【午睡と夏時間】

【午睡と夏時間】
 

 祖父母の家は静岡県清水市大内を流れる巴川沿いにポツンと一軒だけある瓦工場だった。子ども時代のかなり長い期間をそこに預けられて過ごし、幼稚園も田んぼの中のあぜ道をたどって通った。
 職人一家の朝は早く、午前5時には叔母が竈に薪をくべる音が聞こえて朝餉の支度が始まり、午前6時には家族全員起きてきて朝食となった。朝食を終えて午前7時前には住まいに隣接した瓦工場で力仕事を始まり、午前11時になると仕事を中断して昼食となった。
 そして午後は3時半頃から祖父母、子どもたち、大人の男という順番で入浴し、4時半頃から風呂上がりの晩酌が始まり、5時には家族全員揃って夕飯となった。そして午後9時頃までには灯りを消して就寝しており、そういう夏時間のような暮らしを四季を通じて一年中していた。



静岡県清水。
江尻船溜まりで回っていたペットボトル風車。

 午前11時からの昼食が終わると、祖父や叔父は1時間ほど昼寝をするのが日課で、真昼に大人が寝ている姿を不思議な光景と思うことが多かった。
 満腹になると誰でも眠くなるけれど、激しい肉体労働をする者は眠ることで疲労回復を図っているのかもしれなくて、都会の作業現場でも道端に横になって昼寝をしている労働者の姿をよく見る。



剪定した葉っぱの上で昼寝する植木屋。
地上とはいえ木の上にいるような器用な寝方は感動的でもある。

 食べてすぐ寝ると牛になると幼い頃から親たちに口うるさく言われた。
 食事のあとすぐに労働することは身体のために良くなくて、安静にして過ごすのが良いのだけれど、食べてすぐ横になることは確かに身体に良くなくて内臓の病気の原因になるらしい。できれば安楽椅子のような物に腰掛け、上体を起こして昼寝をするのが理想なのだけれど、そんな洒落た物はないので祖父は牛になるのを覚悟で座敷に横になって眠り、叔父は仕事場に積み上げられた藁の山に寄りかかって眠っていた。静かな真昼の想い出だ。

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【生活の柄――生家にさよなら】

【生活の柄――生家にさよなら】
 

 2005年8月に母が他界してから無人となり、丸四年近くかかって片付けていた実家の解体作業が始まり、6月15日には清水銀行入江支店で売買契約をし、静岡県清水に自分の家がなくなった。
 自分が生まれた年に建てられた家なので同い年の木造家屋であり、地震や火災でご近所に迷惑がかかることが心配だったので、正直ほっとした気持ちの方が強い。実家片付けを手伝ってくれたたくさんの人たちに感謝したい。



左端は5/30鍵引き渡し直後の生家、
右2枚は6/15解体中の生家。

 実家解体と売却が決まったので平日に帰省しなくてはならないことも多く、仕事の取引先にも事情を話して予定変更をお願いすることも多かった。
 そういう中で気づいたのだけれど
「家がなくなるのってさみしいですよね…」
と語りかけられることが多く、それが決まって女性であり、こちらを見る目がウルウルしていたりするのを不思議に思った。こちらの家庭の事情を知っている人でもないので、女性は家がなくなるという事に対して、男より感情が激しく共振するのかもしれなくて、脳の構造まで遡らなくても、アリとキリギリス程度には性格の差があるのかもしれない。



1967年、母は裸一貫でこの町にやって来て飲み屋を開いて息子を大学まで出し、
残ったお金で自分が息子を産んだ家を買い取った。
6/15清水旭町にて。

 実家がなくなることに関して過剰な感傷がない。母親との懐かしい想い出の詰まった屋根があるとすれば、物心ついて東京に出て清水に戻るまで、貧しさという風呂敷包みをぶら下げ、貸し間や貸し家を転々と移り住んだ町の空がそれであり、見上げて気持ちのよい空が頭上にあれば、懐かしい人々と暮らしたあの屋根の下に今もいると感謝することが多いからだ。男にはそういう生活の柄が仕組まれているかもしれない。



6/15左から、清水船溜まりを出て行く船、
新規開店した宮本商店の朝食、
人生劇場的空間が良いと思う宮本商店全景。

 10時半の契約に遅れてはいけないので、8時ちょっと過ぎに清水駅に到着し、清水魚市場あたりにある食堂で朝食をとろうとしたら、新しい食堂が6月1日に開店していた。
 
 貸し間や貸し家を転々と移り住んだ母が
「あんたは世話の焼けない子で助かった」
とよく想い出話をしていた。どう世話が焼けなかったかというと、清水から東京駅、上野駅を経由して父親の実家があった仙台までたどり着く鈍行列車の旅でも、じっとトイレを我慢して泣き言を言わなかったからだという。それは今でも変わらなくて、緊張した外出だと半日の間一度もトイレに行かないことが多い。そのかわり弱点は緊張がゆるむと急にトイレが我慢できなくなる。
 緊張している自覚はないのだけれど、清水・静岡間の往復でも途中でトイレを使うことがなく、清水から帰京する際も、東京から帰省する際も、自分の家に着いた途端に緊張がゆるんで、すぐにトイレに駆け込むことが習慣になっている。



6/15、しずてつストア駐車場脇にある列車の止まらない仮想「いりえ駅」。
東海道線開通時には江尻駅ではなく入江駅がこの場所にできることになっており
土地買収まで進んでいたのだ。
ここにはあり得なかった違う清水市の未来がある。

 清水魚市場近くで朝食をとり、入江めざして歩いていたら、もう駆け込む自宅のトイレがないことに気づいてちょっと茫然とした。茫然としていても解決しないのでどうしようかと考えてみたら、浜田踏切脇のしずてつストア開店時刻なので、チップがわりの買い物をしてトイレを借りた。
「家がなくなるのってさみしいですよね…」
と、かけられた言葉と同情に満ちたまなざしを、青空の下で現実的に思い出した。

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【史上最低の作戦】

【史上最低の作戦】
 

 郷里静岡県清水の実家が売却のため解体中なので、帰省しても帰る家がなくなった。帰る家がないということは旅人になったということであり、ずいぶん持っていく荷物が増えた。



静岡駅前にて。

 6月12日、隣家との土地境界線確認のために帰省したのだけれど、中学校で一年先輩のご夫婦が、住まいの二階を片付けて、これからの帰省時は泊めてくださるという。散らかっていた二階の物置が片付いたら、庭に面した明るい部屋だったことがわかり、窓を開け放って外の空気を入れておいてくれたらしい。その部屋にひとり布団を敷いて寝たら、外の空気に乗って蚊が入りこんでいたらしくて、手足の痒い場所ばかり狙って刺すので痒くて眠れない。
 手足を刺されないよう毛布の中に引っ込め、左耳を下にして横になって目を閉じていると、「プーーーン」と敵機が右側頭部に襲来するのがわかるので、右耳に最接近した頃を見計らって「バシッ」と右耳のある右側頭部を叩く。「やったっ」という確信があるのだけれど、しばらくするとまた「プーーーン」と敵機が右側頭部に襲来するので「バシッ」と叩く。そんなことを繰り返しているうちに右側頭部が痛くなり、時計が午前3時を回ったのでトイレにおきて別の作戦を考える。
 部屋に戻って灯りを付けたまま仰向けになったら、上空を敵機が旋回しているのが見える。じっと目を凝らし、手の届く距離に近づいたところで宙を掴むように鷲づかみにして布団にたたきつけ2機を撃墜した。
 敵機の姿が見えなくなったので枕元を見たら右側頭部叩き作戦でも2機を撃墜していたことがわかった。「やったっ」。



6/13、静岡県清水入江南。入江商店会眞長薬局にて。

 一晩かかって計4機を撃墜したが、こちらは両手を8箇所ほど刺されて痛がゆく、とても勝ち戦とは言い難い。ふと気がつくと時計はすでに4時半を回って空が白み始めており、棚の上から笑いかけるように、渦巻き蚊取り線香の缶があるのが見えた。

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【戸田書店の栞】

【戸田書店の栞】
 

 静岡県清水の実家が解体取り壊しになり、解体直前の片付け帰省で、中学高校時代集めていた戸田書店の栞を持ち帰って来た。
 戸田書店で本を買うと花森安治が描いた図案が印刷された栞がはさまれてくるのは今も変わらないけれど、僕が中学高校生だった頃のそれは、色紙に特色インクで印刷され、穴をうがってスピン(人絹の紐)が結びつけられているという手の込んだものだった。昔は栞というとたいがいこの形式だったのだけれど、最近は文庫本からもスピンがなくなってしまい、もう新潮文庫くらいにしか残っていない。



紙と紐とガラス製鉛筆立て。

 戸田書店で貰う栞は定期的に色が変わり、いったい何種類くらいあるのだろうと気になって、勉強机に置いたガラス製鉛筆立てにさして、色別に分類して確かめていたのであり、それが鉛筆立てに入ったまま実家の物置に残っていた。あらかじめ何種類か色の組み合わせが決められていて、在庫がなくなり印刷所に注文するたびにローテーションさせていたのかもしれなくて、こうしてある程度の枚数がまとまってくるとバリエーションの全体像らしきものが見えている。ちょっと大げさだけど。
 僕の中学高校時代というと1967年から1972年にかけてであり、その前後の栞にもっとほかのバリエーションがあった可能性もあるけれど、少なくともの6年間に貰った栞が分類され折り重なって堆積してみると、地層のようにくっきりとした時代の断面にも見える。うんと大げさだけど。



戸田書店の栞たち。
右上が現在のスピンなしバージョン

 大好きな生まれ故郷にある書店の栞であること、花森安治による素朴な図案が好きなこと、親のすねをかじって買ってもらた本のおまけであること、そうやって守り育てられた思い出への手がかりであることによって、いつまでも生家に置いておきたかったし、いつまでもこの状態で本棚に置いておきたい、紙と紐とガラス製鉛筆立てによる小さなオブジェとなっている。

   ***

 6月13日追記。
 ブログを見て清水の友だちが家庭内栞調査隊となり、嫁ぎ先の本棚にある文庫本に挟まれていた戸田書店の栞を探し出し、写真に撮って送ってくれた。日当たりのよい場所にあった本棚のようで、文庫本からはみ出したスピンが退色しているのが味わい深い。



家庭内栞調査隊が見つけた戸田書店の栞たち。

 びっくりしたのは僕の持っている栞に、電話番号や「清水・静岡」や「清水・静岡・浜松」などと追記されたバージョンがあることだった。もっとほかにもあるのだろうか。

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▼メモ

 親に付き添っての病院通いが始まる友だちに

「ペンと手帳を持ってしっかりメモをとるように」
と言おうと思ったけれど、メモの効用など人それぞれなのでやめておいた。
 大学時代の友人に仕事を依頼し、久しぶりに会ったらメモをとっているので
「昔はメモもとらず大丈夫かと思っても、必ず約束を守るんで感心したもんだけど、そうか、最近はメモをとるんだ」
と笑ったら
「昔はメモなんてとらなくても絶対忘れなかったのに、最近は忘れっぽくてダメなんだ、そっちもだろう」
と笑い返してきた。その通り。




上野不忍池にて。



 メモは名刺交換のような付き合い上のマナーに過ぎなくて、あなたの話をちゃんと聞いてますよ、という意思表示のためにとるのだと聞いたことがある。けれど、世の中にはメモをとられるのを好まない人もいて
「メモはとらなくていいから話しをしっかり聞いてください」
などと言う人がいるし、学校に通った時代にも
「黒板の板書なんかしないで、こっちを向いて集中して話しを聞きなさい」
と言う教師も何人かいた。聞きたくない話しからの逃避のために、逐一メモをとって退屈な気分を紛らわせているのを見抜いていたのだと思う。




アサヒビール吾妻橋ビルにて。



 病院で担当医の話しを聞きながら、逐一メモを取っていると母はご機嫌で
「今の先生のお話、ちゃんとメモをとった?お母さんは聞いても忘れちゃうから、あんたがメモしといてね」
などと何度もしつこく言い、医師の話に笑みを浮かべて相づちをうっていた姿を思い出す。母もまたメモをとらない人であり、毎度同じ話しを聞くのに飽きて、息子に逐一メモをとれとしつこく命じることで、退屈な気分を紛らわせていたようにも思える。

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▼朝の変態

 人間というのは朝起きた瞬間は、一人ひとり最も個性的な心のあり方をしており、いつも通りの朝が来て日常に沿って時間が経つうちに、次第に世間との折り合いのつく、没個性的な精神の持ち主に変態していくのではないかと思う。

 東京駅日本橋口、午前8時39分到着の高速バス清水ライナー号に乗って上京する友人夫婦を出迎えるため、久しぶりに通勤ラッシュの山手線に乗った。車窓から見るどの電車も、人が乗車口に押しつけられるような満員状態であり、そういう辛いラッシュで押し合いへし合いしながら、人は心身ともに世間からはみ出さない心の持ち主に変態を遂げて、職場にたどり着くということを、毎日繰り返しているのかもしれない。




友人夫婦を待つ東京駅日本橋口風景。



 学生時代、泊まり込みのバイトがあけて朝の街に出ると、喫茶店のモーニング・サービスで朝食をとるのが楽しみだった。
 どの店も出勤途中の客のため、コーヒーにトーストやサラダやゆで卵をセットにして格安で振る舞っており、その名に相応しい、朝の謝恩サービスのようだった。友人夫婦を待つ間ぶらぶら歩いていて見つけたモーニングセット。380円で飲み物をセットにすると630円だとあり、ずいぶん高いなぁとびっくりするけれど、正直にサービスという文字はない。




東京駅日本橋口のモーニングセット。



 東京駅八重洲口から湾岸に向かうバスに乗ったら友人が
「東京はいっぱい人間がいる、こんなにいっぱい人間がいるのに不況とは思えない」
とつぶやくので笑ってしまう。




東京駅日本橋口に到着した清水ライナー。



 人がいっぱいいることといないことは、古い商店街から客足が遠のいていくことと同じくらい、不況とは直接の関係がないような気がするし、モーニングセットが驚くほど高価なのも、不況のせいではないような気がする。きっともっと深いところで社会が変態中なのだ。

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▼花の季節の味覚

 街のいたるところに花が咲き競うように彩りを添え、八百屋の店頭にさまざまな豆が並び、周期的に雨降りの日が巡ってきて、もう梅雨入りが近い。

 民家駐車場の車止めステンレスポールを取り去った穴に土が溜まり、そこにムラサキカタバミが咲いていた。写真に撮ってきたので家人に見せたら
「また、何か食べてきたの?」
などと言い、そう言われてみれば確かに、丸い皿に盛りつけられた食べ物にも見える。




穴の中に生えたムラサキカタバミ。



 仕事でお世話になっている方の妹さんが福井県小浜の商家に嫁がれ、そこで作られている若狭名産小鯛笹漬けがクール宅急便で届いた。毎年、笹入りの木製桶に漬け込まれた美しい小鯛が届くのも、ちょうどこの季節だったことを思い出した。東京で売られている小鯛笹漬けより格段に素朴でおいしいのだけれど、作るのにたいそう手間がかかるという。年老いた先代が働けなくなったら商売をたたむことにしているそうで、そんな話しを聞くと、今年は去年よりまた少し味わいが深い。お礼の便りを書こうと思い、この丸い皿に盛りつけられたようなムラサキカタバミを印刷してハガキにした。




左から、ビヨウヤナギ、キョウチクトウ、トケイソウ。



 もう何年前だろう、こんな花の季節に、静岡県清水柏尾にある特別養護老人ホームに入所していた祖母を訪ねたら、瓶入りのウニが食べたいと言う。次の訪問時に、奮発して数千円もする瓶入り塩ウニを買って行ったら、祖母が食べたがっていたのは、ほんのちょっとのウニに小麦粉を加え、朱色に着色し、糊料で粘りけを出し、エチルアルコールで保存性を高めた安い練りウニだった。娘である母は大笑いしていたけれど、生ウニや塩ウニではなく、ウニとは名ばかりの練りウニが無性に食べたくなるときが僕にもある。年をとって食が細くなってきたら、食べ慣れた安っぽい味こそが、年寄りには恋しい味になるのかもしれない。




左から、バラ、ユリ(黄)、ユリ(白)。



 花を眺めながら散歩をし、大型スーパーに入ったら山口県産の『粒うに』『かずのこうに』『練りうに』の瓶入り三本セットが980円で売られていたので買って帰り
「どうだ、豪華うに三本セットが980円」
とテーブルに置いたら笑われた。花の季節にはそういうものが妙に食べたくなる。

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▼ドクダミあれこれ

 夕暮れ時に見るNHK総合テレビの天気予報に、視聴者から送られてくる写真を紹介するコーナーがあり、

「この白い花はなんだと思いますか」
と女性気象予報士が言う。テレビの向こうから尋ねられ答えがわからなくて首をかしげたら、答えはなんと八重咲きのドクダミなのだという。
 ドクダミは白い4枚の花びらがあると言われるけれど、4枚の白い花弁に見えるのはつぼみを包んでいた葉っぱである「苞(ほう)」なので、苞がたくさんあるからといっても八重咲きとは言わない気もするけれど
「(へぇ~八重のドクダミもあるんだ)」
と素直に驚いた。




6/6、文京区本駒込にて。
ごく一般的なドクダミの群生。



 今はちょうど匂い立つようにドクダミが開花している時期であり、6月6日は午後から雨もあがったので、買い物がてら八重のドクダミを探して散歩してみた。
 探すどころではなく、生えて生えて仕方がないというほど、そこかしこにドクダミが生えまくっており、それらの中にお目当ての苞が八重になったドクダミが群生していた。ネット上に八重は突然変異で発生すると書かれているけれど真偽のほどは知らない。




6/6、文京区本駒込にて。
八重のドクダミ群生。
中央に「苞」に包まれたつぼみがある。



 白い部分は「苞」で黄色い部分が花なのだともネット上にあるけれど、近づいてみると花びらはなくて雄しべと雌しべがむき出しになっているようにも見える。さらに八重の物はそのむき出しの雄しべと雌しべの間からも白い花びらに似た「苞」が生えており、これもまた「苞」と呼んで良いのかと疑問に思うけれど、よくわからない。




6/6、文京区本駒込にて。
八重のドクダミ。



 富山に住んでいた頃の義母は、庭にあった柿の葉やドクダミの葉を乾燥させて健康茶をつくったり、イチジクでジャムをつくって送ってくれたりして、なかなか気のきくこともしてくれたのをドクダミを見ていて思いだした。
 今はすっかり気がきかなくなって娘に叱られてばかりいる義母だけれど、義理の息子は道端のドクダミで義母の良い一面を思い出し、実の娘はいつの日か介護を終えたのち、呆けてしまった母親にも、若いころは数えきれないほどの良い面があったことを、懐かしく思い出すのだろう。

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▼片目の理由

 人にはそれぞれ左右の目のどちらかに利き目というものがあって、それは簡単に調べられ、僕は幼い頃から左が利き目なのでカメラのファインダーも、顕微鏡も、ドアの覗き穴も左目でのぞく。

 




左から、港区赤坂のバケツ田んぼでみるみる育つ稲、
赤い電車に白い帯の京浜急行が見えるビル街、
紫陽花が咲いている本郷通り。



 利き目は以前から知っていたのだけれど、最近になって、両目で見ればよいものを片目を閉じてもう一方の目で物を見ている自分に気づいた。どうしてだろうと不思議に思いつつ、意味のない癖だし、目のためによくない気がするのでやめようと思うのだけれど、ふと気づくとまた片目だけで物を見ている自分がいる。




6/5、六義園前にて。
転倒→骨折→急速な老化で命取りになるので
やめて欲しいとはらはらする見知らぬ老人。
年をとるほど、ほんのちょっとの回り道ができなくなる。



 先日気づいたのだけれど、わざわざ片目で物を見ているのはメガネを外しているときで、左右の視力と乱視の入り具合に差が激しく、いわゆる「がちゃ目(め)」なので、メガネによる矯正が入らない裸眼の時、見えにくいから片目を閉じるように脳が指令を出しているのだろう。片目で物を見る癖を自分にやめさせるには、いよいよ遠近両用のメガネにしなくてはいけないのかもしれない。

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▼為せば成る

 


 子どもの頃、念仏のように繰り返し聞かされて覚えたのが
「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり」
という上杉鷹山の言葉で、
「やりゃあできるんだからやってみろ」
と親や教師は子どもを励ましたかったのだろう。
 それでも、あまりしつこく聞かされるとうんざりするので、
「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も ナセルはアラブの大統領~」
などと言って親たちに
「ばかっ!」
と叱られていた。第2代エジプト大統領ガマール・アブドゥン=ナーセルの在任期間を調べたら、1954年11月14日 から 1970年9月28日までなので、小学生時代、確かにナセルはアラブの大統領だった。




6/4、東京都港区高輪。
JR品川駅前にて。



 母は他界する直前、自分がひとり暮らししていた家を見回して
「あんた、お母さんが死んだらこの家どうする?」
と溜息をつきながら聞き、
「片付けるよ」
と、ぼそっと答えたら
「片付けるったって並大抵の事じゃないよ」
と人ごとのように笑っていた。




6/4、東京都港区高輪。
JR品川駅前の遠近法。



 本当に片付けなくてはいけないことになって、はたして片付けきれるのだろうか、どこから手をつけたらいいのだろうと途方に暮れていたら、静岡県清水の実家近くにある大小山慶雲寺の門前に
「始めなければ終わらない」
とひとこと書かれていて励まされた日を懐かしく思い出す。



6/4、東京都港区高輪。
JR品川駅前歩道橋にて。



 半世紀以上生きていると、どうやら物事は確かに「為せば成る」らしいことは身にしみてわかってきたのだけれど、わかってくるのと反比例して為そうという気力が年とともに減退してきて、なかなか物事が成らない。
 武田信玄は
「為せば成る 為さねば成らぬ 成る業を 成らぬと捨つる 人の儚き」
と言っていたそうで、そちらもまた味わいがある。

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【つぶやき】

【つぶやき】

 両親が残した青春のアルバムを見るとき、文通によって知り合い、できちゃった結婚をした特殊な二人の生き方が、時を経るにつれて、社会的にも個人的にもたいして特殊なケースじゃないと思えるようになった。もっともっと時を経て生き続けることができるなら、人間は誰でも多かれ少なかれ同じような生き方を繰り返しているに過ぎないと、思えるようになるのかもしれない。今だから違いが大きく見える人それぞれの奇妙な境涯も、いずれは無数の人間たちが遺した、歴史の中よく似た砂粒の一つになって、時の彼方に消えていく。



5/30、静岡県清水にて。

 年上や同年配の友だちが親の介護のまっただ中におり、そろそろ年下の友だちの暮らしの中にも、年老いてきた親の介護が大きな位置を占めるようになってきた。
 自分が血を分けた親の介護のまっただ中にいるときは、自分だけが特殊な境遇にあるので辛いのだろうと思いがちだったけれど、母親の看取りが終わって数年経ち、少しだけ遠いところから落ち着いて世界を見られるようになると、誰もが多かれ少なかれ、似たような境遇の中で親の看取りの季節を迎えているように見える。



5/30、静岡県清水にて。

 親が子に対してこんな事を言うものだろうかと唖然とし、子どもなら親に対してそんなことを言うもんじゃない、と思っていたことを思わず口に出して言い返してしまい、親と子の関係の不確かさと気まずさの中で、まんじりともしない夜を過ごしたことが、自分だけの特殊な経験であったかのように今も胸の底にある。
 けれど、そろそろ介護が始まった友だち、その親子の屋根の下にも、同じような息詰まる会話があることを、ときおり届く便りで知る。高齢化と少子化の社会の中で、誰もが向き合わなければならない親子とは何かという究極の問いと葛藤。目をとじればまざまざとその息詰まるような会話を思い出すけれど、いつか時を隔てて眺めれば、それもまた、ごくありふれた砂粒のように小さな、無数の人間たちが遺した無数のつぶやきに過ぎないのかもしれない。

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▼ユリとヘボキュウリ

 

 子どもの頃から母親に
「あんたは歩き方が良くない」
となんども言われたが、具体的によい歩き方を教えて貰った記憶がないので、いまだに他人に見て貰ったら、悪い歩き方のままなのかもしれない。その証拠に、靴の底が妙な減り方をするし、たいした凹凸がない道でも良くつまずいて転ぶ。




5/30、静岡県清水大内にて。



 昔、得意先に歩く姿がユリのように美しい女性がいて、打ち合わせで出かけると広いフロアを歩いている彼女の姿を見るだけで溜息が出た。夕暮れの打ち合わせ帰りに坂道で声をかけられ、
「一緒に帰りましょう」
と言われて駅まで並んで歩いたけれど、隣りの暗がりに白いユリの花が揺れているような気がしてならず、想い出には今も甘酸っぱい香りが溜息とともにまとわりついている。
 ひとまわり年上の友人にその話しをしたら
「ああ、あのロボット歩きの娘(こ)ね」
と笑い、彼女が歩き方教室に通っていた話しは職場で有名なのだという。




5/30、静岡県清水大内の田植え風景。
腰が悪かったら辛い作業だな、と思う。



 実家の片付けの最中にぎっくり腰になって帰京したら、並んで歩いていた家人に
「なんだか背が高くなったような気がする」
と言われた。
 どうしてかな、と考えてみたらぎっくり腰になって悪化するのが怖くて、知らず知らずに背骨をまっすぐ伸ばし、振動を最低限に抑えて歩くようにしているので、そのせいですらっと背が高く見えるのかもしれない。
 そう言われてみれば少しだけ背が高くなって、目に映る景色の見通しが良くなった気がする。母はヘボキュウリのような姿勢で歩く息子を見るたびに、歩き方が悪い、どうして背筋を伸ばして歩かない、と言いたかったのかもしれなくて、ぎっくり腰のせいとはいえ、すらりと伸びたユリのようにロボット歩きをする息子を見たら、
「そう、いつもそうやって歩きな」
と、満足してくれるかもしれない。

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【おれは直角】

【おれは直角】
 

 学生時代から社会人成り立ての頃に買って読んだ漫画の単行本があり、邪魔になるので実家に送って保存してあったが、実家片付けの最後に段ボールに入れ、また東京に持ち帰った。
 それらの中に小山ゆう『おれは直角』があり、かなり買い続けたけれど全巻はそろっていない。1973年から76年まで少年サンデーに掲載され、父親の「武士道とは曲がることなく直角であるべし」という教えを胸に、一途(いちず)な生き方をカクカクッと直角につなぎながら日々を送る少年剣士の話だった。



静岡県清水。久能街道沿いのパーマ屋にいた
窓際の直角猫。

 街歩きをするときは道をあみだくじのように、何度も何度も直角に折れながら歩くのが好きで、直角に進む方向を変えると景色も気分も転換して心地よいからだ。
 かつて母親と良く歩いた久能街道。美濃輪町めざして歩く道すがら、村松原稲荷前でカクッと折れて境内に入り、久しぶりに建築家の友人に電話して今夜飲まないかと誘ったら、飲みたいけれど数日前にアキレス腱を切って身動きできないという。思いがけない事情に遭遇して、またカクカクッと気分と予定が変わる。

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▼ページ途中のエピローグ

 静岡県清水にある生家の解体が間近に迫り、解体業者が家の中に残した物の片付け費用を見積もりたいというので帰省した。

 帰省して生家のトイレを使おうと思ったら、便器がすべて撤去されてただの床になっており、家が更地になる前にトイレだけが一足早く更地になっていてびっくりした。今夜一晩泊まって片付けをするのにトイレがないと困るので頭を抱えたら、目が覚めて夢だったとわかり妙にホッとした。人にとってトイレというのはそれほどに大切なものだ。




Hallo Good-bye 入江岡



 自力で捨てられる物はゴミ収集車に持って行ってもらい、友人の車に乗せて貰って母親が借りていた物を返却し、まだ使えそうな物は近所の友だちに配り、東京に持ち帰りたい物は段ボール箱にまとめて入江岡近くの薬局から発送した。宅配便の宛名書きを見て
「あっ石原さんですね、ブログ読んでます」
と言われてびっくりした。
「4年かかって片付けて、いよいよ取り壊しです」
などと話しつつ、母の介護が始まった日から6年が経過して、清水も変わったなぁと実感する。




実家近くに咲いていたバラ



 何もかもなくなって空っぽになった家の一階を掃除し、寝袋を敷いて床で寝た。
 翌朝、1954年9月4日に自分が生まれた部屋で目が覚め、持ち物のない暮らしというのは、それはそれで爽快でいいものだな、としみじみ思う。




静鉄、東海道線、その向こうに大正橋。
ガン告知を聞いた夕暮れ時から、あの橋の上を
母と二人で途方に暮れながら何度も何度も行きつ戻りつした



 人は誰でも何の持ち物も持たずにこの世に生まれてくる。
 何の持ち物もなくなった家に鍵をかけ、解体業者に家の鍵を預け、もう一度この世に生まれてきたようなある種の爽やかさを胸に、今日からまた始まる新しいページを開く。

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