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ロレンス『虹』についての大江健三郎の発言

2020年03月01日 20時51分58秒 | 文学
大江健三郎が、ロレンスの『虹』について語っているところを、いつか読むかもしれないから書き写しておく。
《このところ読んでいるのは、以前バークレーでロレンスの全集といってもいいようなものを買っておいたんですが、それを第一巻から。今『虹』を読んでいるんですけれども、あの小説は時のあつかい、時への対し方が不思議でね。最初の時間の密度では何を書くつもりかわからないんです。小説家が何を書こうとしてこの小説を書き始め、書き続けているのかということが、こちらも小説の玄人であるにもかかわらず皆目わからない。
 ところが、読むうちに小説はどんどん進行して、じつに大量な時間をカヴァーして、終わりのほうに近づいています。ところどころ自分でもよくわからないところを日本語の翻訳で見ますと、中野好夫さんの翻訳でも、信じられないほど平板です。小説を書く喜びが反映していないんです。逆にいえば、原作にはそれがある。戦争直後の翻訳ですけれども、あの翻訳を読んだら、ロレンスは何でこんなものを書いたのかとみんなわからなかったと思うな。ところが英語の方には、細部に読む喜びがあるんですよ。一ページ一ページが小説を書く人間の喜びに満ちているんです。しかもロレンスは、読者にはわけのわからない方向に向かっているんです。
 あれがやはり小説というジャンル自体のエネルギーで、どうもロレンスのころで小説は終ったんじゃないだろうか。僕たちの同じ時代の作家、ギュンター・グラスのようなすぐれた人でも、ガルシア=マルケスのような人でも、バルガス・リョサにしても、アップダイクにしても、みんなあのようなどこに行くかわからないものをひたすら書かずにはいられぬ喜びは持っていない。かれらに先んじて最初に後ろを向いて書き始めた人はクンデラですよ。前を向いて、ものすごいエネルギーで書いている小説家は、今はもういないんじゃないか。つまり小説というジャンルは終わろうとしているんじゃないか。》(『大江健三郎 柄谷行人 全対話 世界と日本と日本人』155頁)
このように言われると、いつか読んでみたいものだと思う。
ちくま文庫か光文社古典新訳文庫で、ロレンスの『虹』の新訳が出ないものだろうか。
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