2016/10/18 記
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案の定、母は起きてこない。昨日の葬儀が効いているのだ。予測して橋本の学習指導は日送りしておいたので、机上作業日と割り切ることにした。
そこで奈良**大MLの古株連中に禅問答を問いかけたのだが、それは「現場の経験」とは何なのだろうかという問いだった。わかったようでわからない。バトンは受け取る意志がなければ途絶えてしまう知恵。
つまり私は「懇話会」の価値のことを問いかけたのだが。従来の一般講演は、観客が口開けて情報食料の詰まるのを待つかのごとくの形態を取りながら、実は盾の裏側に隠れて、つまみ食いをすることなのではないか。そこに「現場の経験」の生身は取り込まれていくのだろうかという批判があって、「現場の経験」を持つゲストとの対話、つまり「引き出し交流」を望んだのだった。しかし、実態は「何を問いかけていいのか」わからず、一般講演のように情報提供を待っているのだ。
回答は大半が「大切なもの」という的をはずしたものだったが、ひとり、「言葉はもともと、『通じないもの』」とし、「引き渡されるのは、制度化を媒介したものでしかない。」という割り切った回答をいただいた。
ゲストに対し、予備知識が提供されていて、そこに喚起された疑問を抱えて参加するという前提があれば、「現場の経験」は、生を得、「解釈」の形で引き継がれていく。彼の意見よりは緩い。彼の場合は、まずはゲストの制度化という昇華の過程があって、私達はその制度の果実をいただくことになる。
私には、いつも講演という「垂れ流し」が行われ、質疑応答はよくて5・6分で終了という、講演会をしたこと自信が実績として目的化した行事が繰り返されてきた虚しさがあった。慣習の力は強く、問いを事前に抱いて参加するというハードルの高さは、一般聴衆対象では重すぎると考えた。懇話会の対象は「ケア関係者」という同じ現場に立つ者としたのは、そういうハードルを越えうる方を前提にしたからだった。
被災地に行って現場で話を聞いたとき、あちこちスナップ写真のように印象が残り、それが自分の活動を行う局面で思い起こされうという経験をする。「現場の経験」は、その共鳴を起こした接点を通じて取り込まれるものと思うのだ。
食いちぎっていく肉片が、自分の活動へと消化吸収されていく過程を補償する試みは、いかに深められるかという問いだった。「懇話会」紹介のパンフに、「現場の経験」交流を描こうと思うが、分かり易いモデルを立てたいと願うが的を射ない。思考がとぐろを巻いている。
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懇話会のもうひとつの特徴は、自主的な「リーダー研修」であることだ。各自のセンスに基づき、自分の必要とする知恵を持ち帰ってもらうという、一般講演と似ているが少数対談補償された交流が特徴となっていることだ。つまり畑に肥料をまいている行為ともいえる。それ以上は望まず、相互に触発されれば、意識的にそこで寸止めする対談を行う。疑問を提案でき、ゲストの価値を認める者であれば、誰が来てもいい。
ただもっと大きな問題がある。「ゲストの選定」だ。レギュラーが育っていけば、そこに参加してもらうつもりだが、現在は飛田というソムリエにまかされている。
極端な主張の方は避けているが、公共機関の職員の方も参加しやすいが、問えばいくらでも回答できる深い方を選んでいる。現場報道されていない方や、被災時要援護者支援という共通項とし、覇を求めない。それが伝わる紹介ちらし作成に腐心している。
夜間傾聴:ひとり
(校正1回目済み)