安県
  遊撃予備第一大隊の隊長王志発だった。かれは南曲村の人だった。王志発は、農暦1942年1月に、雷鳴鎮の隣の
  富文鎮の戦闘のときに戦死した。29歳だった。
   1951年の台風の時に、石碑が傾いた。しかし、その後、管理する人がいなかったので、南曲村の村民4人が、こ
  の高さ2メートル、厚さ10センチの重い石碑を南曲村の王氏の祖廟まで担いで運んだ。わたしの父の王広亨もそ
  の4人のひとりだった。
   文化大革命のとき、村民は、ひそかにこの石碑を井のそばに置いて踏み石のようにして隠した。村人は国
  民党軍の指揮官の題字が刻まれている記念碑が破壊されることのないように守った。
   「馮白駒将軍抗日駐地遺址」という石碑は、2000年4月に南曲村の村民が建てたものだ。その10年後、2010年
  に、「雷鳴郷抗倭殉国忠烈官兵記念碑」が、「馮白駒将軍抗日駐地遺址」のそばに建てられた。
   1941年の前半に、馮白駒将軍が指揮する瓊崖抗日独立総隊の10数名の戦士が南曲村の居禄山に来て、日本軍
  への抵抗をよびかけ、5件の家に分かれて14日間滞在した。「馮白駒将軍抗日駐地遺址」という石碑はそのこと
  を記念する碑だ。
   宿泊した李家の人に感謝するため、馮白駒将軍は、出発が迫ったときに1枚の自分の肖像画を贈った。馮白
  駒将軍が当時泊まった家はすでに崩れ落ちているが、基礎だけは残っている。この肖像画は抗日戦争と解放戦
  争と文化大革命を経て秘蔵されてきた。
   2011年1月7日に、馮白駒の娘の馮尔超と馮尔曾が父のとどまったことがある南曲村を訪ねて李氏の息子の王
  世春さんに会った。このとき82歳になっていた王世春さんは、馮白駒将軍の肖像画を寄贈した」。
 
 日本海軍の『海南警備府戦時日誌』に含まれている「陸上部隊兵力配備要図(1943年3月1日現在)」には、雷鳴守備隊の日本兵は42人、定安守備隊の日本兵は72人、金鶏嶺守備隊の日本兵は18人と書かれている。
 海南島で日本海軍海南特務部政務局第3課は、特務部海南師範学校を設置・運営していた。海南師範学校の関係者が2004年9月に出版した『天涯に陽は昇る 海南島への架け橋』(発行人山本良一)には、雷鳴の日本語教師には、海南師範学校第3期生の中という人がいたと書かれている(163頁)。  

  4月6日11時半ころ、南曲村のふたつの碑の前で出会った村人に聞くと、 王昭成さんは数年前に亡くなった、と言った。すぐ近くの王昭成さん家を訪ねると鍵がかけられていて誰もいなかった。わたしが最後に王昭成さんに会ったのは2018年10月だった。それまでの間に、南曲村や海口で10回ほど会っていた朋友を失った。
 12時ころ南曲村を離れ、同じ雷鳴鎮の梅種村に行った。
 わたしが梅種村をはじめて訪問したのは、2010年5月23日だった。
 この日、わたしは、許如梅さん(1918年~1943年)と周春雷さんの墓がある雷鳴鎮梅種村を訪ねた。許如梅さんの娘さんの符如来さんといっしょでした(海南島近現代史研究会会誌『海南島近現代史研究』第2号・第3号の表紙に、許如梅さんの墓の写真が掲載されている)。
 2010年4月6日に海南省図書館ではじめて読むことができた王俊才・王広虎「堅貞不屈 浩気長存――憶周春雷、許如梅同志壮烈犠牲」(定安县委党史研究室編『烽火』1987年7月)には、
   「敵は許如梅の頭を切りとり、続いて周春雷の頭を切って、梁安利に担がせて、雷鳴墟まで運ばせ大勢の
  人にみせた。しかし、梁安利同志は屈服することなく、平然と死に対決雷鳴墟で英雄的に義のために死んだ」
と書かれてあった。

 2010年5月23日の13年あまりのちの2024年4月6日には許如梅さんの墓には、墓石が無くなっていた。

 梅種村を離れ、午後2時半に定安県黄竹鎮大河村に建てられている “黄竹三村公墓”の場に立った。「中華民国三十四年」(1945年)に建てられた墓碑には「大河 後田 周公 三村抗戦同日殉難義士林俊南等一百零九名之公墓」と刻まれている。
 1941年8月25日(農歴7月3日)早朝、日本海軍佐世保第8特別陸戦隊所属の日本軍部隊が三村(現在、大河村・后田村・牛耕坡村・周公村の四村)を包囲し、明るくなってから村人を集め、家に押し込め、火をつけ、逃げ出した村人を刺殺した。母親に背負われた幼児も殺した。さらに逃げようとする村人に日本兵は銃を乱射した。
 わたしがはじめてこの場を訪ねたのは、2002年10月だった。その後わたしは、遺族や目撃者の証言をきかせてもらうために数度この村を訪ねた。

 大河村を離れ、文昌市南陽に向かった。「南陽人民英雄紀念碑」のそばに新しく「南陽英雄紀念園区」がつくられていた。
 5時過ぎに文昌市内に着いた。 
 
                   佐藤正人

2024年春の海南島「現地調査」報告 7

2024年04月21日 | 海南島近現代史研究会
 4月5日朝7時ころから数羽の鶏鳴がなんども聞こえた。
 8時ころ旅館をでて新盈港に行った。1939年9月19日に日本軍(司令長官林田鷹次)は、海南島北海岸の天然の良港新盈一帯を空爆し、9月22日に艦砲射撃をおこない、9月25日に新盈港から上陸した。わたしたちは2002年春に新盈港を訪ねていた。20年あまりのちの新盈港の風景は大きく変わっていた。埠頭に残されていた日本軍の見張り台は撤去されていた。当時、港の近くで何人かの人に話を聞かせていただいたが、もうその人たちに再会することはできなかった。
 侵略してきた日本軍は、近くの高台に司令部を設営し、周囲に壕を掘り、砲台、火薬庫、宿舎、給水塔、食堂、井戸、厩、伝書鳩小屋などを建設した。日本軍はこれらの建設に中国人を排除し、連行してきた朝鮮人だけを使ったという(王京「新盈日軍司令部的設立及暴行」、臨高文史資料研究委員会編『臨高文史』10、1995年12月)。
 1940年1月に、日本軍は、新盈に慰安所をつくった。12歳のときに、その慰安所で洗濯や炊事をしていたという宋福海さんは、
  「慰安所は派遣軍に属していた。中年の日本人女性ふたりが管理し、4人の慰安婦がいた。ひとりは若い朝鮮人だった」
と証言している(宋福海「新盈慰安所」、『臨高文史』10)。日本軍はその後、さらにいくつかの慰安所をつくった。2002年春には新盈の慰安所とされていた建物は残っていた。
 1945年8月に日本軍が消えたあと、その場所に新盈小・中学校が建設された。
 新盈中学校の敷地となっている旧日本軍司令部跡の給水塔、司令部の建物は、1999年ころ3年前に撤去されていた。
 2002年年春、新盈港に残されていた日本軍の見張り台の写真をとっていると、年長の男の人が、わたしたちを見て、日本語で「バカ」と繰り返した。わたしたちは、その場を急いで立ち去ろうとするその人を追いかけて、話を聞かせてもらえないかと頼んだ。かれは、「わたしは何も知らない。日本語をよく知っている人が近くにいる」と言った。その日本語を知っている人は、日本軍が海口につくった日本語学校に15歳のとき入学して日本語を学んだという林吉蘇さんだった(1925年生まれ)。林吉蘇さんは、
   「1944年はじめに学校を卒業して、特務部に通訳として配属された。海口と那大の日本軍で通訳をしたあと、故郷の新盈
  派遣所に勤務した。当時、新盈の商店の主人は、日本人か台湾人。海南島人は、働くだけ。
   那大には、舞鶴第一特別陸戦隊司令部があって、新盈よりも兵隊が多いので、慰安所が大きかった。
   日本軍がいま新盈中学があるところに建物を作っているときに、見にいったことがある。当時は全部、
  墓地だった。
  日本軍が来て、墓を壊して、施設を作った。土地の人は、苦力をした。
   日本軍が降伏したあと、三亜に逃げた。逃げないと、遊撃隊に殺されるから。日本軍に協力した人は、
  たくさん殺された。三亜では、楡林海軍工場で朝鮮人と会った。朝鮮人は、機械の修理・管理のしごとを
  していた。軍人ではない。100人以上いたと思う」
と話した。

 4月5日11時ころ新盈を離れ、旧道をとおって臨高に行き、高速道路に入って東に進み、福山で降りて北方の沙土に向かった。
 わたしたちは、2008年10月と2009年6月に沙土をなんども訪ねていた。
 1941年7月6日(農暦6月12日)に日本軍は、沙土の村々を襲撃した。
 沙土には、13の村(昌堂、美梅、那南、北山、昌表、聖眼、福留、欽帝、上帝、文旭、小美良、木春、扶里)がある。
 聖眼村の近くの墓地に建てられている高さ12メートルほどの「史証碑」の碑文に、1941年閏6月12日に沙土の昌堂、美梅、那南、北山、昌表、聖眼、福留、欽帝、上帝、文旭で村人1119人が殺され、さらにその後200人あまりが殺されたと書かれている。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会として19回目、海南島近現代史研究会として6回目の海南島「現地調査」のとき、 2011年3月4日と6日に、澄邁県沙土の欽帝村に行った。1年8か月ぶりの沙土訪問だった。
 わたしたちは、2008年10月と2009年6月に昌堂村、美梅村、那南村、北山村、昌表村、聖眼村、福留村を訪ねていたが、今回は、福留村と聖眼村を再訪し、欽帝村をはじめて訪ねた。
 欽帝村では、侵入してきた日本兵に機関銃で射殺される寸前に逃げて生き残ることができた王世杰さんと王徳林さんに話を聞かせてもらうことができた。
 王世杰さんは、
   「あの日、双子のあかんぼうを抱いて女性が逃げたが、殺されてしまった。あかんぼうは、生まれて1か月くらいだった。
    父親も殺されており、乳を飲ませる人もおらず、生きていけないので、村人が、母親といっしょに埋葬した」
と話した。
 3月6日朝10時過ぎから1時間ほど王世杰さんに話を聞かせてもらったあと、王世杰さんが機関銃を向けられた現場に案内してもらった。
 そこは、村の中心から200メートルほど離れた伺堂の前だった。石造の伺堂とその周りの囲いの石の壁は、ほぼ当時のままだとのことであった。この日はちょうど村の土神の祭日で、供え物が置かれ、ろうそくの火がともされていました。王世杰さんから当時のことを話してもらっているとき、爆竹が鳴らされた。
 そのとき、とつぜん、王徳林さんが来て、当時日本兵が機関銃を置いたあたりに走って行き、わたしたちに日本兵がどのように年寄りや子どもたちを殺そうとしていたかを、身体で示してくれた。
 王徳林さんは、つぎのように話した。
   「ここに、日本兵は、年寄りと女の人と子どもを3列に並ばせた。前列は年寄り、2列目は女の人、3列目は
  子ども。
    日本兵は腹ばいになって機関銃を撃った。そのそばで小銃を持った日本兵は立って撃った。撃たれた後
  も生きていた年寄りを銃剣で刺して殺した。
    わたしは、王世杰さんたちといっしょに逃げた。妹も逃げたが、小銃で撃たれて殺されてしまっ
  た。
    竹やぶの間に隠れた。しばらくたってから、イ、ウォ、サン、シと言いながら、日本兵は去って行った。午後3時ころだったと思う。
    まもなく、遠くの村のほうから銃の音が聞こえた。
    日本兵がいなくなってから、家族をさがした。
    父(王世桐)の遺体を見つけた。背中から撃たれて殺されていた。祖父(王元享)は父から20メートルほど離れた
   ところで殺されていた。母(王氏)の遺体はそこからすこし離れたところにあった。
    わたしの家では、祖父、父、母、妹2人、伯父(父の兄)、伯父の妻、叔父(父の弟)2人、ぜんぶで9人が殺された。
     その後も、日本兵はなんども村に来た。井戸端で洗濯している女性を強姦してから殺したこともあった。その
   井戸はいまも残っている。
    両親が殺されてから、生きていくのに苦労した。牛の糞を拾って乾かして売ったりして暮らした。
 王徳林さんは、祖父と両親が殺されたところに連れていってくれた。
 村はずれの小道をたどって樹木がまばらに生えているところにきて、王徳林さんは、立ち止まり、ここだ、と言った。そして、祖父が倒れていた地点、母の遺体を見つけた地点を示した。そのあたりには、10人ほどの人が倒れており、銃で撃たれて殺された人も、銃剣で刺されて殺された人もいたという。
 その近くに石でつくられた家があった。その家は、当時もあったとのことであった。石組みのしっかりした家で、人は住んでいなかった。その家の前から、虐殺現場が見えた。
 そのあと、王徳林さんたちが逃げて隠れた地点に案内してもらった。
 伺堂の前の道を右にそれ、大きな樹木の間をぬけたところに細い竹が密集している竹林があり、数百メートルかなたに海(沙土湾)が見えた。その竹林の奥に隠れたという。当時は、いまより竹林の地面が低く、水があふれていたとのことであった。
 王徳林さんと別れて村に入っていくと、日本兵が機関銃で村人を殺害した現場から近い自宅そばの豚小屋の前で、王徳信さん(1954年生)は、
   「兄が日本兵に腹を切られてまもなく死んだ、腹から腸が流れ出していたと、父から聞いた。父は銃剣で
   3回刺されたが生き残った。母はそのとき村にいなかったので助かった。姉は日本兵に強姦されて殺された」
と話した。

 日本政府は、沙土での日本政府と日本軍の犯罪記録を公開していない。当時、沙土地域を占領していたのは、日本海軍舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊の部隊であった。
 沙土虐殺にかんする記録・報告は、わずかである。いちばんくわしいのは、澄邁県政協文史資料委員会が1995年ころ編集発行した『澄邁文史』第十期(『日軍侵澄暴行実録』)に掲載されている、温家明・温明光口述(曾憲富、呉可義、雷登華整理)「血海深仇 永不忘懐(侵瓊日軍制造“沙土惨案”実況)」である。
 2003年8月20日に新華網は、沙土虐殺にかんする「目睹大屠殺 八旬老人痛訴日軍在瓊犯下罪行」と題する記事を配信した。
 2003年8月20日に新華網が「目睹大屠殺 八旬老人痛訴日軍在瓊犯下罪行」を配信し、その2年後の2005年8月15日に、橋頭鎮人民政府が聖眼村の近くの墓地に「史証碑」を建立した。
 その碑文の全文は、つぎのとおりである。

  槍声遠去笑声欣、時尚新潮世尚仁。
  血鋳沙土千古恨、碑留史証告来人。
  一九四一年夏、国軍臨高県遊撃大隊長黄坤新率部、于沙土海域截取了日僞軍西路総指揮林桂深営運的貨船、並殺死押運人林桂深之仔林明成。林便誣沙土人民所為、逐勾結日軍,同年閏六月十二日払暁時分、日軍二百多人、従那大、新盈、包岸等地分乗十部汽車、長駆直入沙土峒、旋即包囲了昌堂、美梅、那南、北山、昌表、上帝、聖眼、文旭、福留、欽帝等村庄。以検査「良民証」為名、強聚群衆、行槍射、刀砍、剣戮、奸殺、生埋之凶。僅両個時辰、就殺了男女老幼一千一百一十九人。后又両次来犯、再殺無辜両二百余人、焼毀民房五十八間、漁船一百多条、掠搶耕牛六百多頭。這就是瓊島史上惨絶人寰的「沙土惨案」。如此的腥風血雨、鉄証着侵瓊日寇的罪悪、銘刻着沙土人民的冤怨。特立此碑、永志不忘。
                 橋頭鎮人民政府   公元二〇〇五年八月一五日

 2024年4月5日午後3時ころ橋頭鎮を経由して沙土に向かった。史証碑のある聖眼村を訪ねると、沙土虐殺の犠牲者の名簿をつくっていた温国興さん(1928年生)は農歴2016年2月に亡くなっておられた。弟の温国照さんによると、バイクに乗っていて倒れてけがをし、一週間入院したが回復のみこみがないので家に帰り、まもなく亡くなったという。
 温国照さんは“いま聖眼村ではわたしが一番年上だ。1941年8月4日に、家の近くの竜眼の樹の下で日本兵に何か所も刺され血が流れたが歩いて家に戻った。母が南瓜のわたで血止めをしてくれた。いちばん 深かった傷には3年間薬をつけ続けた”と言って、その傷跡をみせてくれた。
 そのあと、王徳林さんの家を訪ねた。その直前、近所に住んでいる人が“王徳林さんはボケていて何もわからなくなっている”とひとち話していた。2015年ころ王徳林さんの家の近くで出会ったことがある。そのとき王徳林さんは、大きな薪の束を背負って元気に歩いていた。
 王徳林さんは、一人で歩行器に座っていた。「好久不見。我従日本来的」と言ったがこたえがかえってこない。7~8分間同じコトバをくり返していると、とつぜん「サトウショウジン」、“メシを食っていけ”と言い、その後なんども“メシを食っていけ”とさそってくれた。家の階段に積んであったバナナをもらった。
 別れの時、家の前に出てきて、訪ねたわたしと邢越さんの姿が見えなくなるまで見送ってくれた。
 5時半ころ橋頭鎮に向かった。途中、風が強くなり、砂塵で陽が赤くなった。橋頭鎮に旅館が無くなっていたので、澄邁県に向かった途中陽が落ち、金江鎮の旅館に入ったのは8時過ぎだった。 

2024年春の海南島「現地調査」報告 6

2024年04月20日 | 海南島近現代史研究会
 4月4日朝9時、「旦場抗日遇難同胞紀念碑」の前に着いた。
 碑の裏面には、
    這是鮮血和生命凝鋳的歴史。随着“九・一八”的硝烟、我祖国大好河山被日寇鉄蹄蹂躪。数千万同胞被殺
  戮。
    一九三九年二月、日軍侵占海南后、我旦場村民為捍衛民族尊厳、不甘当亡国奴、拒領“順民証”、憤怒的撕
  破焼毀日本国旗。
    由此、日軍対我村進行滅絶人性的野蛮報復、当年十一月四日深夜(農暦九月二十三日)、全副武装的日
  軍従水路上岸包囲我村庄、殺害九十三同胞、其中孕婦五人、強奸村姑四人、焼毀民房三十多間、槍劫財物
  無数……制造旦場九・廿三大惨案。
    歴史決不能忘却、惨劇更不容重演! 為報国難、家仇和民族恨、旦場先烈們在抗日戦争中可歌可泣的
  事跡永載史冊、他們寧死不屈的革命精神永遠激励着后人、奮発図強、振興中華、反対侵略戦争、維擁世界
  和平。
    為永恒的紀念、旦場村民立碑銘記。
                        公元二〇一三年三月

と刻まれており、そのそばに犠牲者の名、性别、殉难时年龄、亲缘关系がつぎのように刻まれている。

1 张生珠 男 81 张恩福曾祖父
2 谢连瑞 男 50 良昌祖父
3 许江匙 女 52 文丕富伯母
4 谢宏茅 女 68 张永值祖母
5 符凤岑 女 49 张天太祖母
6 文建熙 男 3 文益忠叔父
7 李则佑 男 28 李开现堂伯父
8 符兰荣 女 46 文名发祖母 
9 文仍面 女 68 符克勤祖母
10 文绍谦 女 54 张天助祖母
11 文士钦 男 70 文国瑶祖父
12 谢先炳 男 67 谢克精祖父
13 谢连兆 男 65 则富伯父
14 林 女拜 角 女 63 则富伯母
15 谢泽兰 女 13 则富堂姐 
16 谢泽坤 女 8 则富堂姐
17 谢泽路 女 一个月 则富堂妹
18 文贵女 女 46 王永双母亲
19 王永成 男 14 王永双胞兄
20 文昌才 男 25 文益丰父亲
21 文丕毓 男 35 文坤卜父亲
22 文成美 男 26 许承仕小舅公
23 文其英 男 37 昌显父亲
24 符玉佳 女 26 文国富前妻
25 黄永银 女 38 张坡弟前妻
26 文 女拜 窝 女 65 张天兴祖母
27 张天梅 女 30 张天兴胞姐
28 文其生 男 29 文昌民叔父
29 文兆和 男 42 文世连父亲
30 文国秀 男 37 文任元父亲
31 王之仁 男 40 永乐父亲
32 张石纯 男 46 张天玉祖父
33 赵永姨 女 40 文益留祖母
34 文瑞赫 男 36 文宗文伯父
35 文亚妹 女 36 文宗文伯母
36 文宗世 男 3个月 文宗文堂弟
37 谢则鸟 女 21 文宗文前母
38 谢祥符 男 32 谢泽长父亲
39 文琼銮 女 32 谢泽长母亲
40 谢泽玉 男 18 谢泽长胞弟
41 谢坡小 男 7天 谢泽长胞弟
42 陶安三 女 62 文秉山祖母
43 王永善 男 21 永乐胞兄
44 文 经 男 35 文德远父亲
45 文庆补 男 36 文高岗祖父
46 李则兴 男 13 李则贵胞弟
47 文亚小 女   王永善的前妻
48 文现熙 男 32 文益成父亲 
49 文令护 男 38 文成群父亲
50 文拜堪 女 35 许瑞梅母亲
51 文仁堪 男   文义五父亲 文昌盛继承 
52 王绍堪 女   文义五母亲 文昌盛继承
53 陶仍姐 女 60 文高荣祖母
54 文其川 男 40 文丕训父亲 
55 文仁均 男 48 亚条父亲开琼继承
56 谢三拥 男   谢良高叔父
57 文妹琴 女   文妹真胞姐
58 张成汤 男   张天才堂伯父 
59 谢金亻于 男  谢宝智父亲
60 谢祖兴 男   谢良才父亲
61 谢则性 男   谢良月父亲 
62 文妹笑 女   文宗娥继承
63 文其兴 男   文丕福叔父
64 文瑞路 男   文相机兄
65 文龙排 男   文其雄兄
66 张玉全 男   张永奎叔父 
67 文昌南 男   文丕高兄
68 许明芬 男 75 许瑞俊继承
69 文绍番 男   文永职父亲
70 文性龙 男   文昌东叔父 
71 黄金才 男   黄永照父亲
72 文康复 男   文永真父亲
73 文兆熙 男   文 女拜 珍父亲 註:「女拜」は、「拜」に「女」偏がついた漢字。 
74 许代奇 男 51 许瑞底父亲 
75 文 女拜 耐 女 60 许瑞俊继承
76 文瑞雄 男   文秉位叔父
77 文世帖 男   昌功叔父
78 谢先堪 女   文相器母亲 
79 文先喜 男   文天亮父亲
80 赵拜移 女 32 文庆勇叔母
81 文拜小 女 几天 赵拜移女儿 
82 文天明 男   文性方叔父
83 张 骞 女   成福祖母
84 谢家宝 男   谢昌姨父亲
85 符登雄 男 38 文永祥小舅
86 文其福 男   克耿父亲
87 符开尧 男   符振养叔父 
88 符仕高 男   符美柳父亲
  胎儿五名

 海南島近現代史研究会がはじめて東方市北方の四更鎮旦場村を訪ねたのは、2012年11月2日(農暦9月19日)の午後3時ころだった。
 このとき、旦場村の人たちが、日本軍に殺された村人の名を刻んだ追悼碑を建立する準備をすすめていることを知った。
 この日の午後8時過ぎに、旦場村から東方市内に着いたわたしたちは、旦場村の追悼碑建立の準備を中心になって進めている謝良昌さんと李永賢さんからくわしく話を聞かせてもらうことができた。
 それから5か月後の海南島「現地調査」の最初の日、2013年3月25日にわたしたちは再び旦場村を訪問しようと考えていたが、出発10日前に、謝良昌さんから、“旦場村の人たちが多く東方市にいるので、旦場村にではなく、東方市にこないか”という連絡があったので、東方市を訪問することにした。
 わたしたちは、1989年にはじめて海南島を訪問しましたが、そのとき東方市にも行きました。東方市は、日本が海南島を侵略した時期には、八所という小さな村だった。石碌鉱山の鉄鉱石を奪って日本に運び出すために、日本軍・西松組・日本窒素は、山中の鉱山から海岸まで約50キロの鉄道と積出港(八所港)を急造した。この工事で多くの人命が奪われた。八所港の「万人坑」には、1964年に「日軍侵瓊八所死難労工紀念碑」が建てられた。
 東方市は、その北東の昌江黎族自治県、白沙黎族自治県、南の楽東黎族自治県と同じく黎族の人たちが多く住む地域で、1990年代なかごろまでは、東方黎族自治県とされていた。清国時代から1940年代までは、昌江県と感恩県の一部とされており、東方黎族自治県とされたのは、1950年代のようである。

 2013年3月25日午前11時に東方市内の待ち合わせ場所に着くと、謝良昌さん、李永賢さんとともに、旦場村委員会書記の文益夫さん、旦場村委員会主任のまだ20歳代の張恩朝さん、東方中学校の校長をしている謝華さん(謝良昌さんの弟)、東方市の二軽局の局長を退職した文培徳さんが迎えてくれた。
 その席で、追悼碑の建立について、李永賢さんはつぎのように話した。
   “追悼碑は、昌化江に向かって南向きに建てる。場所は、みんなで決定した。
   碑の正面に、「旦場抗日遇難同胞紀念碑」と刻み、その下に碑文を刻む。
   石の裏面に殺された人の名前を刻む。碑の周囲は樹木や花で囲みたい。
   あなたたちが来た昨年11月には、93名の犠牲者のうち、85人の名しかわからなかったが、その後、これまでに90人の名を知ることが
  できた。
   旦場村の交通の便は、いまは悪いが、これからは道路や橋が建設されると思う。
   この碑を外から訪れる人、とくに若い人たちに事件を伝える教育基地としていきたい。
   ことし、74年前に93人が日本兵によって殺害された農歴9月23日(普通暦では、10月27日)に除幕式を開催したい”。
 謝良昌さんによると、旦場村の追悼碑を建立する運動が本格的に始められたのは7年ほど前からで、犠牲者の名前、年齢、「親縁関係」などの調査を始めたのは、2011年からだとのことでした。犠牲者の名簿(「旦場9・23惨案殉難同胞登記表」)の作成が、1939年から70年あまり経過してようやく行なわれることになったことについて、謝良昌さんは、
   “村ではむかしから犠牲者の名を調べてきていたが、中心になる人が多忙だったこともあり、定年になってようやく本格的な活動ができ
  るようになったからだ”
と話した。

 4月4日朝10時、旦場村の大樹のある広場に行く。文益顕書記が迎えてくれた。
 日本軍の大虐殺後、生き残った村人は2000人以上だったが、その後村を離れる人が多く、今の村の人口は200人あまりだという。
 紀念碑の前に門を造る準備を始めており、設計図はできているという。1947年に故文天政さんが編纂した「村歌」(哀嘆長恨歌 日軍惨殺旦場同胞)を整理した王永效さんはいま東方市に住んでいるという。謝良昌さんは東方市に住んでおり、李永賢さんは数年前に亡くなったという。謝良昌さんに電話すると、紀念碑建設後も犠牲者の名簿の整理を李永賢さんといっしょにすすめてきたと話した。今年秋に会う約束をした。
 11時に旦場村を離れ、三家鎮、烏烈鎮、海頭鎮、白馬井鎮をとおって午後6時半に新盈鎮に着いた。

                                      佐藤正人

2024年春の海南島「現地調査」報告 5

2024年04月19日 | 海南島近現代史研究会
 4月3日朝8時に黄流を出発し、9時半に楽東黎族自治県尖峰鎮黒眉村の邢亜响さん(1923年生)の家に着いた。邢亜响さんは2023年10月に亡くなっていた。脳梗塞で倒れ海口の病院で2か月間闘病したが家に戻って亡くなったという。邢亜响さんは日本軍と戦ったときの弓矢や火縄銃を保管していたが、邢亜响さんの死後、風習にしたがって燃やしたという。
 生前、邢亜响さんは、
   「日本軍と何回も戦った。射って、さっと場所を変えて、射って、また場所を変えて、射った。
    自分たちの銃はよくなかった。火縄銃だ。火薬を入れて使う。銃はいまもある。弓も使った。矢じりは
   鉄だった。
    仲間は50人くらい。みんな黒眉村の人。女性もいた。女性兵士は、炊事をした。
    機関銃を持つ日本軍とたたかうのは恐くなかった。死ぬことを恐れなかった。死んでも、光栄だと思っ
   た。日本兵を殺して銃を奪った。
    7日間、連続して戦ったことがあった。戦って逃げて、戦って逃げて、戦って逃げた。歌いながら戦っ
   た。遊撃隊は、みんな歌えた。 黒眉村は、まえは老包嶺のふもとにあった。今は人は住んでいない。
    解放後、村はここに移った」
と話していた。kouniti kuromayumuraHP (hainanshi.org) 
 邢亜响さんの一男の邢福球さん(1959年生)に昔の黒眉村に案内していただいた。
 昔の黒眉村では、多くの村人が日本軍に殺されたので、1945年にいまの場所に生き残った村人すべてが移り住んだという。

 黒眉村から感恩県龍衛郷新村(現、東方市新龍鎮新村)に午後2時過ぎに着いた。
 「一九四五年三月二日龍衛新村ノ戦闘」(原題は、「元号」使用)と副題がつけられた「横鎮四特戦闘詳報第五号」が東京の防衛研究所図書室で公開されている。この文書は、横須賀鎮守府第四特別陸戦隊第二大隊第二警備中隊が作製したもので、1945年3月2日に、海南島感恩県龍衛新村を襲撃したときの「戦闘詳報」である。この「戦場ノ状況」と題する個所には、
   「海岸線ヨリ東方一粁ニ位置スルニシテ戸数約八〇戸人口約三〇〇ヲ有シ農業 ヲ主スル一寒村ナリ
    周囲ハ高サ一乃至二米巾約二米ノ潅木ニヨル二重垣ヲ以テ防壁トナシ東西南ノ三方ニ出入門ヲ有シ
   西北ノ一部ニ高サ約二米ノ石造城壁アリ」
と書かれている。日本海軍は、住民300人ほどの村を「戦場」と規定して、襲撃した。この村を襲撃したのは、横須賀鎮守府第四特別陸戦隊第二大隊第二警備中隊第七小隊長猪瀬正信(日本海軍一等機関兵曹)ら11人で、全員が「便衣」を着ていた。この11人が2組に分かれて村を襲撃したのは、1945年3月2日午前10時30分だった。
 わたしたちは1945年3月2日の66年後の3月2日12時40分に、新村を訪ねた。
 「横鎮四特戦闘詳報第五号」には、「敵ニ與ヘタル損害」として、「遺棄死体四(共産党第二支隊指揮中隊長及同軍需主任ヲ含ム)」と書かれているが、新村で聞きとりをして、その「共産党第二支隊指揮中隊長」が湯主良さんで、「共産党第二支隊軍需主任」が王文昌さんであることがわかった。
 湯主良さんの妻の張亜香さんに話を聞かせてもらうことができた。張亜香さん(1922年2月21日、農暦1月25日生)の89歳の誕生日の9日後だった。
 話を聞かせてもらった場所は、小学校の校庭の塀の内側で、その塀の向こう側には、66年前に夫の湯主良さんら4人が日本兵に包囲され爆死した地下室があった。
 張亜香さんは、静かなしっかりした口調で、当時のことをつぎのように話した。その場にいたたくさんの小学生が周りを囲んで、張亜香さんの証言をいっしょに聞いた。
   “夫は、一七歳のときに革命に参加した。ここにあった家の地下室で死んだとき、23歳だった。
   子どもは2歳半だった。わたしは18歳のときに結婚した。夫が死んだときは22歳だった。夫が死んだ
  のは、正月18日だった。
   夫は、夜、ものを運んだり、情報を伝える仕事をしていた。隊長と呼ばれていた。
   夫が、共産党の活動をしていることは知っていたが、具体的なことは、はっきりとは知らなかった。  
   夫は家にいる時間は少なかった。ほとんど家を離れていた。わたしは、夫の両親と、農作業をして暮ら
  していた。
   夫が地下室で爆死した日、日本軍が来るというので、わたしは子どもを連れて逃げていた。あの
  ころわたしも子どももほとんど家に戻らなかった。
   わたしの家では、ときどき共産党の人たちが休憩や会議をした。しかし、安全な場所ではなか
  ったので、なにかあったらすぐ隠れる地下室をつくってあった。家の中では、食事や話ができるが、急
  になにか変なことがあったら、すぐに地下室に入る。狭いが、2~3人はゆっくり入れるほどの広さだっ
  た。
   あの日、日本軍が来たとき村にいた六人のうち、文昌からきていた党員は日本軍を見て逃げた。
   愚かなことに、逃げて、地下室の方に戻ってきた。この党員を日本軍が追いかけてきた。逃げる
  ときには、絶対に自分の同志の方に行ってはならないのに……。この人は逃げるのが遅かったので、
  日本軍につかまってしまった。つかまって、少し聞かれてから、すぐに、中のことを日本軍に教えた。
   日本兵は、地下室に声を掛けたが、誰も返事をしなかった。
   地下室の天井には板がはってあってその上に土をのせて床にしていた。その床の土を掘っていくと板に
  ぶつかる。日本兵は、村人に命令して、土を掘らせた。
   その音を聞いて、地下室にいた4人は、自殺することにした。地下室から出て日本兵と銃撃戦で闘っ
  たら、あとで村民たちがひどい目にあうと判断したようだ。日本兵は、このとき平服で七~八人だったか
  ら、闘うこともできたが、4人はそうせずに、自死の道を選んだ。
   日本軍と直接戦うことをやめ、もっていた銃と手りゅう弾で地下室の中で自殺した。銃を自分に撃った
  人がいた。手榴弾を爆発させた人もいた。
   日本兵は、村人に地下室で倒れている4人を掘り出させた。
   ひとりはまだ生きていたので、村人が息をしているのが日本兵にわからないように顔を下に向けさせた。
   しかし、日本兵は顔を見て生きているのがわかったので、拳銃で頭を何発も撃って殺した。脳が砕けて  
  飛び散ったという。三人の遺体は手も足も爆弾で砕かれていた。
   日本兵は、家に火をつけてからすぐ帰った。
   朝8時ころに爆弾の音が聞こえ、煙が上がるのが見えた。わたしは、日本軍がいなくなってから、村
  に戻り、死んだ4人の遺体を見た。夫の頭に弾の穴があいており、手が無かった。
   そのあと日本兵は、2~3日ごとに村に様子を見に来た。
   隠れ家を教えた文昌出身の党員は同志を裏切ったということで、あとで共産党に処刑された”
 張亜香さんは、夫の湯主良さんらが死んだのは、正月18日だと話した。「横鎮四特戦闘詳報第五号」には、横須賀鎮守府第四特別陸戦隊第二大隊第二警備中隊第七小隊が龍衛新村を襲撃したのは、1945年3月2日であったと書かれている。1945年3月2日は、農暦では1月18日だった。
 湯主良さんの遺児の湯祥文さん(1942年生)に、湯主良さんの墓に案内してもらった。
 墓は村から一キロあまりはなれた広い墓地の中にあった。以前は、村の近くに埋葬されていたが、2006年にこの場所に改葬されたという。
 高さ二メートルあまりの墓碑に、
   「永垂不朽」
   「生于一九二一年辛酉二月二十七日辰時為人正直思想進歩一九三八年投身革命曾任
   村党支部幹事娶同村邦直公次女為妻夫妻恩愛傳男一丁女一口一九四五年正月十八日
   為掩護群衆撤退被日軍囲困寧死不屈而光栄犠牲年僅廿四歳」
と刻まれていた。

 3月2日午後3時半に東方市新龍鎮新村を離れ、5時半に東方市八所鎮新街村に着いた。わたしが新街村の倪定平さん(1936年生)にはじめて会ったのは2003年春だった。その時、新街村の日本語学校のあった場所や横須賀鎮守府第4特別陸戦隊司令部司令部のあった場所などに案内してもらった。日本語学校にかよったことのある倪定平さんは、
   「当時、生徒は160人くらいだった。1クラス40人で4クラスあった。正面に職員室があった。
    左右に教室があった。日本人教師のひとりの名は、水村定男だった。
    学校の後ろに、日本軍専用の病院があった」
と話した。 
 倪定平さんは「日本侵略期の新街小学校の生徒たち」、「新街小学校前の日本兵士と日本語教師たち」、 「新街小学校の教師たち 軍帽をかぶった日本人教師2人とかぶっていない台湾人教師2人」などの写真をもっていた(紀州鉱山の真実を明らかにする会制作『写真集 日本の海南島侵略と抗日反日闘争』(2007年2月10日発行、76頁)。
 その年11月に再会し隣村の墩頭村の漁港近くにあった横須賀鎮守府第4特別陸戦隊守備隊の望楼跡、日本軍が爆撃した学校の跡などに案内してもらった。その後なんども倪定平さんに会って新街村とその周辺での日本軍の侵略犯罪についてくわしく話していただいた。

 4月3日に家を訪ねると、倪定平さんは1年前(2023年4月20日)に新型冠状病毒肺炎で亡くなっておられた。わたしが最後に会ったのは2014年11月20日だった。一男の倪徳雲さんが“父は発病してから10日間ほど入院したが家で死んだ。肺が真っ白だった”と話した。

                                   佐藤正人

2024年春の海南島「現地調査」報告 4

2024年04月18日 | 海南島近現代史研究会
  4月2日朝9時40分に旅館から回新村に向かった。5年半前にはなかった道路ができていて、なかなか着かない。10時40分に着くが、村中の道路もおおきく変わっている。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会が初めて回新村を訪ねたのは、21年前の2003年3月24日だった。このとき出会った哈秉堯さん(当時74才)は、日本人が、朝鮮人を「朝鮮報国隊」の人たちだと言うのを聞いたことがあると言った。 
 わたしたちは、朝鮮人の宿所跡に、案内してもらった。朝鮮人は、飛行場建設や、道路建設をさせられ、殴られて死んだ朝鮮人もいたという。
 哈秉堯さんは、その現場に案内してくれた。哈秉堯さんは、子どものころ毎日のように朝鮮人がおおぜい死ぬのを見たと言った。
 その後、わたしたちは、なんども回新村を訪ね、村人から証言を聞かせてもらった。
 2004年4月に紀州鉱山の真実を明らかにする会は1998年6月からの海南島での「現地調査」での映像を編集して、ドキュメンタリー『日本が占領した海南島で 60年前は昨日のこと』を制作した。2004年7月にその朝鮮語版を、2004年12月にその漢語版を制作し、2005年はじめに回新村で漢語版を上映した。
 わたしが最後に哈秉堯さんに会ったのは、2018年10月下旬だった。今度訪ねたら家は空き地になっており、近所の人が哈秉堯さんは何年か前に亡くなり、家族は飛行場の近くに引っ越したと話した。
 回新村を離れて、「朝鮮村」に向かった。11時10分に「朝鮮村」の南丁小中学校の前に着いた。
 わたしたちは、これまで20回ちかく「朝鮮村」を訪ね、「朝鮮村」の村人に日本軍が「朝鮮村」をその周辺で朝鮮人を強制的に働かせ、暴行し、虐殺した目撃証言を聞かせてもらってきた。
 今回は同行できなかったが、海南島近現代史研究会の会員の在日朝鮮人が、「朝鮮村」の貧しい小中学生に使ってもらうようにと南丁小中学校に100万円を寄金したいと言い、わたしが預かっていた。南丁小中学校の蔡少冠校長は、上部機関(教育局→民生局)に問い合わせてから、受け取ってくれた。校長は、貧しい生徒と成績のいい生徒のために使いたいと言った。南丁小中学校に隣接している広場には日本政府に「朝鮮報国隊」に入れられ海南島に連行されて1945年夏に虐殺された朝鮮人1000人以上が埋められていた。

 4月2日12時15分に南丁小中学校から離れてが埋められている広場に行った。広場の南丁小中学校寄りの場所(朝鮮人の遺骸がいまも埋められている)には、陶器工場が建設されていた(現在は休業中)。
 12時40分に「朝鮮村」から黄流に向かった。

                                      佐藤正人
 
 

2024年春の海南島「現地調査」報告 3

2024年04月17日 | 海南島近現代史研究会
 4月1日朝8時35分に旅館を出発し、9時30分に英州鎮九尾村(前、九尾吊村)に着いた。
 わたしは、2005年に、政協陵水黎族自治県委員会主席の蘇光明さんから『陵水文史 7 日軍侵陵暴行実録』(1995年2月発行)をいただいた。その書には、馮徳郷・藍信郷・馮興瓊口述、蘇光明整理「死里逃生憶当年——九尾吊村“三・九”大屠殺述実」が掲載されていた。そこには1943年農歴3月9日に日本軍が村民72人を殺害したという証言が記されていた(陵水黎族自治県老区建設促進会編『陵水黎族自治県革命老区発展史』(2021年12月、海南出版社発行)には「死里逃生憶当年」が「九尾吊村大屠殺遺址」と題されて6行に縮められて収録されている。314頁)。
 2007年から海南島近現代史研究会は村人に証言を聞かせてもらうために、何度か九尾吊村を訪ねた。
 2014年4月7日に英州镇红鞋村委会九尾村全体村民は、陵水黎族自治县人民政府に、村に日本軍の村民殺害の「歴史真相」を伝える「纪念碑」建設を求める文書を提出する準備を開始していた。
 海南島近現代史研究会が前回九尾村を訪ねたのは、2014年11月4日だった。そのとき、元書記の馮興義(1933年生)さん、現書記王田衛(1970年生)さんらは各家をまわり、戸主が死んだり、全滅した家のばあいは、親戚を訪ねて聞いて、殺された人の名まえ、虐殺の状況を調べて文書をつくったと言った。
 馮興義さんは、
   「日本軍は村の二つの方向から攻めてきた。田んぼの方には日本兵はいなかったので、20何人が田んぼのほうに逃げた。
    逃げられなかった人はぜんぶ、剣で刺し殺された。
    当時わたしは13歳ころで、家族は、父、母、兄3人、姉2人、じぶんの8人家族だった。わたしは末子なので、父はわたしを
   連れて逃げた。兄ふたりと姉ひとりは逃げることができたが、兄の亜楽と姉の玉英は殺された。兄は25歳、姉は15歳だった。
   王廷朝と李家珍はつかまって、隆広の日本軍の基地まで、村のニワトリやブタ、羊などを運ばされたあと、首を切られて殺された。
   首は見つからないまま。隆広の人が見ていて、村の人に教えてくれた。村の人が遺骸を引き取りに行ったが、首がなかった。探しても見つからなかった。
   村の人はみんな山に逃げているので、村には
  人はいない。家は焼かれて、壁だけ焼け残っていた。日本軍は何回も来た。家を壊して、レンガを盗っていった。
   壁を壊したり、運んだりしたのは、別の村の人がした。どこの村の人かわからない。英州あたりの村の人。
  車はないので、みんなかついで運んだ。
と話した。とげがはえた大きなサボテンをゆびさして、馮興義さんは、
   「日本軍時代、大きく茂っていて、村のまわりぜんぶに植えられていた。‘界刺(ゴイシ)’という。動物も入って行かない。
   痛いが、ここに隠れた人は助かった」と言った。
 その9年半後の2024年4月1日に、わたしは 九尾村を訪ねた。村人に聞くと、追悼碑(「纪念碑」)は、まだ建設されていないと言う。
 馮興義さんの家を訪ねた。馮興義さんは、ほとんど目が見えなくなっていた。すこしの間話していると、声でわたしのことを思い出してくれた。馮興義さんは、1958年から1988年まで30年間、村里(周辺のいくつかの村)の書記をしていたという。

 2024年4月1日午後12時15分に、保亭黎族苗族自治県什玲鎮で陳厚志さんに会った。陳厚志さんは、張応勇さんに教えられて海南島で民衆運動を続けてきている人だ。
 保亭市内で張応勇さんの三女の張蕾さんに会った。張応勇さんの妻の黄菊春さんは2020年後半に、一女の張嘉さんは2022年後半に乳がんで亡くなったという。張応勇さんの遺稿集出版について話し合った。
 午後6時、三亞市内に着き、三亞民间文化博物館に行き、館長の蔡明康さんに再会し話を聞いた。『海南島近現代史研究第4号・第5号』を寄贈すると、「このような資料はいちばんだいじなものだ」と語った。

                                     佐藤正人

2024年春の海南島「現地調査」報告 2

2024年04月16日 | 海南島近現代史研究会
 3月31日早朝、海口を車で出発し、高速道路を南に向かい、定安県・瓊海市を通過し、11時過ぎに万寧市万寧鎮に着いた。
 新型冠状病毒肺炎流行のため、海南島近現代史研究会が海南島に行くのは訪ねるのは5年3か月ぶりだった。
 初めに蔡徳佳さんの家を訪ねた。蔡徳佳さんは、2年前に亡くなられていた。
 わたしが、初めて蔡徳佳さんに会ったのは、2002年4月5日だった。その後、わたしが蔡徳佳さんに10数回話を聞かせてもらってきた。
 初めにあった日に、万寧県政協文史弁公室編『鉄蹄下的血泪仇(日軍侵万暴行資料専輯)』(『万寧文史』第五輯、1995年7月)をいただいた。その書には、蔡徳佳・林国齋「日軍占領万寧始末——制造“四大屠殺惨案紀実”」、楊広炳・陳業秀・陳亮儒・劉運錦「月塘村“三・廿一”惨案」が掲載されていた。
 3月31日午後1時過ぎに、月塘村の朱振華さんの息子さんを訪ねると、朱振華さんは2年前に脳の病気で入院し、いまはほとんど記憶を失っていると話した。
 わたしが初めて朱振華さんに出会ったのは、2007年5月24日だった。
 朱振華さんは、1980年代末から、月塘村虐殺の犠牲者の「調査」をはじめ、犠牲者と幸存者全員の名簿をつくった。虐殺三年後の1948年に月塘村で生まれた朱振華さんは、成人後、獣医をしながら、村の家を一軒一軒、なんども訪ねて聞きとりをし、月塘村虐殺の実態を知ろうとしていた。
 月塘村の追悼碑(三・廿一惨案紀念碑)は、2008年農暦3月21日(4月26日)に除幕された。
 追悼碑の建設は、朱振華さんと朱学基さんが中心になってすすめた。
 1945年5月2日明け方、日本軍は、北方の万寧市のほうから、月塘の西側の道を通って、村に入ってきた。その道は、いまでも残っている。
 月塘のすぐ近くの朱光清さんの家を日本軍が襲ったとき、まだ、陽はのぼっていなかったという。その家のあった場所で、朱光清さん(一九三四年生)は、
   「とつぜん家にはいってきた日本兵に、おなかの右下を刺された。血まみれになり、腸がとびでた。
   手でおさえて逃げるとき、右足を切りつけられた。血がいつまでも止まらなかった。
   門のそばで母が殺された。四三歳だった」。
と、ときどき遠い所を見つめるようにして、低い静かな口調で話してくれた。
 朱光清さんは、傷跡をみせてくれた。腹部の傷跡が深く残っており、右足首上部の傷が細長く残っていた。
 2024年3月31日に朱光清さんの家を訪ねた。妻の黄玉金さんが、朱光清さんは家のなかで転んで骨折し、1か月ほど寝込んで農歴2023年2月10日に89歳で亡くなった、と語った。

 月塘村を離れ、高速道路を南西に進み、陵水黎族自治県英州鎮にいった。

                                 佐藤正人

2024年春の海南島「現地調査」報告 1

2024年04月15日 | 海南島近現代史研究会
 海南島近現代史研究会は、2024年3月30日から13日まで20回目(紀州鉱山の真実を明らかにする会としては回目)の海南島「現地調査」をおこないました。
 その行程は、つぎのとおりでした。

3月30日午後9時、海南島海口国際空港にホンコンからの直行便で到着。 
3月31日 海口→月塘村→英州鎮大坡村→英州鎮九尾村→陵水泊。
4月1日 陵水→保亭→「朝鮮村」→三亞泊。
4月2日 三亞→三亞民间文化博物馆→黄流日本軍飛行場跡→黄流泊。
4月3日 黄流→感恩県龍衛郷新村(現、東方市新龍鎮新村)→東方市博物館→八所鎮新街村→四更鎮→東方市泊。
4月4日 東方→四更鎮英顕村→昌化鎮旦場村→烏烈鎮→白馬井鎮→新盈鎮泊。          
4月5日 新盈→臨高→沙土(聖眼村・欽定村)→澄邁泊。 
4月6日 澄邁常樹村→雷鳴鎮南曲村→雷鳴鎮梅種村→黄竹→南陽→文昌泊。 
4月7日 文昌→清瀾港→東郊鎮田頭村・福羅村→東角鎮南文村→文昌泊。
4月8日 文昌→東閣鎮→抱羅鎮馬鎮→中国銀行→潭牛泊。  
4月9日 潭牛→三江で李粒くんに会う→咸来→大至坡泊。
4月10日 大至坡→秀田村→舖前泊。
4月11日 舖前→澄邁県橋頭鎮理善村→臨高角解放記念碑→臨高→海口泊
4月12日 海口市石山鎮玉榮村の“迷人洞”→1939年2月10日に日本陸海海軍が奇襲上陸した天尾村海岸(現、新海港)→海口図書館→海南省史志館→新華書店→海口泊。
4月13日 海口人民公園に建てられている海南革命烈士纪念碑のそばの許如梅さんの「墓」に、邢勇さん(許如梅さんの孫)に案内してもらう→南海出版公司との話し合い→海口発(ホンコン経由で日本に)。
                                 佐藤正人

海南島近現代史研究会第27回定例研究会 蒲豊彦報告

2024年02月25日 | 海南島近現代史研究会
 以下は、2024年2月17日に開催した海南島近現代史研究会第27回定例研究会での蒲豊彦さんの報告の要旨です。
 

 庶民の記憶と民衆史
           蒲豊彦

 日本では現在、小学6年生から歴史を学び始めるようだが、そこに登場するのは、中学、高校を含め、ほとんど有名な事件や人物に限られるだろう。また歴史にたいする興味やイメージを形作るうえで大きな影響があると思われるNHKの「大河ドラマ」も、主人公はほぼ有名人である。歴史を理解しようとするとき、有名な事件や人物が基本になるのは疑いないが、その歴史がつまり「歴史」である、と思い込むことは避けたい。そのような考えは、その対極にある普通の人の歴史や生活には意味がない、という勘違いにつながる可能性があるからだ。以下では、私の著書『闘う村落-近代中国華南の民衆と国家』(名古屋大学出版会、2020年)と『三竃島事件-日中戦争下の虐殺と沖縄移民』(共著、現代書館、2018年)をおもな材料として、庶民の歴史を研究する方法の一例を紹介してみたい。
 まず、『闘う村落-近代中国華南の民衆と国家』は、中国南部いわゆる華南の地域社会の歴史を解明しようとしたものである。なかでも広東省の東部沿海部に焦点をあてた。このあたりの農村部は、かつてしばしば特徴的な姿をしていた。村は散村ではなく家々がびっしりと集まり、そこには同族を主とする人々が暮らし、村の周囲は土塀で囲まれ、住民たちは武装していた。それはおもに盗賊対策だったと思われるが、その武力を使って近隣の他村と頻繁に武力衝突を繰り返し、多くの死者を出していた。これが華南の地域社会の大きな特徴であり、いわばその基本構造をなしていた。 
 この構造は、16世紀の中ごろ(明の中期)から徐々に形成されはじめ、20世紀の中ごろまで続く。
 ところがその間、中国では、明、清と王朝が入れ替わり、さらに辛亥革命を経て、中華民国、中華人民共和国(1949年成立)へと移った。ここで、きわめて重要な事実が明らかになる。この時期を通してほぼ400年間、華南の地域社会で同じ基本構造が続いていたということは、中国全体が大きく変化しているにもかかわらず、華南ではそれとはまったく別の歴史が同時に存在していたことになるのである。このもう一つの歴史を「歴史の底流」と呼びたい。これまで研究者は、華南のこの底流の存在を明確に認識することがなかった。
 このもう一つの歴史を理解するためには、農村部を中心とする地域社会の様相を独自に時期区分しながら調べなければならないが、史料の欠如という大きな問題がある。日本の場合は、前近代においても各地方の古文書がわりあいよく残っているようだ。しかし中国では、ごく一部の例外を除き、そのようなものはないといってもよい。そこで、様々な細々した漢文史料を寄せ集めて利用することになるが、『闘う村落-近代中国華南の民衆と国家』では、それに加え、それらとはまったく性格の異なる史料を使用した。キリスト教の宣教師が残した書簡や報告書などの文書群である。1840年のアヘン戦争以降、欧米の宣教師が大挙して中国へ入りはじめ、各地で大量の文書を作成して母国のミッション本部に送り、現在も教会の資料館や大学図書館等に保存されている。
 そうした宣教師文書を判読、整理すると、通常の漢文史料には現れない様々なことが見えてくる。たとえば広東東部の場合、19世紀の中ごろから20世紀初頭までの間に、入信者が急増した時期が2回あったことが明らかになる。最初は1870年、次は日清戦争(1894~95年)の直後から19世紀末にかけてである。宣教師文書を使ってさらにその原因を探ると、その時期、社会情勢の変化にともなって住民が大きく動揺していたことがわかる。つまり、地域社会の動向が宣教師文書のなかに記録されているのである。また、1894年には香港でペストが大流行し、さらに広東の沿海各地にも伝播したが、広東東部では1899年を境にして感染が新しい地域に拡大し、特殊な住民運動を引き起こした。これらはいずれも、従来の漢文史料ではうかがい知れなかったことである。
 『闘う村落-近代中国華南の民衆と国家』では、以上のようにして約400年間に及ぶ華南地域社会のもっとも基本的な歴史を描いた。それは次のように整理することができる。まず、明の中ごろから次第に同族が集住しはじめ、清初には隣村との武力衝突が本格化し、このころまでに地域の基本構造が出来あがった。そして日清戦争期に戦争、ペストそのほか各種の社会不安が重なるなかで、住民の間に自助、互助的な組織活動が発展する。住民のそうした社会運動の一つの帰結が、同地域で近現代史上最大の事件となる1920年代の農民運動だった。
 ただし、以上の歴史叙述には大きな限界があり、ほとんど個人を登場させることが出来なかった。そもそも宣教師の文書には中国人信者の個人的なことはあまり出てこない。広東東部にかんしておそらく唯一の例外は、アメリカ人女性宣教師のアデル・M・フィールドが残したPagoda Shadows(1884年)という書物である。これは『私がクリスチャンになるまで-清末中国の女性とその暮らし』(東方書店、2021年)という邦題で私が翻訳しているが、フィールドが聞き取った中国人女性信者の人生や暮らしが細かく記録されている。たとえば「快」という女性は幼かったころ、町へ出かける父親に、三日間、ミカン畑の小屋に泊まり込んで見張りをするよう言いつけられた。ところが三日目の夜、恐くてついに我慢できなくなり、母が待つ家に駆け戻ってしまう。フィールドは、どきどきしながら父親の帰りを待つ少女の心情を、きわめて丁寧に書き留めている。この地域で、住民が実際にどのように日々を過ごしていたのかは非常に重要な問題であり、このようなものも地域研究に積極的に利用すべきだろう。
 文書による記録が少ない庶民史のような分野では、フィールドも行った聞き取り調査がやはり欠かせない。そうした方法を本格的に使おうとしたのが『三竃島事件-日中戦争下の虐殺と沖縄移民』である。本書のテーマは戦争だが、戦闘の経緯だけでなく、三竃島と沖縄双方の住民の暮らしにも留意した。たとえば、たくさんの子どもを抱えたある家族は、少しでも生活の足しにしようとして、本来は海軍へ納めなければならない米を島外から密航してくる中国人に売っていた。日本軍に見つかれば双方ともに大変なことになる行為である。しかし生活のために危険を冒す家族があり、他の沖縄移民もそれを黙認していた。また、日本兵に捕まった老人と小さな子どもを、移民の少女たちと一人の日本人軍曹が一緒になってこっそり逃がしたことがあった。これも発覚すればただではすまされない。
 『三竃島事件』は日本海軍よる三竃島占領と、その後の沖縄移民の状況を整理する目的で始めた研究だったが、1945年に日本軍が撤退したあとの三竃島についても調査した。その結果、三竃島はその地理的な位置のために、国民党軍が台湾へ逃れるための撤退センターとして利用され、戦後も住民に大きな犠牲を出したことが明らかとなった。これは、沖縄が現在まで置かれ続けている状況と非常によく似ている。こうして、日本海軍による三竃島占領だけでなく、三竃島と沖縄という二つの島をつなぐ、より基本的な歴史を描くことが出来た。
 歴史にかんする本を出版するのは、第一に、事実を整理して記録するためだが、読者のことも考えるべきだろう。読者が興味をもって読むためには、たんなる事実の羅列ではなく、上述のような事件や生活の細部を書き込み、できるだけ目に見えるようにその時代を再現することが必要だと思われる。

(以上は海南島近現代史研究会第27回定例研究会で報告した内容を整理したものである)

海南島近現代史研究会第27回定例研究会 佐藤正人報告

2024年02月24日 | 海南島近現代史研究会
 以下は、2024年2月17日に開催した海南島近現代史研究会第27回定例研究会での佐藤正人の報告の要旨です。

■主題報告  日本が侵略した地域の民衆の記憶、侵略国家の民衆の主体変革■   
    日本国家が侵略した地域における侵略犯罪の歴史は厳密に記録され伝承されなければならない。
    その歴史記述の正確さを保証する、侵略国家日本の民衆の主体のありかたを考えたい。

(一) 国民国家日本の民衆の歴史認識・行動(事実を明らかにする=歴史的責任を自覚する)。

(二)  国家謝罪・国家賠償(国民国家日本政府に侵略犯罪の諸事実を細部まで正確に明らかにさせ、公表させ、謝罪させ、責任をとらせ、
   賠償させる)。
        侵略。虐殺。日本軍隊性奴隷。

(三) 実証的民衆史(事実)。思想。  民衆の歴史・民衆の歴史認識。
        生き方。責任。道徳。
    民衆運動としての歴史認識・民衆運動のなかでの歴史認識・民衆運動深化のための歴史認識。

(四) 世界史   時間(すべては、現在・昨日のこと)・場(地域)。
    北アフリカ史。南アフリカ史。アラブ史。北アジア史。南アジア史。北太平洋史、南太平洋史。北大西洋史。南大西洋史。ヨーロッパ
   史。北「アメリカ」史、中部「アメリカ」史。南「アメリカ」史。
    個人史のなかの世界史・地域史のなかの世界史
    現在の、日常のなかの世界史。 侵略の世界史 ⇔ 抵抗の世界史。
      
(五)時代 過去、生きている時代(わたしが。われわれが)
   13世紀
   14世紀
   15世紀 大西洋奴隷貿易開始。
   16世紀
   17世紀
      1622年「インディアン戦争」(アメリカ合州国植民地戦争)開始→1890年
   18世紀
   19世紀 ベルギー、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、ポルトガル、スペインによるアフリカ大陸分割(植民地化)開始。
      1895年:フランス領西アフリカ
      1898年9月2日:オムダーマンのたたかい マフディール。マフディー戦争
   20世紀
      1904年に、アフリカ南部のナミビア(1884年にドイツが領土化)で、ヘレロ民族がドイツの侵略に抗して烽起したとき、ドイツ
     軍は、ジェノサイドをおこない、ヘレロ民族の8割を殺戮あるいは餓死させた。
      1905年~7年、タンガニイカ民衆(マトゥンビ民族、エンギンド民族、ボゴロ民族、エンゴニ民族ら)が開始したマジマジ烽起の
     時、ドイツ軍、10万人を越える民衆を虐殺。          
      1906年から朝鮮民衆、独立戦争(義兵戦争)開始。日本軍は、義兵の根拠地と判断した村落を襲撃し村人を殺害。朝鮮駐箚軍
     司令部『朝鮮暴徒討伐誌』に、1906年~11年間に日本軍・憲兵・警官が殺害した義兵は1万7779人と書かれている。
      1914年~1918年 世界戦争(1) 
      1919年の朝鮮の三・一独立運動のとき、日本政府は、軍隊・警察を増強し民衆殺傷      
      1937年~38年、ヴィーンヌィッヤ(ウクライナ)でソ連NKVDが1万人以上の民衆を虐殺
      1937年~38年、ソ連で「大粛清」。NKVD(ソ連内務人民委員部部)の1953年統計報告によれば、1937年に政治囚77万9056
     人・死刑者35万3074 人、1938年に政治囚583,326 人・死刑者32万8618 人。
      1937年12月、南京で日本軍が大虐殺
      1939年2月10日、日本軍海南島奇襲上陸開始
      1939年~45年世界戦争(2)
      1939年9月1日、ドイツ軍ポーランドに侵入
      1939年9月17日、ソ連軍ポーランドに侵入
      1940年4月~5月、NKVDがカチンの森でポーランド将兵ら2万人以上を虐殺
      1940年9月27日:日独伊三国防共協定調印→1943年10月13日伊王国独に宣戦
      1941年6月22日:ドイツ、ソ連侵略戦争(バルバロッサ作戦)開始・ソ戦(大祖国戦争)開始→1945年5月9日:ドイツ無条件
     降伏(ソ連の死者2660万人、2015年にロシア国防省発表の公式の推算では、犠牲者数(2660万人、約1200万人の兵士が戦死・
     未帰還、民間人約1460万人がドイツ軍の占領地で死亡・未帰還・飢餓や疾病などで死亡)。
      1944年6月6日:アメリカ合州国軍・イギリス軍ノルマンディ上陸開始
      1944年6月6日~8月30日 ハレマンディ
      1948年:パレスティナでナクバ開始
      1950年:朝鮮戦争開始
      1965年10月~1966年3月 スマトラ島、ジャワ島、バリ島で、インドネシア国軍・国軍に軍事訓練をうけていた民間の「警防
     団」などが、共産主義者、華僑らを集団大虐殺。死者50万人?~300万人?
      1988年3月16日:ハラブジャ虐殺(青酸ガス爆弾によるイラン政府のクルド人虐殺。死者3200人~5000人)
   21世紀
      2023年10月~現在 シオニスト国家政府・国軍・警察、パレスチナでパレスチナ人3万人殺害。

   空爆の時代  南京・成都……爆撃。 クラスター爆弾(ラオス爆撃)。 北朝鮮爆撃。ベトナム爆撃(北爆)。
          ガザ・ウエストバンク爆撃。

(六)シオニスト国家(イスラエル)のパレスチナでの残虐な侵略犯罪
        ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)・ナクバ(パレスチナ人虐殺)
   イギリス国家の侵略犯罪
   ドイツ国家の侵略犯罪
   日本国家の侵略犯罪

   1898年9月2日 マフディ戦争 オムダーマンのたたかい
   1939年2月~1945年8月 国民国家日本政府・軍・企業が、海南島で侵略犯罪
   1948年 シオニスト国家(イスラエル)がパレスチナで残虐な侵略犯罪を実行
       ナクバ  パレスチナ人の村をシオニストの軍隊が500以上破壊・占領し、パレスチナ人を追放し、地名を変更。
   1987年6月28日 サルダシュㇳ  死者13人、住民12000人の8000人が被害。
   1988年3月16日 ハラブジャ  死者3200~5000人、負傷者7000~10000人

   朝鮮で
     済州島四・三虐殺(1948年4月~1949年5月。犠牲者3万人~6万人。
     聞慶虐殺(1949年12月24日。韓国陸軍第2師団第7中隊第2小隊第3部隊による住民虐殺。住民88人を射殺)
     韓国の獄中者を韓国政府・軍。・警察が大虐殺(「補導協会員大虐殺」。遺族会は114万人が虐殺されたと報告
     居昌・山清・咸陽虐殺(1951年2月7日、9日~11日。韓国陸軍第11師団による住民虐殺)
     老斤里虐殺(1950年7月。アメリカ合州国陸軍第7騎兵連隊、約300人を射殺。)
     韓国政府・韓国軍、ベトナムで大虐殺。 1966年1月23日~2月26日にかけて韓国陸軍首都機械化歩兵師団(猛虎部隊)は南ベト
    ナムビンディン省タイソン県タイビン村(当時の名は平安を意味するビンアン村)15集落の村民1004人虐殺(ベトナム戦争後、
    栄光を意味するタイビンに変えた)。 2月26日に猛虎部隊、ゴダイで住民380人をすべて虐殺。1968年2月12日に、韓国海兵隊
    第2海兵旅団(青龍部隊)第1大隊、フォンニィ・フォンニャット村で村人76人虐殺。2月25日に韓国海兵隊、ハミ村で子ども・女性・
    老人135人虐殺。

(七)平和・戦争
   パクスロマーナ
   パクㇲブリタニカ
   パクㇲアメリカーナ
   日本の平和(日本国憲法。第一章「天皇(1條~8條)」を前提として第二章「戦争の放棄(9條)」)

(八)海南島で
   万人坑・千人坑・強制連行  石碌鉱山、港、鉱山 「朝鮮村」
   住民虐殺 沙土・月塘村
 
(九)コミューン、ソビエト、起義
   1848年:パリコミューン
   1917年:ソビエト
   1927年11月~1928年2月:海陸豊蘇維埃(海陸豊ソビエト)
   1927年12月11日から3日間:広州起義・広州公社(広州コミューン)

(十)ナショナリズム
   インターナショナルリズム