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「100分 de 名著」アーサー・C・クラークスペシャル

2020年03月10日 00時43分44秒 | テレビ
NHKの番組「100分 de 名著」は今月「アーサー・C・クラークスペシャル」でアーサー・C・クラークの作品を四作読むのだが、その二回目の『幼年期の終わり』の回を見た。ついこの前本を読んだばかりなのでよくわかった。
始まって数分でオーヴァーロードの姿が悪魔であることが紹介されるのに驚いた。
番組を見てもこの小説のすごさがあんまり分からなかった。
前半はおもしろいのだが、後半がよくわからない。番組を見てもそのような印象だった。

SFは計画していたものをだいぶ読んだ。
ブラッドベリの『華氏451度』を読んでいるけれど、ちょっと文章が詩的で、あまり好みではない。何言ってるかわからないところがある。トリュフォーの映画は観るかどうか分からない。もうすぐ文庫になるという、この映画の撮影日誌『ある映画の物語』は読むかもしれない。
アトウッドの『侍女の物語』はもうすぐ続編の翻訳が出るらしい。どうせ読むのならそれが出て、三年くらいしてハヤカワepi文庫になるのを待って二作続けて読んだほうがいいかなとも考えている。

・ジョージ・オーウェル『一九八四年』(既読)
・ケン・リュウの短篇集(既読)
・大江健三郎『治療塔』(既読)
・大江健三郎『治療塔惑星』(既読)
・テッド・チャン『あなたの人生の物語』(既読)
・オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』(既読)
・メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』(既読)
・ストルガツキー兄弟『ストーカー』(既読)
・オースン・スコット・カード『無伴奏ソナタ』(既読)
・アーサー・C・クラーク『幼年期の終わり』(既読)
・レイ・ブラッドベリ『華氏451度』 ←いまここ
・ザミャーチン『われら』
・スタニスワフ・レム『ソラリス』
・マーガレット・アトウッド『侍女の物語』
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大江健三郎『河馬に噛まれる』

2020年03月09日 22時39分23秒 | 文学
大江健三郎の『河馬に噛まれる』(1985年)を読んだ。(講談社『大江健三郎全小説11』所収)

「河馬に嚙まれる」
新聞記事から過去に親交のあったマダム「河馬の勇士」の思い出を語り、その息子の「河馬の勇士」との文通、その後、その「河馬の勇士」が河馬に噛まれたのだろう、という話。
浅間山荘事件のときに糞便の処理をしていた青年が、ウガンダで河馬の生態の研究をする。そのきっかけを与えたのが語り手だったのではないかという話。

「「河馬の勇士」と愛らしいラベオ」
姉が連合赤軍事件で死んだという石垣ほそみという女性が登場する。姉は「しおり」でもし妹が産まれていたら「さび」と名付けられたら……、というような話をするが、僕には(この私です)「しおり」「ほそみ」「さび」が何のことか分からない。
松尾芭蕉の何からしい。
しかし石垣ほそみというのは偽名で、クイズ番組に本名で出場して賞金を獲得し「河馬の勇士」に会いに行く。
石垣ほそみの本名について、《その姓は、ある哲学の専門家と結ぶもので、名前もしおり、ほそみ、さびという三幅対と対比できるような、三つ一組の美学用語のひとつなのであった。》(33頁)とあるが、何これ、クイズ?
この全集の、いつも詳しい尾崎真理子の解説にもこれについては触れられていない。
この連作短篇の意図がまだ僕には(この私です)分からない。
難しいということはなく、読んでいてそれなりにおもしろいのだけれど、「なんだろう?」と思いながら読んでいる。

「「浅間山荘」のトリックスター」
H.Tさん(林達夫)の追悼文のようなものから始まり、よく理解できない文章が続く。
浅間山荘事件のときに、スナック経営者が頭を撃たれて死んだというようなことがたぶん実際にあり(そのようなシーンを『突入せよ! あさま山荘事件』で見た気がする)、それをもとに語り手が映画のシナリオを書こうとする。
《僕の小説の構想には、端的にああした人物が欠けていたのです。「浅間山荘」の事件全体を理解するためには、あの仲裁役、調停役を志願して撃たれたスナック経営者のような人物が必要だった。あの無意味な死をとげた不幸な人物を媒介にすれば、自分の小説も、もひとつ高いレヴェルに押しあげて捉えることができたのじゃないか、と思ったものです。革命運動というレヴェルを超えて、思想的な文脈のなかに……》(50頁)
ここで言われる「僕の小説」というのは、『洪水はわが魂に及び』のことだろう。
シナリオのための筋書が、とてもおもしろい。最後がスナック経営者の幻想のように終わる。
J.N(ジョン・ネイスン)も登場する。この人の三島由紀夫の評伝が読みたいと思っている。今年三島由紀夫の本をいろいろ出すのなら、これも出すべきではないかと思う。

「河馬の昇天」
石垣ほそみと「河馬の勇士」が喧嘩をして、そのどちらからも語り手は手紙をもらう。
エリオットの詩に「河馬」というのがあるのらしい。
翻訳詩が出てくると読む気を失ってしまう。

「四万年前のタチアオイ」
女優のY.Sさん(吉永小百合)と中国に少人数の訪問団として行ったときの話から、タカチャンの話。
吉永小百合の「寒い朝」という歌は、以前村上龍の小説にも登場したと思うが、なぜなんだろう。作家の琴線に触れるのだろうか。
吉永小百合の好きな花がタチアオイで、それを聞いた病床のタカチャンが「四万年」と言ったという話からタイトルが付けられている。

「死に先だつ苦痛について」
長い短篇。そしておもしろい。
体育クラブ(スポーツクラブ)で、倉本君という人に話しかけられ、タケチャンの話が語られる。
コンラッドの『ロード・ジム』のスタイルで、作中人物にひとり語らせるスタイルを採用する。《自分の仕方としてはなじみのなかった》(98頁)と書かれる。
とても惹き込まれる話だった。
仲間の殺害シーンが凄惨。

「サンタクルスの「広島週間」」
サンタクルスで原爆について書いた女流作家について語る。
光子・ウェイクマンという看護婦は、過去の作品に出てくるのだろうか。

「生の連鎖に働く河馬」
連作短篇集なので、長篇としてもひとつながりのものとして読めるようにか、しめくくりのような短篇だった。
「河馬の勇士」と石垣ほそみとその子供が日本に帰ってくる。そして軽井沢で語り手と会う。
娘はダウン症候群で母親の石垣ほそみはそれを気に病んでいるように見える。自分の、障害を持った息子を見る様子を見て語り手は、
《障害を持ったまま成人した人間を眼の前にすることが、ほそみさんを無力感のうちに押し込めるようであるのだろう。》(189頁)
と思う。
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大江健三郎『静かな生活』

2020年03月05日 23時22分22秒 | 文学
大江健三郎の『静かな生活』(1990年)を読んだ。(講談社『大江健三郎全小説9』所収)

「静かな生活」
時代がだいぶ経ったからか、『「雨の木」を聴く女たち』とは印象がかなり異なる。
素直に書かれた印象の文章で、感動的。
昔(たしか高校生の頃)読んだときは子供だけ残して外国に出掛けるというのは変だよな、と思ったけれど、三人の子供はそのうち二人が成人し、もうひとりも予備校生なので、三人残して両親が出掛けたって何の不思議もない。読んだときの自分の年齢に語り手の年齢を重ねてしまうということがあるのだろう。

「この惑星の棄て子」
語り手のマーちゃんと兄のイーヨーが、父親の兄の”大伯父”さんの葬式に出席するために四国の村に出掛ける。
「棄て子」と言われるのは、イーヨーが作曲した曲のタイトルが「すてご」で、それを巡っていろいろな人がイーヨーが父親に棄てられていると感じるからそのようなタイトルの曲を書いたのではないかと心配する。心配しすぎる。
最後は「すてご」は「すてごを救ける」のことだとわかりほっとする。

「案内人」
《いつか週刊誌のグラビアでアメリカの警官の服装をしているところを見たことのある、よく肥って元気の良い映画批評家》(376頁)というのは水野晴郎だろうが、「金曜ロードショー」でタルコフスキーの『ストーカー』などやるだろうか。
タルコフスキーの映画に出てくるストーカーの娘に重ねて、マーちゃんはイーヨーのことをキリストかアンチ・キリストかと考える。ストーカーの娘というのは原作では〈モンキー〉と呼ばれる毛深くて不気味な存在だったと思うが、映画ではきれいな女の子だったようだ。

「自動人形の悪夢」
重藤さんの奥さんの、なんでもない人として生き、なんでもない人として死ぬ、という思想が語られる。

「小説の悲しみ」
ミヒャエル・エンデと、K・V・さんと、セリーヌの『リゴドン』について。K・V・さんというのはカート・ヴォネガットのことだろう。
カート・ヴォネガットがセリーヌの『リゴドン』のペンギン・ブックスの序文を書いているということのようだ。
マーちゃんは仏文科なので『リゴドン』をフランス語で読み、弟のオーちゃんは予備校生で志望校への合格圏内になったので『リゴドン』を英文で読む。
マーちゃんはついでに父親の小説『M/Tと森のフシギの物語』を読み、中国料理店でのクリスマスを迎える。
なんと、知的な。

「家としての日記」
『「雨の木」を聴く女たち』の「泳ぐ男―水のなかの「雨の木」」に出てくる玉利君のモデルとなった人物として新井君が登場する。彼はある事件についてのノートをマーちゃんの父親の小説家のKに渡し、小説を書いてもらったことになっている。事件後、死んだ五十歳の高校教師の未亡人といっしょに暮らしている。
初めて読んだ時はまだ『「雨の木」を聴く女たち』を読んでいなくて、そういう小説があるということなのだろうと思ったが、続けて読むとよく分かる。そして前の小説を、少しずらして書く感じも良い。
マーちゃんに訪れる事件が結構迫力があって、昔この小説を読んだ時も印象に残った。
いくらでも逃げられるチャンスはありながら、新井君の家についていってしまうところが妙にリアリティがあり、怖い。逃げられないというのはこういうことなんだろうな、と思う。
最後は幸せな家族として終わる。
『静かな生活』は綺麗にまとまっていて好きな小説だ。

さて、予定としては大江健三郎はあと『河馬に嚙まれる』と『新しい人よ眼ざめよ』を読むくらいかなと思っていたが、『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』も読もうと思う。昔読んでほんとうに意味不明だったが、いま読んだらどうなのだろうと興味がある。
そしてその後も、一次会だけで帰れない気持ちになって長篇小説も読むことになりそう。
『日常生活の冒険』
『万延元年のフットボール』
『洪水はわが魂に及び』
『ピンチランナー調書』
『同時代ゲーム』
『懐かしい年への手紙』
は読むかな。『同時代ゲーム』を太字にしているのは壊す人のイメージです。
『懐かしい年への手紙』を再読したら柄谷行人の「近代文学の終り」を読む。
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クラーク『幼年期の終わり』

2020年03月05日 21時39分08秒 | 文学
クラーク『幼年期の終わり』(光文社古典新訳文庫)を読んだ。
オーヴァーロードの姿形が分かるところとコックリさんでオーヴァーロードの惑星が分かるところがとてもおもしろく、そこらあたりまで非常におもしろいのだが、だんだんと後半になってくるとおもしろくなくなる。何が行われているのかよくわからない。
人間がいなくなる世界を描くと、描くべき人間がいなくなるので(当たり前だが)、誰にも共感できなくなる。
はじめはおもしろいのだが、だんだんと演説みたいになってくる。
クラークは『2001年宇宙の旅』を読んだことがあると思うが、やっぱり同じような印象だったように思う。
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大江健三郎『「雨の木」を聴く女たち』

2020年03月03日 00時50分45秒 | 文学
大江健三郎の『「雨の木」を聴く女たち』(1982年)を読んだ。(講談社『大江健三郎全小説9』所収)

「頭のいい「雨の木」」
ハワイのパーティ会場の庭に大きな樹があって、それが夜でよく見えないけれど、レイン・ツリーと呼ばれる木。
パーティは精神障害者たちが開いたもので、それに気づいて逃げ出すときに、まるでレイン・ツリーが叫んでいるように女性の泣き声が聴こえる。
というような話で、難しく書いているのであらすじをたどるのも結構難しい。
で、この話をもとに次の短篇が描かれる。この話はある程度事実を元にはしているが創作であるとされ、レイン・ツリーの暗喩(メタファー)の意図についてもわりと詳しく明かされる。

「「雨の木」を聴く女たち」
先の短篇には書かなかったが、アルコール中毒の高安カッチャンが語り手のもとを訪れたということになっている。
高安カッチャンは語り手と同じ大学で、渡米しそのまま日本に帰ってきていない。
マルカム・ラウリーというアルコール中毒だった作家についても書かれる。
マルカム・ラウリーを元にして大江健三郎が高安カッチャンを造形したということなのだろう。
『僕たちの失敗』という作品を読んだよとハワイの税関で言われるが、それは自分の作品ではないし、その作品の作者は自分と混同されることを嫌がるだろうと書かれるが、そのようなタイトルの作品を私は知らない。(調べると石川達三。)

「「雨の木」の首吊り男」
カルロス・ネルヴォが末期の癌という話を聞いて、過去の彼との話が始まる。
遠く離れた場所で、息子の目が見えなくなったという話を聞き、退行して部屋でマンゴーを食べ続ける。
ちょっとよくわかりません。

「さかさまに立つ「雨の木」」
僕は高校生のころにこの連作短篇集を読んで、何に感銘を受けたのだろうか、不思議な気持ちになる。
次から次へと前の短篇を少しずつ変化して書くそのやり方・雰囲気に感銘を受けただけで、内容については何も理解していなかったのではないかと思う。何がおもしろいのかわからない。
もっとも印象に残るのは、この短篇集全体を通じてのことだが、語り手の英語に対する劣等感のようなもので、これはほんとうに身につまされる感じだ。英語を勉強しないといけないな、とやはり読んでいて思う。たまに出てくる横文字は、英語がわかるという優越感ではなく(高校生のころはそうだと思っていた)、劣等感の現れなのだろう。
今回も「どうして日本の殿方は本気で英語をおやりにならないのかしらね」と言われる。
マルカム・ラウリーの研究を英語の本を読んでやり、そこから始めて自分の創作につなげたような本で、本を読んでの引用がたくさん出てくるような本をいったい誰が読む必要があるのだろうか。少し心が離れる。
核兵器反対について、自己批判も書かれる。
高安カッチャンの息子のザッカリー・KのLPレコードは200万枚も売れないだろう。売れるわけがない。

「泳ぐ男―水のなかの「雨の木」」
「雨の木」をテーマにした長篇を書こうとしていたが、思うように水のなかの「雨の木」のイメージが結ばないので、長篇用に用意した材料で作品を作った、というような序文に続き小説が始まる。
この連作短篇集のなかで今回最もおもしろかった。「雨の木」もマルカム・ラウリーも出てこないので、サブタイトルと序文がなければまったくこの短篇集に入る理由はないが。
この時期の大江健三郎の闇の深さのようなものを感じる。
語り手はいつもの大江健三郎らしき人物でいて、ちょっと違って今ひとりで暮らしている中年男。妻子がいるのかどうかわからない。
猪之口さんはスポーツクラブの乾燥室で胸をさらけ出したり性器を見せたりして、若い男の玉利君を誘っている。語り手の中年男もその場に居合わせて勃起したりする。
猪之口さんは強姦され殺され、玉利君が犯人ではないかと語り手は疑うが、別の高校教師の中年男が犯人で縊死する。
玉利君の妄想と、それを想像する語り手の思い込みのようなものが濃くて、少し気持ちが悪くなるくらい。
犯人の中年男についてその妻が語るところは、『罪と罰』のスヴィドリガイロフのイメージなのだろうか。
もうちょっと明るい気持ちになった方がいいですよ、大江さん、と言いたくなる。
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ロレンス『虹』についての大江健三郎の発言

2020年03月01日 20時51分58秒 | 文学
大江健三郎が、ロレンスの『虹』について語っているところを、いつか読むかもしれないから書き写しておく。
《このところ読んでいるのは、以前バークレーでロレンスの全集といってもいいようなものを買っておいたんですが、それを第一巻から。今『虹』を読んでいるんですけれども、あの小説は時のあつかい、時への対し方が不思議でね。最初の時間の密度では何を書くつもりかわからないんです。小説家が何を書こうとしてこの小説を書き始め、書き続けているのかということが、こちらも小説の玄人であるにもかかわらず皆目わからない。
 ところが、読むうちに小説はどんどん進行して、じつに大量な時間をカヴァーして、終わりのほうに近づいています。ところどころ自分でもよくわからないところを日本語の翻訳で見ますと、中野好夫さんの翻訳でも、信じられないほど平板です。小説を書く喜びが反映していないんです。逆にいえば、原作にはそれがある。戦争直後の翻訳ですけれども、あの翻訳を読んだら、ロレンスは何でこんなものを書いたのかとみんなわからなかったと思うな。ところが英語の方には、細部に読む喜びがあるんですよ。一ページ一ページが小説を書く人間の喜びに満ちているんです。しかもロレンスは、読者にはわけのわからない方向に向かっているんです。
 あれがやはり小説というジャンル自体のエネルギーで、どうもロレンスのころで小説は終ったんじゃないだろうか。僕たちの同じ時代の作家、ギュンター・グラスのようなすぐれた人でも、ガルシア=マルケスのような人でも、バルガス・リョサにしても、アップダイクにしても、みんなあのようなどこに行くかわからないものをひたすら書かずにはいられぬ喜びは持っていない。かれらに先んじて最初に後ろを向いて書き始めた人はクンデラですよ。前を向いて、ものすごいエネルギーで書いている小説家は、今はもういないんじゃないか。つまり小説というジャンルは終わろうとしているんじゃないか。》(『大江健三郎 柄谷行人 全対話 世界と日本と日本人』155頁)
このように言われると、いつか読んでみたいものだと思う。
ちくま文庫か光文社古典新訳文庫で、ロレンスの『虹』の新訳が出ないものだろうか。
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