日々のことを徒然に

地域や仲間とのふれあいの中で何かを発信出来るよう学びます

城下町 俯瞰4

2012年09月02日 | しっちょる岩国
           

 城山のロープウエイ山頂駅広場からは、錦帯橋の向こう岸に藩政時代の城下町を箱庭のように眺められる。一帯は終戦後しばらくは市の中心として栄え、賑わっていた。時代が動き制度が変わり、個人が重んじられるようになり、町並みも変わり始めた。

 それでも町割りによって造られた城下町の町並みまだ残っている。岩国城へ向かって縦方向4.5メートル、横方向2.7メートルの道幅は統一された碁盤の目のように作られた、と記録がある。藩政のころはそれで良かった町割りも、交通や流通の変化には対応しきれなく、年々その形は薄れていく。
 
 岩国側を錦帯橋へ向かう通りを大明小路といい、吉川藩の中級武士の屋敷が続く侍の町であった。この通りの西側がその町割りの地域で、吉川藩の商業地域だった。この多くの商人が居住していた地域を「岩国七町」と呼び、通りごとに何をする人かが知れた。

 七町の名前は「玖珂町、柳井町、米屋町、塩町、材木町、魚町、豆腐町」。後に「曲尺町、鍛冶屋町、寺町」など職業そのままの名称の通りも加わる。いづれも生活を偲ばせる親しみと温かみがある。1962年の住居表示で七町は「岩国町」ひとつになった。こうしてた歴史を刻んだ町名は表から消えた。

 歴史町名は表から消えたけれど、墨で古い町名を書き記した木札がいたるところに残されている。墨が薄くなったり日焼けして板が黒ずんで読みづらいものもあるが、そうなっているほど懐かしい気持ちにさせる。古い町名で尋ねられるとおおよそのところは分かるが、50年たっても何丁目は頭に入ってこない。

 岩国七町には伝統的な建築物があり、これらを訪ねる観光客も見かけるが保存などは目に見える形になっていない。歴史的存在の町並みを保持するか、生活最優先の町にするか、住まいされている方の選択は続いている。
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