湘南の路上生活者自立支援自助組織「あすなろ会」の経理の準備が進んでいる。Big Issue の湘南販売を再開するために、口座を開いた。代表者が当事者Tさんなので住所が無い。会計の私が代理として我が家を保証としてたてた。証明にひどく手間取ったが口座が出来、会のカードが送られてきた。帳簿だけでなく、できるだけ通帳に記録が残るように経理を始めていく。
Tさんにもその結果を伝えた。Tさんも独自に再開をCMしているようで、私を敬遠している某政党系の市民団体の方からも問い合わせがあった。一緒にやれるところは一緒にやればいい。自分がすれっからしだからか、私は親方日の丸をかつぐのが嫌い。価値ありと認めるならどうぞと、その方にも話した。
木曜日の朝10時、訪問歯科の訪問を受けた。眠そうな不快をあらわにした顔で、歯科技工士さんのおしゃべりに頷いては、じっとしていてと叱られていた。ダブルバインドというものではないか。入れ歯の型の仕上げ段階だった。次回は来週がショートステイなので2週間後に仕上がった入れ歯の調整にやってくる。
無事に診療が終わったことを確認し、準備しておいた昼食を父に出して、家業の関係で大船に出た。平塚の七夕が近いので、この辺も浴衣姿が目立つ。その中を角帯の着流し姿で先方が現れてびっくり。鎌倉の息子さんのところに泊まって平塚七夕を楽しむとか。スーツ姿しか知らない相手なので意外な感じ。
しかし七夕とは…、この時期、いつもテストと日程調整ばかり。外勤は関係ないのに、忘れていたというのが正直なところ。実はこの日、故祖父が癌で診察後即入院した日だった。
巡回は夜なので、サポセンに用事を済ませに行った。ところがその直後、携帯に「すぐ帰れ」との連絡が入った。母からだった。
父が階段から落ちたのだった。といっても最後の数段。父は手すりにしがみつくので手首をひねり、腰を打った。転んだことより、降りてきたことに驚いた。
母は体調不良で自室のベッドでうたた寝をしていたところ、大きな音がしたので行ってみたら、父が階段下に座り込んでいた。情けなさがこみ上げてきたという。父は「入院はいつなんだ」と、母の容態を聞いたという。昨年末の手術のことを父は覚えていない。この徘徊のために、私達が四六時中拘束されている。目の前の尿取りパッドの尻尾が父の尻からでていた。
早朝の異常は、一日中続いていたようだ。眼差しがおかしいのだ。
私が取りあえず、擦過傷を確かめるために父の腰に手を当てると、手をはたかれ、にらみつけられた。声をかけ肩を貸し、母に見守るように指示しつつ、強引に立たせた。私の全身から汗が噴き出した。あと階段3分の1ほど残して父は力尽き、手すりの手をほどき、力なく後ろ向きに倒れ掛かった。正直言ってこわかった。ともども落下するところだった。母の引きつった声があがった。「危ない!」
私は力づくで前に倒れた。少なくとも後頭部や、反転したときの顔面を打たずに済むと思ったからだった。予約していなければ、誰も助けてはくれない。私の身体を座布団(クッション)にするように父は倒れ掛かり、何とか落下だけは免れた。情けなさに涙が噴き出していた。ひとはどのようなことをしていても、無慈悲に命を絶たれることがある。そういうものとして覚悟して生きようと私は思ってきた。その思いが横斬る出来事だった。
父に手すりにつかまらせ、ロッククライミングのような思いで2階に上げた。心配した母が上がってきた。私の全身が脈打っていた。さすがに父は大人しくベッドに戻った。と、また、立ち上がった。私に余力は無かった。父はベッド下に転倒し、失禁。悪臭が立ちこめた。そのとき、父が何を考え、階段を降りたかがわかった。一階のトイレに入ろうとしたのだ。元気な頃、父は、今は壊れてしまった2階のトイレでは小便を、大便は1階でという習慣があった。2階の便器を汚せば自分で掃除せねばならない。共用の1階のトイレなら、私達が掃除せねばならないからだった。徹底して家事をなにもしないひとだった。その習慣が再び頭をもたげたのだろうということが分かった。父は今を生きているのではなく、過去を同時に生きていた。
父の下半身を裸にして、清拭。父を母とふたりでベッドに押し上げて、紙パンツを穿かせ、落着かせた。私達は完全にシャワーが必要な事態だった。
一昨日、ケアマネさんが、突然我が家にやってきた。7月の予定表を届けに来たのだが、そのときの話で、ホーム利用の男性高齢者の指示を聞かないひとを、どうして始末しているのかが話題になった。元おまわりさんとか、しょうぼう士さんだっている。「いうこときかないわよ~!」という言葉が耳に残っていた。死ぬときは、誰も大差ないことになってしまう。そのとき。なにか坊主のような悟りを感じていたのだが…。
父は疲れたのだろう、入れ歯をむき出したまま寝入っていた。さすがに巡回には、いけなかった。いつも便秘気味であり、いよいよ排泄の間際に父は解離する。予測を甘く見た罰だった。
肩と腰にインドメタシンを塗った。今日は訪問介護の日。10時から父の介護が始まる。
父の入所申し込みをしようと、母と話し合った。
今日は午後から母は大学病院に行き、胃切除の後遺症の治療を受ける。私は夜に「夢たいカフェ」の運営実19時。父のひとりの時間が出来てしまう。早めに夕食を食べさせ、階段下のバリケードを作って出かけるが、下手すれば往復タクシーかなと思う。頭痛。
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障がい者向けの仕事が出来るときは、なぜか不思議と別件が飛び込む。綾瀬の園芸業者に、もう6~7年前に就職した、元引きこもりの青年から突然連絡があった。ご主人の息子さんが家業を継ぐので、それを契機にひとり年配の方が退職して、後釜を求めているという。この不況なので、運転助手としてパートで助手席に乗って樹木を運ぶ手伝いを求めているという。私を覚えていてくれたのだった。職場は海老名からバスだが、この話には当てが有った。統合失調症を抱えた30歳の青年だが大学復帰を諦めて、家庭菜園でリハ中。農業志向の青年だった。うまくまとまるといいのだが。会うときは仲介にいく。
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再開「わーく」の紙面を作っている。年4回から始めるが、小さな懇談会を催すつもり。マイナーなゲストになりそうだが、参加者が得られるか不安。とにかく観客0名のときを何回も体験している。清水の舞台から落ちて転落死になりかねない。いや、落ちるのはもう沢山なのだ。
夜間傾聴:多摩センター君(仮名・橋本の店を探すべし)
******君(仮名・親御さん)
(校正2回目済み)
Tさんにもその結果を伝えた。Tさんも独自に再開をCMしているようで、私を敬遠している某政党系の市民団体の方からも問い合わせがあった。一緒にやれるところは一緒にやればいい。自分がすれっからしだからか、私は親方日の丸をかつぐのが嫌い。価値ありと認めるならどうぞと、その方にも話した。
木曜日の朝10時、訪問歯科の訪問を受けた。眠そうな不快をあらわにした顔で、歯科技工士さんのおしゃべりに頷いては、じっとしていてと叱られていた。ダブルバインドというものではないか。入れ歯の型の仕上げ段階だった。次回は来週がショートステイなので2週間後に仕上がった入れ歯の調整にやってくる。
無事に診療が終わったことを確認し、準備しておいた昼食を父に出して、家業の関係で大船に出た。平塚の七夕が近いので、この辺も浴衣姿が目立つ。その中を角帯の着流し姿で先方が現れてびっくり。鎌倉の息子さんのところに泊まって平塚七夕を楽しむとか。スーツ姿しか知らない相手なので意外な感じ。
しかし七夕とは…、この時期、いつもテストと日程調整ばかり。外勤は関係ないのに、忘れていたというのが正直なところ。実はこの日、故祖父が癌で診察後即入院した日だった。
巡回は夜なので、サポセンに用事を済ませに行った。ところがその直後、携帯に「すぐ帰れ」との連絡が入った。母からだった。
父が階段から落ちたのだった。といっても最後の数段。父は手すりにしがみつくので手首をひねり、腰を打った。転んだことより、降りてきたことに驚いた。
母は体調不良で自室のベッドでうたた寝をしていたところ、大きな音がしたので行ってみたら、父が階段下に座り込んでいた。情けなさがこみ上げてきたという。父は「入院はいつなんだ」と、母の容態を聞いたという。昨年末の手術のことを父は覚えていない。この徘徊のために、私達が四六時中拘束されている。目の前の尿取りパッドの尻尾が父の尻からでていた。
早朝の異常は、一日中続いていたようだ。眼差しがおかしいのだ。
私が取りあえず、擦過傷を確かめるために父の腰に手を当てると、手をはたかれ、にらみつけられた。声をかけ肩を貸し、母に見守るように指示しつつ、強引に立たせた。私の全身から汗が噴き出した。あと階段3分の1ほど残して父は力尽き、手すりの手をほどき、力なく後ろ向きに倒れ掛かった。正直言ってこわかった。ともども落下するところだった。母の引きつった声があがった。「危ない!」
私は力づくで前に倒れた。少なくとも後頭部や、反転したときの顔面を打たずに済むと思ったからだった。予約していなければ、誰も助けてはくれない。私の身体を座布団(クッション)にするように父は倒れ掛かり、何とか落下だけは免れた。情けなさに涙が噴き出していた。ひとはどのようなことをしていても、無慈悲に命を絶たれることがある。そういうものとして覚悟して生きようと私は思ってきた。その思いが横斬る出来事だった。
父に手すりにつかまらせ、ロッククライミングのような思いで2階に上げた。心配した母が上がってきた。私の全身が脈打っていた。さすがに父は大人しくベッドに戻った。と、また、立ち上がった。私に余力は無かった。父はベッド下に転倒し、失禁。悪臭が立ちこめた。そのとき、父が何を考え、階段を降りたかがわかった。一階のトイレに入ろうとしたのだ。元気な頃、父は、今は壊れてしまった2階のトイレでは小便を、大便は1階でという習慣があった。2階の便器を汚せば自分で掃除せねばならない。共用の1階のトイレなら、私達が掃除せねばならないからだった。徹底して家事をなにもしないひとだった。その習慣が再び頭をもたげたのだろうということが分かった。父は今を生きているのではなく、過去を同時に生きていた。
父の下半身を裸にして、清拭。父を母とふたりでベッドに押し上げて、紙パンツを穿かせ、落着かせた。私達は完全にシャワーが必要な事態だった。
一昨日、ケアマネさんが、突然我が家にやってきた。7月の予定表を届けに来たのだが、そのときの話で、ホーム利用の男性高齢者の指示を聞かないひとを、どうして始末しているのかが話題になった。元おまわりさんとか、しょうぼう士さんだっている。「いうこときかないわよ~!」という言葉が耳に残っていた。死ぬときは、誰も大差ないことになってしまう。そのとき。なにか坊主のような悟りを感じていたのだが…。
父は疲れたのだろう、入れ歯をむき出したまま寝入っていた。さすがに巡回には、いけなかった。いつも便秘気味であり、いよいよ排泄の間際に父は解離する。予測を甘く見た罰だった。
肩と腰にインドメタシンを塗った。今日は訪問介護の日。10時から父の介護が始まる。
父の入所申し込みをしようと、母と話し合った。
今日は午後から母は大学病院に行き、胃切除の後遺症の治療を受ける。私は夜に「夢たいカフェ」の運営実19時。父のひとりの時間が出来てしまう。早めに夕食を食べさせ、階段下のバリケードを作って出かけるが、下手すれば往復タクシーかなと思う。頭痛。
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障がい者向けの仕事が出来るときは、なぜか不思議と別件が飛び込む。綾瀬の園芸業者に、もう6~7年前に就職した、元引きこもりの青年から突然連絡があった。ご主人の息子さんが家業を継ぐので、それを契機にひとり年配の方が退職して、後釜を求めているという。この不況なので、運転助手としてパートで助手席に乗って樹木を運ぶ手伝いを求めているという。私を覚えていてくれたのだった。職場は海老名からバスだが、この話には当てが有った。統合失調症を抱えた30歳の青年だが大学復帰を諦めて、家庭菜園でリハ中。農業志向の青年だった。うまくまとまるといいのだが。会うときは仲介にいく。
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再開「わーく」の紙面を作っている。年4回から始めるが、小さな懇談会を催すつもり。マイナーなゲストになりそうだが、参加者が得られるか不安。とにかく観客0名のときを何回も体験している。清水の舞台から落ちて転落死になりかねない。いや、落ちるのはもう沢山なのだ。
夜間傾聴:多摩センター君(仮名・橋本の店を探すべし)
******君(仮名・親御さん)
(校正2回目済み)