湘南オンラインフレネ日誌

フリースクール湘南オンラインフレネ学習的就労支援活動・災害ボランティアの実践を書き溜めていきます。

5/15&16 「わーくNo.054」原稿続編から(昨日より配布開始)

2015-05-17 05:36:47 | 地震津波災害ボランティア

2015/05/16 記
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**君の財産管理の後見人の件で、行政がもつれている。
安全管理のむずかしさ。

>>>以下は「わーくNo.054」のβ版原稿

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「わーくNo.054より」

(表紙巻頭記事)
**"引きこもり"青年の出番を生む
社会活動デザインと災害ボランティア**

■私たちの時代の生き難さを抱えて生きるということ■

 私たちの生きている社会は、ある定型の隙間がいくつも開いている。高速道路の路肩のような隙間なのだが、なんらかのきっかけで路肩に押し出された者は、なかなか本線に戻ることが難しい。本線では時代によっては激しく競い合っているし、ある時代、ある場所では定型の速さと流し運転でいるときにのみスムーズに流れているが、その車間に割り込むことは許されない。路肩に押し出された車が本線にもどることは、難しく危険が伴う。ましてや車軸を傷めた車が本線走行をすることは隣接車の同意と協調が必要になる。

 昔、教育系大学のシンポで、こういう比喩で「引きこもり」や「障がい」のことを語ったことがある。これにはある高校教諭の方から、路肩に根づく雑草はいけないのというもので、なるほどねと思った。しかし私には、なぜ高速道でなければならないのかという問いを発しない会場を眺めていて、「路肩の雑草」モデルにうなづいている方は、圧倒的に会場係の年配女性に偏していることに気がついていた。私の語った高速道モデルは「”公”の社会」、路肩の雑草モデルは「”私”の社会の一部」だと思う。社会が協業の隙間を残しているのは私生活の社会だ。路肩に押し出された者がかろうじて息をつなげる隙間がそこにある。

 私生活の世界に私たちの生活観を拡げて行くことも道だと思うが、私はなぜ高速道なのかという問いを忘れてはいけないと思うのだ。現在の公的社会は建前上、高速走行ではない走行と個性的な走行を容認する方向に舵を切ったが、非寛容と前方侵入を嫌う状態は変わらない。

 「引きこもり」「不登校」の若者には、自然と押し出されてしまった子と同時に、抜き差しならない事情から路肩にはみ出した子がいる。その子が走り出すためには、まずは協業の環境を、次にICの進入経路のような緩衝帯の設置、ICの増設を行っている。居場所という野球で言えば「ファーム」を持つ集団はファームを、湘南に場を持たない私達は「訪問対話」と「会員制夜間傾聴」を行っている。車線に戻る活動として「就労支援」・「社会参加活動の推進」を行っている。

 特に3.11の災害ボランティアは、極端な命のはかなさと、生活のしぶとさを引きこもりの若者に問いかける場面があり、また失礼なことではあるが支援者に「必要とされる」場面を提供してくださる場でもあった。「ひとは他者に働きかけるときに情熱的となる存在」であることを、どんなに不器用でも独自の本線走行を保障する活動を続ける。そういう社会活動モデル(出番)を浮きあがらせていきたい。すでに十数年を経ている細々とした活動だが、今年度もまた続けて生きたいと思う。
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★★「金曜ミニ・カフェ・レポート(2)★★
~5/8 「未来への教科書#90 長洞元気村の挑戦~」
   「笑顔で生きる仮設住宅・陸前高田旧米中仮設」

●今回は岩手・陸前高田市の2つの仮設のコミュニティ作りだ。福島のように、遠方分散避難の場合と、宮城・石巻市のように、仮設が抽選入居で人工的に独自の新規過渡的コミュニティをつくる場合など、仮設のコミュニティの様相は様々だ。
●今回紹介されている陸前高田の仮設コミュニティは、家屋損傷のため集落に建てられた仮設のコミュニティであり、被災前とコミュニティが変化していない特徴がある仮設のレポートだ。長洞仮設と、市内隣接5ヶ所から集まった旧米崎中学校庭の仮設(米中仮設)が熱心なコミュニティ活動を行っている、その活動の紹介だ。見事に拍手を送りたくなるような地域の結束がそこに描かれており、福島の分散避難生活の浮き草のような心もとなさや、石巻の広域抽選入居の孤独感とは空気が違う。
●しっかり顔を覚えてもらうとわかるが、レギュラーがあちこちの仮設内企画に出ずっぱりだ。長洞仮設の方が災害復興の難所を見通しているが、一方、米中仮設は、活動密度が濃い。地元の絆の強さを見るようだ。しかし、ハイ・テンションな活動なのだ。
●仮設は歯が抜けたように、入居者が転出していなくなる運命にある。ところが長洞仮設は家の再建ができても、彼ら家族は同じ長洞集落に残る。米中仮設も、昨年地元中学校が合併して、過疎化の難を抱え、一方では工業化農業を企業が持ち込んで混沌を抱える変動の強い地域だ。そういう事情を加味して映像をみていると、田舎の24時間筒抜け生活の中で復興活動がハイテンションで行われており、大丈夫なのかと心配になる。絆は両刃の剣なのだ。濃厚な人間関係が、一面では互いを支える力となるが、反面介護や子育てなどの事情で参加できなかったり、若者の流出を食い止められなかったりとすれば、その指導も地域の噂となるだろう。工業化農業の拡大の受容をめぐっても、矛盾の火種はくすぶっている。
●活動の中心は中高年で、上は80代の高齢な方も元気だ。田舎の特色は高齢の方が元気なことだ。しかし仮設の舞台裏には寝たきりの方もいるし、障がいを抱えている方、ラジオ体操の愛斗君のような学齢期の子がほとんど登場しない。
●他の地域の模範(モデル)にするには、爆発しそうな風船を手渡しているような不安感を覚える。祭りの前日のような緊張が日々続くことは、用心がいる。幸い長洞には、状況が見えている優れたナビゲータがいる。しかし米中仮設は見ていて不安になるものを感じる。
●仮設転出期の課題として、高層復興住宅に再編されるコミュニティの公と私のバランスは大きな問題だ。湘南のような都市・近郊型災害だったとき、東北のコミュニティ再編から何を学ぶべきか改めて考えている。阪神淡路大震災を吟味する必要がここにあるのだ。

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<連載>個人医療情報QRカードの検討/014「マイナンバー医療情報メモリ」と「QRカード」の住み分けについて(上)


●個人医療情報QRカードは、希望者が所持する任意の災害対策カードだ。病歴・使用薬名・医療心身情報の項目を自主選択して作られる。いわば「お薬手帳」の常時携帯カード版だ。被災し安全避難が確保された時点で、薬の名前や、かかりつけ医による治療上の注意などを、災害医療の現場に情報提供するツールとなる。曖昧な記憶補助だけでなく、自己表現に難のある意識を失った者・障がい者・乳幼児・認知症等高齢者等の医療情報となる。また避難所では家族への生存連絡効率化や、配給時の抜け落ち防止・アレルギー事故防止ツールになる。またカルテ作成時の高速化になる。

●災害時にはICカードや磁気カードのような「リーダー」を医療関係者分準備することが難しい。ところが携帯電話・スマホのQRカードリーダーは、標準準備されており、これを利用して,応急処置後の傷病者の医療情報を利用することができる。QRコードは、各診察機関が処方箋添付シールの形で提供され、料金支払い時にカードにシールを貼る形で配布される。QRコード化は手書きカードよりは、直接読めない程度でプライバシー保護に配慮したことになる。QRカードは、お薬手帳がわりの「医療」コード、マイナンバーで代行可能な姓名・血液型・住所・連絡先等の「基本」コード、「銀行通帳番号(PWにあらず)・各保険証番号・献体・延命処置の可否等」の「備忘録」コードの3種からなり、「基本」と「医療」、「医療」と「備忘録」(「基本」はマイナンバーカードが代行)の組み合わせQRカードと、障がい者団体が作成しているSOSカード(障がい理解を進める情報カード)に「備忘録」コードを貼り付ける形で利用する。

●ここでは心身の医療情報という深いプライバシーの保護のことを考えたい。マイナンバーカードは行政機関が発行するカードだ。しかし、QRカードをそこに合流させるには、情報流出や、国家
の個人情報一元管理の弊害も予想される。そのために、行政とは別個の公益法人や、医師会や
民間NPOが管理運営することが望ましい。プライバシー保護のことは、次回の記事で続けて考えていく。災害保健と個人情報管理の対立を解く鍵を考える。(続)

------- ここまで --------

夜間傾聴:開店休業(問題発生中というのに…)

(校正1回目済み)

 

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