ここ最近はずっと大江健三郎の小説を読んでいたのだが、いまはサガンの「悲しみよこんにちは」を読んでいる。
ずっと肉料理をむしゃむしゃ喰っていたのに突然麩の入っただけのすまし汁が出てきたような感じ。較べてみると大江健三郎の凄さがわかる。
サガンのこの小説は、初めて読みますが、少女の、ここにこのまま留まっていたい感じがよく出ている小説、とでも言えばいいんでしょうか。死んだ母親の代わりが現れて、父親と自分だけの自由な暮らしが変わってしまう、それに対する反抗、が描かれているのだろうと思う。いまのところ(84頁)そんな印象です。
書店でぱらぱらとめくったときに「ベルクソン」の文字に目がとまり、ベルクソンについて語っているのか、と思いそこを楽しみにしていたんだけれど、哲学の勉強は嫌だというその代名詞としてベルクソンが登場するだけのようだ。しかも「ベルクソン」が頻出する。
ちょっと喰い足りない感じなのでたまに図書館で借りてきた「坂部恵集」を読んでいる。
性格というのはそのひとの中に内面というか性格があって、それが外に現れ出たものだ、と思われているが、それは違って、ひととひととが触れるときそこに性格が出来上がるものだ。固定的な内面というものはない。というようなことを語っているのだろうと思う。
全面的に賛成です。
ずっと肉料理をむしゃむしゃ喰っていたのに突然麩の入っただけのすまし汁が出てきたような感じ。較べてみると大江健三郎の凄さがわかる。
サガンのこの小説は、初めて読みますが、少女の、ここにこのまま留まっていたい感じがよく出ている小説、とでも言えばいいんでしょうか。死んだ母親の代わりが現れて、父親と自分だけの自由な暮らしが変わってしまう、それに対する反抗、が描かれているのだろうと思う。いまのところ(84頁)そんな印象です。
書店でぱらぱらとめくったときに「ベルクソン」の文字に目がとまり、ベルクソンについて語っているのか、と思いそこを楽しみにしていたんだけれど、哲学の勉強は嫌だというその代名詞としてベルクソンが登場するだけのようだ。しかも「ベルクソン」が頻出する。
ちょっと喰い足りない感じなのでたまに図書館で借りてきた「坂部恵集」を読んでいる。
性格というのはそのひとの中に内面というか性格があって、それが外に現れ出たものだ、と思われているが、それは違って、ひととひととが触れるときそこに性格が出来上がるものだ。固定的な内面というものはない。というようなことを語っているのだろうと思う。
全面的に賛成です。