ダブログ宣言!

ひとりでするのがブログなら、
ふたりでするのがダブログ。

大江健三郎・古井由吉『文学の淵を渡る』

2020年03月13日 18時25分36秒 | 文学
大江健三郎・古井由吉『文学の淵を渡る』(新潮文庫)を読んだ。
古井由吉についてこれまであまり興味を持ってこなかったし、大江健三郎についてはいま全集をずっと読んでいるので、自然に大江健三郎の言葉のほうに惹かれる。

《『僕が本当に若かった頃』という短篇で、若いころ家庭教師をやっていたときの話を書きました。そのとき僕は、化学の実験も数学の問題の解き方も生徒に全部言葉で説明してやろうと思った。なぜならば、人間の認識は言葉で行われるからだと、そのとき本当に信じていたからです。》(55頁)
この短篇を読んだときに自分の経験談があるのだろうなと確かに思った。

《とくに知的障害を持った子供が生まれて、かれと一緒に生きていくほかない、それはそのこと自体を小説に書くことだと覚悟したのが転機で、私小説でいいじゃないか、それを方法的に工夫しよう、と開き直った。》(175頁)
そのような覚悟があったという話を聞いたことがなかった。

《僕自身、『源氏物語』の新しい翻訳が出ると常に買っていました。》(217頁)
最近『源氏物語』をもう一度読んだほうがいいのではないかと思っている。この対談では評判の悪い谷崎訳で僕は読んだ。

《こんな自然発生的な文章ではダメだ、職業作家として生き続けることはできないという強迫観念に捉えられた。そして、自分の文章が持ってた自然な形を壊して、とにかく複雑な文体に作り替えた。『万延元年のフットボール』からです。》(240頁)
ほんとうを言えば『万延元年のフットボール』以前から大江健三郎の文章は不自然で読みにくいと思う。
さらに読みにくくしたということなのだろう。
読みにくくしてしまった後悔については以前もどこかで読んだことがある。

《それで僕は、いつも僕と家内の生活の中心にいる障害児として生まれた自分の息子を小説の中心に置くことにしたんです。それまで「私小説」というものを敵だと考えていたのに。それが自分の子供の、普通文学の言葉とはならない、書き手にも他者の言葉である、その障害のある子供の言葉をとり入れよう、と考えました。》(242頁)
大江健三郎が障害児の父親でありそれを書いていることについて、自分自身が父親になってみるとそれまでと違った感じを持つ。大変なことだなと思う。

文庫版では最後に漱石の話が追加されている。
最近村上春樹が『こころ』を好きではないという話をしているのを二度続けて読んだが、ここでは『こころ』が中心に語られる。
僕としては夏目漱石の『こころ』はやはり素晴らしいと思う。
コメント    この記事についてブログを書く
« レイ・ブラッドベリ『華氏4... | トップ | 大江健三郎『キルプの軍団』 »

コメントを投稿

文学」カテゴリの最新記事