ICT工夫
全ての自由を奪えても、自由を求める自由だけは奪えない
  だからネットの使い方も 工夫 したい こうふ のブログ




昭和20(1945)年3月10日、東京大空襲の日です。私は話に聞くだけで現実は知らない。私のふるさとにこんなページがありました。
「ガラスのうさぎ」の読み聞かせ~石濱朗氏の語りつぐ戦争体験~、2005年度の記事、「山梨県の三ッ峠というところに学童疎開・・・」 へぇ、そうだったんだ、石濱朗さんはそんなお歳だったのか、とかあらためて歳月を感じます。
「東京大空襲による駅舎の崩壊後、1951年に 北池袋駅として再開・・・、駅は知っていても由来までは知らなかった。

東京都としてもいろいろあるらしい、3月10日は「東京都平和の日」記念行事を実施して、【東京空襲資料展】、そういえばこの写真にある防毒マスクというのが友達の家に残っていたのを思い出す。かぶるとゴム臭くて気持ち悪くなったことが思い出されました。日本に毒ガスが投下されたという話は聞いたことがないけど、当時はそんな危機管理も考えていたのですね。
はるか山梨にいるけど今日は鎮魂の日として静かに過ごそうか。

映画「明日への遺言」「休暇」とともに見ておきたい映画として TO DO リストに追加。映画「明日への遺言」公式ブログ
「ガラスのうさぎ」は映画を見たような記憶があるけど本を探して読んでみたい。しかし、「火垂るの墓」とかも同じで、つらくてとても読み通せないだろうなと思う。

甲府空襲の日にも8月15日、12月8日にもいつも思う、今ここに生きている、生かされている自分が決して妥協してはいけない事はなにか、それは「過ちは繰り返しません」を妨げるシステムを許してしまうこと。学生時代にオマエはウヨクだからとサヨクの友人達からも一目置かれていた自分の根底にあるものを守り続ける。

「あしたへの遺言」も「休暇」もホームページ作りとして、Webウヨクの私テキには賛成できない、でもこれが時代の流れ、もしかして「いつか来た道」なんだろうね、シチュエーションはまったく異なるけど、ICTって何だろうと立ち止まって考えずに新しいもの、見栄えの良さに突っ走るWebサヨクな人々の現状です。

夕方に追記-毎日新聞 東京夕刊の記事が読めました、『東京都墨田区横網の都慰霊堂で、空襲と関東大震災の「春季慰霊大法要」(東京都慰霊協会主催)が開かれ、約400人が参列した。法要には常陸宮さまご夫妻や石原慎太郎都知事も出席。石原知事が「世界平和を進め、多くの人が安心して暮らせる首都東京を創造することを改めて誓います」と追悼の辞を述べ、常陸宮さまご夫妻や遺族の代表が焼香した。』(合掌)

21時~23時にTBSで「シリーズ激動の昭和 3月10日・東京大空襲 語られなかった33枚の真実」が放映された。このドキュメンタリードラマの基になった石川光陽氏の写真も掲載されたWebページがあった-「東京写真紀行」というホームページの中に関東大震災の記録とともに保存されている、「東京大空襲」、このホームページには「東京大空襲・戦災資料センター」の紹介ページもある、甲府市のある「山梨平和ミュージアム」と同様な施設だが私は知らなかった。

3月17日・18日は二夜連続で日本テレビ開局55年スペシャルドラマ-「東京大空襲」が予告されているがこのWebページは更新中と思える(10日夜)
この東京大空襲の他にも甲府空襲など日本全国に無差別市民殺傷空爆を指揮したカーチス・ルメイに日本政府が勲一等旭日大綬章を授与している事がTBS番組のラストに流れた。Wikepediaを確認したら1964年のこと。第一次佐藤内閣の時だったのだ、なるほどそういうことか。1972年同じ佐藤栄作により沖縄返還となった。

石川光陽氏が歴史の記録として保存した写真を初めて見たB29搭乗員の顔やコメントをTBSは流した。いまや80歳以上の高齢になった彼たちはその翌日から何を思いつつ過去の栄光に満ちていると信じていた人生の最期を迎えるのだろうか。
歴史の記録とは時に残酷なものである、インターネット時代はなおさらだ。自分のホームページをいかに飾っていても歴史はその他多数のホームページやブログに着実に刻まれ続けている。



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