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大江健三郎『「雨の木」を聴く女たち』

2020年03月03日 00時50分45秒 | 文学
大江健三郎の『「雨の木」を聴く女たち』(1982年)を読んだ。(講談社『大江健三郎全小説9』所収)

「頭のいい「雨の木」」
ハワイのパーティ会場の庭に大きな樹があって、それが夜でよく見えないけれど、レイン・ツリーと呼ばれる木。
パーティは精神障害者たちが開いたもので、それに気づいて逃げ出すときに、まるでレイン・ツリーが叫んでいるように女性の泣き声が聴こえる。
というような話で、難しく書いているのであらすじをたどるのも結構難しい。
で、この話をもとに次の短篇が描かれる。この話はある程度事実を元にはしているが創作であるとされ、レイン・ツリーの暗喩(メタファー)の意図についてもわりと詳しく明かされる。

「「雨の木」を聴く女たち」
先の短篇には書かなかったが、アルコール中毒の高安カッチャンが語り手のもとを訪れたということになっている。
高安カッチャンは語り手と同じ大学で、渡米しそのまま日本に帰ってきていない。
マルカム・ラウリーというアルコール中毒だった作家についても書かれる。
マルカム・ラウリーを元にして大江健三郎が高安カッチャンを造形したということなのだろう。
『僕たちの失敗』という作品を読んだよとハワイの税関で言われるが、それは自分の作品ではないし、その作品の作者は自分と混同されることを嫌がるだろうと書かれるが、そのようなタイトルの作品を私は知らない。(調べると石川達三。)

「「雨の木」の首吊り男」
カルロス・ネルヴォが末期の癌という話を聞いて、過去の彼との話が始まる。
遠く離れた場所で、息子の目が見えなくなったという話を聞き、退行して部屋でマンゴーを食べ続ける。
ちょっとよくわかりません。

「さかさまに立つ「雨の木」」
僕は高校生のころにこの連作短篇集を読んで、何に感銘を受けたのだろうか、不思議な気持ちになる。
次から次へと前の短篇を少しずつ変化して書くそのやり方・雰囲気に感銘を受けただけで、内容については何も理解していなかったのではないかと思う。何がおもしろいのかわからない。
もっとも印象に残るのは、この短篇集全体を通じてのことだが、語り手の英語に対する劣等感のようなもので、これはほんとうに身につまされる感じだ。英語を勉強しないといけないな、とやはり読んでいて思う。たまに出てくる横文字は、英語がわかるという優越感ではなく(高校生のころはそうだと思っていた)、劣等感の現れなのだろう。
今回も「どうして日本の殿方は本気で英語をおやりにならないのかしらね」と言われる。
マルカム・ラウリーの研究を英語の本を読んでやり、そこから始めて自分の創作につなげたような本で、本を読んでの引用がたくさん出てくるような本をいったい誰が読む必要があるのだろうか。少し心が離れる。
核兵器反対について、自己批判も書かれる。
高安カッチャンの息子のザッカリー・KのLPレコードは200万枚も売れないだろう。売れるわけがない。

「泳ぐ男―水のなかの「雨の木」」
「雨の木」をテーマにした長篇を書こうとしていたが、思うように水のなかの「雨の木」のイメージが結ばないので、長篇用に用意した材料で作品を作った、というような序文に続き小説が始まる。
この連作短篇集のなかで今回最もおもしろかった。「雨の木」もマルカム・ラウリーも出てこないので、サブタイトルと序文がなければまったくこの短篇集に入る理由はないが。
この時期の大江健三郎の闇の深さのようなものを感じる。
語り手はいつもの大江健三郎らしき人物でいて、ちょっと違って今ひとりで暮らしている中年男。妻子がいるのかどうかわからない。
猪之口さんはスポーツクラブの乾燥室で胸をさらけ出したり性器を見せたりして、若い男の玉利君を誘っている。語り手の中年男もその場に居合わせて勃起したりする。
猪之口さんは強姦され殺され、玉利君が犯人ではないかと語り手は疑うが、別の高校教師の中年男が犯人で縊死する。
玉利君の妄想と、それを想像する語り手の思い込みのようなものが濃くて、少し気持ちが悪くなるくらい。
犯人の中年男についてその妻が語るところは、『罪と罰』のスヴィドリガイロフのイメージなのだろうか。
もうちょっと明るい気持ちになった方がいいですよ、大江さん、と言いたくなる。
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