ICT工夫
全ての自由を奪えても、自由を求める自由だけは奪えない
  だからネットの使い方も 工夫 したい こうふ のブログ




2008年3月3日に甲府城の歴史についてビッグニュースが飛び込んできました。とりあえず読めた記事を引用しておきますが、1660年頃に描かれた甲府城の様子のようです。4代将軍徳川家綱の時代、寛文年間の初期になるでしょう。寛文元年(1661)には徳川(松平)綱重が甲府藩主となっています。その時に江戸から同道した絵師が命じられて描いたというものかと想像できます。

豊臣家臣の浅野長政・幸長により甲府城が完成したのが1600年頃で、その後は徳川の下で城代、城番制の施政、綱重が初めての城主・・・という歴史だったと私は理解しています。

もう一枚城下町の描かれた1724年前後の絵は、徳川吉宗の時代、1724年8月は柳沢吉里が大和郡山に転封され甲府勤番が設置されて甲斐が天領となった時期に一致します。この絵図もそのような政治的な変動から軍事的な意味も含めて城下の委細を確認する資料だったという想像が出来ます。

お堀に石を投げ込んだだけで水深を計っていると疑われてお縄になる時代でしょう、以上のような推測をすれば二枚の絵図は単に町絵師が好きで描いたような物ではなく、時期的にも政治的・戦略的意味を持つ正確・精密な考証によるものと考えることが出来ますから、実に貴重なものということになります。専門家の皆さんの報告書が楽しみです。

UTYニュース) 甲府城の絵図が新たに見付かりました。 これまで確認されている甲府城の絵図の中では最も古いものと見られていて、これまでの歴史とは違う発見もありました。 新たな絵図の存在は、きょう開かれた甲府城跡の保存活用策について検討している委員会の席で明らかにされました。 絵図は京都大学工学部の建築系の図書館で先月22日に確認されたばかりのもので、1枚は、1660年代よりも前の甲府城の様子を描いたものと見られる「甲府城並近辺之絵図」。 これまでに確認されている絵図の中では、最も古いものです。 甲府城内の様子とともに、堀や石垣の大きさや長さが詳しく書かれているのが特徴で、これまでに発見された絵図にはない記載だということです。 絵の中には、「天守」という文字は見られるものの、天守閣の絵は描かれておらず、残念ながら、直接的に天守閣の存在を示す証拠にはならないということです。 しかし、甲府城の東に復元された稲荷櫓の北にこの時代には、別の2つの櫓があったことが、初めて絵図で確認されました。 このほかにも、県庁本館西にあった石垣は、一部が土塁であったことや、これまでと形状が違う部分があることも判明したということです。 またもう一枚は、1724年前後のものと見られる「甲府城下絵図」で城下町の様子が描かれています。 委員会では、今回発見された絵図についても調査を行い、新年度にまとめる報告書に載せることにしています。

NHK山梨のニュース) 江戸時代の甲府城を描いた絵図が新たに見つかり、なぞが多い築城当時のようすを明らかにするうえで重要な手がかりとなりそうです。 これは3日甲府市で開かれた甲府城の復元について検討する委員会で県の担当者が明らかにしたものです。 絵図は京都大学に保管されていたということで、先月、県の担当者が専門家といっしょに存在を確認しました。 委員会では江戸時代の17世紀中ごろに制作されたと見られる絵図のコピーが示されました。 絵図には本丸を中心にやぐらや石垣、それに堀などの配置が詳細に描かれています。 甲府城は16世紀末の安土桃山時代に築かれたとされていますが、江戸時代前期までのようすを伝える資料はこれまで文書しかなく、重要な手がかりとなりそうです。 しかし、当初はあったといわれている天守閣については描かれておらず、委員会では絵図をさらに詳しく分析することにしています。 委員会では新年度、平成20年度中に築城当初の甲府城と周辺の城下町の具体的な姿について報告書をまとめることにしています。

YBSのニュース) 1660年ごろの甲府城の様子を細かく描いた絵図を京都大学が所蔵していたことが分かった。絵図の信憑性は高く、江戸前半期の資料として今後の学術調査への活用が期待される。これは甲府城跡保存活用等調査検討委員会に県教委が報告したもので、京都大学に収蔵されたこの「甲府城並近辺絵図」は江戸前半期の1660年ごろ、当時の絵師によって描かれたと見られる。建物や石垣など一つひとつが細かく描かれ、その大きさなども書き入れられている。稲荷曲輪の部分には稲荷櫓以外にこれまでの資料には見られなかった2棟の櫓も記されている。またこの絵図では天守台は確認できるものの、天守閣の建物はなく、この時代には存在しなかった可能性もあるという。このほか1724年の甲府城下を描いた絵図も見つかっていて、委員会では詳しい調査を進め、来年度まとめる調査研究報告書に反映させる方針。

いや~お蔭様で徹夜仕事の眠気がふっ飛びました(^o^)

補足です・・・私のホームページからリンクしていますが、山梨県埋蔵文化財センターの「甲府城研究室」が甲府城について情報が豊富です。ちなみに、山梨の遺跡展2008が3月15日から始まりますのでホームページをご確認ください。
山梨県文化振興・文化財課にお尋ねしたところ、「甲府城跡保存活用等調査検討委員会」(萩原三雄委員長)のホームページはまだ無いことを確認しました、この委員会は平成17(2005)年6月に山本前知事により設置され「甲府城天守閣」の復元実現に向け具体的な準備を計っているものとのことです。今回の絵図発見がいち早く山梨県に伝えられたのも、このような委員会の活動が全国の関係機関には知られていたからと思います。ホームページが欲しいですね。
山梨日日新聞と、読売新聞山梨版にも記事が出ています。読売新聞によれば、『絵図は、これまでの資料や描かれた内容から、1660年以前に制作された可能性が高い。また、緻密(ちみつ)な描写などから信ぴょう性も高いといい、県教委は「当時、江戸にいた領主などに、甲府城や城下を紹介するために絵師に描かせたのではないか」と推測する。』との事です。私の勝手な推測は上に書きましたが、当時江戸にいた領主とは誰を指すのか私には分からないので今後調べてみます。 教育委員会が新聞社に提供した絵図の写真は教育委員会のホームページで是非公開して欲しいと願います。それがきっかけでまた新たな情報が見つかるということもある訳です。山本勘助の実在が証明された文書発見のきっかけは北海道の方が見ていた大河ドラマだったのですから。甲府駅北口広場の再検討でも活躍された「山梨県考古学協会」からも関連情報が発信されるかも知れません。



コメント ( 0 ) | Trackback ( )