高砂港の修築(2) 松右衛門仕法で
港の水深の浅い飾磨湊(しかまみなと)でも川浚えが行われ、大型船の入津をはかっており、これは干鰯(ほしか)の取引を活発化する意図があったと考えられます。
高砂が、飾磨津や室津と競合するためには、港の保全・改修は緊急の課題でした。
また、姫路藩も当時積極的な国産振興策をとっており、客船入津は、好ましく積極的に対応する姿勢をとっていました。
翌、文化5年(1808)閏六月頃には川浚えの実施がほぼ決まり、同8月には家老・河合道臣(後に隠居して河合寸翁を名のる)以下が高砂に検分に訪れ、藩の財政で行う御手普請(おてぶしん)に準じた取り扱いで、川浚えを行うことになりました。
この時の工法は、「松右衛門仕法」といわれており、工楽松右衛門が重要な役割を果たしました。
高砂から、入用銀250貫目の拝借が藩に願い出ましたが、これはかないませんでした。
そのかわり高砂の諸運上銀年32貫目が三年間下げ渡され、つまり減税となり普請(工事)に必要な砂・石は領内から調達することが許されました。(「姫陽秘鑑」)。
また、高砂に移住して普請世話人・棟梁となった松右衛門は、月々二俵の米を藩から与えられ、文化7年(1810)には、御廻船船頭として召し抱えられ、五人扶持に直されて金10両が給付された。(no4514)
*底捲き船(当時の浚せつ船)の図(『高砂市史・第五巻・近世資料編)』より
◇きのう(10/13)の散歩(10.524歩)