ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

加古川町探訪:褶墓(ひれはか)

2007-01-23 17:09:55 | ヤマトタケル

825548d5_1   10月13日のブログ「ナビツマの島」と一部重なる。

  日岡山のハイライトはなんと言っても山頂のご陵である。

  そこに眠るのはヤマトタケルの母・稲日大郎姫(いなびのおおいらつめ)である。

*古事記では別嬢(わきいらつめ)として登場するが、同じ人物である。

  やがて、稲日大郎姫は他に比べる者もない、それは美しい女性に成長した。その噂は、時の天皇(景行天皇)にも聞こえ、やがて結婚して幸せな生活を始めた。

*詳しくは、上記のブログを参照されたい。

  幸せな生活は長く続かなかった。やがて、稲日大郎姫は亡くなった。そして、日岡山に葬られることになった。

  ところが、その時事件がおこった。彼女の遺骸が加古川を渡る時、突如つむじ風がおこり、遺骸は、たちまちのうちに川にのみこまれてしまった。

  後には、櫛と「ひれ」(天女等が背からまとっている布)がみつかっただけだった。

  そのため。その櫛と「ひれ」が、ご陵に葬られた。そのため、ご陵は「ひれ墓」とも呼ばれている。

  こんな話が『播磨風土記』にある。

  「つむじ風の正体」を考えてみたい。それは、ヤマトの勢力の進出を望まない一部の抵抗であったのかもしれない。

*写真:戦前の日岡山ご陵(『写真集・加古川』玉岡松一郎編)より。現在のご陵は、1月17日のブログを参照ください。

コメント
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