2015/12/29 記
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茅ヶ崎の路上生活者は、一時期、駅の南口にかたまっていたが、行政の方針から施設や生活保護枠で、賃貸アパート入居が進み、ある地域の集合バラックを除くと、目立たなくなった。そういう理由で、毎年続けてきたホカロンの配布の相手が減っている。今回は既に居場所が分かっている古参の路上生活者に配ってきた。残りは大晦日、横浜寿町の炊き出しの様子を見てくるだけとなった。以前は分けてもらった山北みかん5kgを、持ち込んでいたのだが、仲介者が引退することで、持ち込みもできなくなっていた。今年は中止。釈然としないが、家にいる。
3.11発災以前から、ビッグイシュー誌販売や、若い方の簡易路上生活相談を通して既存支援団体への仲介をやっていた。それにはわけがあった。昔、私は「学ぶ」ということについて、その行為自身を「貧困から抜け出し身を立てるための正しい道」という古い教育活動の価値観に違和感を感じていた。それは1970代に頂点に上り詰める進学競争下の学びの偏りや、「基礎から発展へ」という迷信と痩せた学びへの違和感があった。いわゆるニート化の事情をつかむという伏線を含んでいた。勿論、彼の困難を切り抜ける手立ては、おこなってきた。
「学び」について、教育の中身・質を問わず正とする発想が正しいのか、アン・サリバンがヘレン・ケラーに提供した学びは、感覚から知のネットワーキングを構築したことであって、積み木のようなモデルではないだろう。その過程は多様で共同的なものであっただろう。
また象徴的な物言いになるが、英語を学び始めたとき、Youのように、単複同形のものがある。「あなた」と「あなたたち」は違うのに、なぜ英語はいい加減にするのかという生徒が出てくる。それに対し、「そうなっているのだから、覚えなさい、暗記は基礎です」というのは変だ。異文化ということや、異なる価値観あら眺めたときに見えてくるものを、通じそうな範囲で語ること、わかる範囲の世界を紹介すること、こういう過程が学びではないか。
「分かる者が分からぬ者を諭して行くのが教育」というのは間違いだろうという疑問がある。その一方で学歴社会という社会階層のパスポートのようにして、振り分けようとする社会への疑念があった。
また私は病弱学級との境を歩いてきた経過があるために、体育実技が出来なかった。ところが当時、私の学級には不思議な子がいた。必ず聞き違いをする子、学校から外に出ると特定の友達なら話せるがかたくなに口を閉ざして、ひと言も言葉を発しない子、アトピーのひどい皮膚喘息といわれた子、理由もないのに手が汗ばんでいて臭いといわれる子、居眠りのふりをしているのに、授業は完璧に出来る子。立ち歩き耳に手をあててはねる癖のある子など実に多彩な小学校だった。今になってみれば、家庭環境や貧困、差別、障がいなどの困難を抱えた子が学級や学年にいた。出発点から走行コースの条件までそれぞれ違うことが当たり前だった。私は春と秋に体調が悪化して短期入院をしたりして、授業がぶつぶつに切れていたが、座学の遅れはなかったし、これは高校に至るまで上位をキープしていた。私がだめだったのは、体育実技と咳き込むための歌唱。進学時ハンデとなったが、掌が臭いといわれた子は、授業時解答をすると、正誤を問わすいじめられたり、テスト解答用紙は破られたり、通知表を隠されたりしており、私が正義の味方ではないがガードし、代わりに散々暴行をうけてきた。その子は東京有数のの出身者であり、母子家庭の子だった。そういう誰も助けに入らない地獄は、幼いときから身に染みてきた。
父の職業柄、その後は私学進学校や、公立校、極端な進学校と渡り歩いてきたが、進学校にはそういう事情がある子と出会うことがなかったし、公立校の低学力のレッテルを貼られていた子の大半は自営業者の子たちで、この歳になってみれば、私などよりよっぽど収入が多く、社会で活躍している。私達は「学び」につまらぬ偏見を持っていると考え、それをフリースクールの場に展開してきた。
しかし、最近格差社会の拡大を背景に、子どもの貧困が問題となり、貧困脱出の鍵としての「学び礼賛」が復活。私の世代が問いただしてきた「学びの質」の問いは再び地下に隠れてしまった。「貧困」というものごとに対する解決策が「学ぶ機会の保証」という切り口だけで見ると、見誤るという気持ちが私の中にある。
(つづく)
夜間傾聴:ひとり
(校正2回目済み)