散歩道のそば。年末には大根葉が茂っていた畑が一新、畑らしからぬ芸術のキャンバスのように変わった。乾いて白くなった畝に伸びる細長い筋が現実らしからぬ姿に見える。2畝置きの大きな窪みが謎を添える。どんな作物の種が蒔かれたのか、これから植えられるのか分らないが、年末年始の間に模様替えとなった畑だ。
「畑」は野菜や穀物を栽培するところで水を張らないものをいう。水を張る水田と区別される。また、あの人は農業畑の出身とか化学畑の出身など専門とする領域を表現するときにもおなじ「畑」を使う。こうしてみると、畑という字は、成長発展を願ってあらゆるものを養い育てる不思議な力を備えているように思える。
何十年も前になるが、種を蒔いたり苗や種イモを植えたりして、狭いながらも菜園作りの楽しさや苦労を経験した。今は見かけることの無くなったホボロや肥桶も担いだ。法面や畔の雑草は鎌で刈り、それで畝を覆い畑の乾燥を抑えた。収穫したイモや大根はリヤカーで運んだ。収穫した後の畑は次の植え付けのため深く掘り返す。そのとき使った四つ鍬の長い柄の感触は今も残っている。
子どものころ遊んだ田畑や小川は宅地や商業地に変わり昔を偲ぶものは何もなくなり見る影もない。見かけは時世に遅れず進化しているように見える。しかい、その裏では農業の衰退という厳しい現実が忘れられていくようだ。畑の育む不思議な力を見直すことが大切だろう。中国地方の新規就農者、それも若者が増えているという嬉しい報道がある。土の無尽の力、そこに育つ作物で人は生かされている。