ダブログ宣言!

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☆サガン、ベルクソン、坂部恵

2009年11月15日 00時35分10秒 | 文学
ここ最近はずっと大江健三郎の小説を読んでいたのだが、いまはサガンの「悲しみよこんにちは」を読んでいる。
ずっと肉料理をむしゃむしゃ喰っていたのに突然麩の入っただけのすまし汁が出てきたような感じ。較べてみると大江健三郎の凄さがわかる。
サガンのこの小説は、初めて読みますが、少女の、ここにこのまま留まっていたい感じがよく出ている小説、とでも言えばいいんでしょうか。死んだ母親の代わりが現れて、父親と自分だけの自由な暮らしが変わってしまう、それに対する反抗、が描かれているのだろうと思う。いまのところ(84頁)そんな印象です。
書店でぱらぱらとめくったときに「ベルクソン」の文字に目がとまり、ベルクソンについて語っているのか、と思いそこを楽しみにしていたんだけれど、哲学の勉強は嫌だというその代名詞としてベルクソンが登場するだけのようだ。しかも「ベルクソン」が頻出する。

ちょっと喰い足りない感じなのでたまに図書館で借りてきた「坂部恵集」を読んでいる。
性格というのはそのひとの中に内面というか性格があって、それが外に現れ出たものだ、と思われているが、それは違って、ひととひととが触れるときそこに性格が出来上がるものだ。固定的な内面というものはない。というようなことを語っているのだろうと思う。
全面的に賛成です。
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☆大江健三郎「臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ」感想

2009年11月13日 23時42分23秒 | 文学
臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ大江健三郎「臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ」(新潮社)を読了。購入はせず、図書館で借りて読んだ。
もう少し面白いかと期待したんだけれど。
四国の森の一揆の話に興味が持てない。しかもその話の映画化なんてあるはずがないと思ってしまうので、さらに興味が持てなかった。
マルカム・ラウリーが小説で映画を作った、というような話をこの小説のなかに書いていたけれど、そういうことがしたかったんだろうな、とは思った。
しかしもっと面白そうな映画を作ればいいのに! というのが素直な感想だった。
明治維新の前後に二回起こった一揆の話。一回目の一揆で死んだ「メイスケさん」が「メイスケ母」によってもう一度産んでもらい二回目の一揆も指導する、という話のようなのだけれど(私に理解できた範囲の要約です。きちんと理解できていないかもしれない。)、そんなのを映画にして誰が見るんだろうか、という思いがずっとあった。そこにリアリティーを感じられなかった。

それと詩の引用が出てくるのだけれど、文語で書かれた日夏耿之介の訳詩の意味が理解できなかった。単純に、理解できませんでした。
「源氏物語」の現代語訳を読んでいてもっとも感動的であるといわれる和歌の部分がそのままであったり、太宰治の「右大臣実朝」の古文の部分が理解できなかったり、そういう疎外された感じだった。
私のために書かれた本ではないな、と感じた。

大江健三郎の本を読んだこともない人が立ち寄った本屋でタイトルと表紙の感じだけで購入して読めるようなものじゃない。
ちょっと、続けて大江健三郎を読んでみようかな、という気分になっていたのにそういう気分を見事に挫かれました。そうだ、大江健三郎って面倒くさいんだよなあ。
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☆「臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ」を半分ほど読んだ

2009年11月11日 22時28分00秒 | 文学
「おかしな二人組(スゥード・カップル)」三部作に続き、大江健三郎の「臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ」(新潮社)を読んでいる。108頁まで読んだ。
「おかしな二人組」三部作と「臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ」の設定は重なっているようで微妙に違いがある。まとめておくと、

(「おかしな二人組」三部作 → 「臈たしアナベル・リイ」)
三人称 → 一人称
主人公は長江古義人(ちょうこう・こぎと) → 語り手は「私」(かつてケンサンロウというあだ名だった)
息子はアカリ → 光(ひかり)
妻は千樫(ちかし) → 千樫のまま
妹はアサ → アサのまま
義兄は塙吾良(はなわ・ごろう) → 塙吾良のまま
大学の恩師は六隅許六(むすみ・ころく) → 渡辺一夫
『ラグビー試合一八六〇』 → 『万延元年のフットボール』

「おかしな二人組」三部作に比べると、より現実の大江健三郎に近くなっている。アメリカ人のピーターも登場するし、まるっきり違うというわけでもない。
新たな登場人物としては、木守有(こもり・たもつ)という映画プロデューサーとサクラさんという女優と柳夫人が主なところ。
「おかしな二人組」三部作で娘の名前が真木だったり、基本的に女性の名前は樹木の名前で、と考えているのだろうか。実際の奥さんの名前が”ゆかり”ではなく、”ゆーかり”だったらそのまま使えたのにな、と思いました。

「第一章 ミヒャエル・コールハース計画」で、岩波文庫の「ミヒャエル・コールハースの運命」(クライスト著)の要約がえんえん続いている間はほんとうに辟易して、もう二度と大江健三郎は読むものか! と思っていたのだけれど、第二章になり少し興味を惹かれる。
かつて語り手と塙吾良が見た、ポーの詩を題材にした「アナベル・リイ」映画に少女のころのサクラさんが出ていた。ラストでアナベル・リイが死ぬ。
第二章の最後は、
《”I”はアナベル・リイの死体にいたずらしなかったでしょうか》(108頁)
という柳夫人の意味深な台詞で終わる。
普通に読めばこれは、映画の撮影中にサクラさんが睡眠薬を呑まされて死体役の撮影が終わった後にいたずらされた、ということになるんだろう。
占領期に日本人がアメリカ人に犯されそうになる、というところが「おかしな二人組」三部作と同じだな。

その他では以下のようなところがおもしろかった。長くやってきた小説家の、小説家としての言葉は、それとして、特別な重みがあります。(大江健三郎的に「それとして」を使ってみたが、使い方はあっているだろうか。)
《それは、こういうやり方です。自分が書こうとしている作品の、核心にあるシーンをひとつ想像することから始めます。そこで主人公や脇人物を具体的に動かしてみるうちに、小説がしだいにリアルなものとなるんです。》(60頁)
《ぼくが長編小説を書く経験から持っている確信はね、これらは対立する・両立しない、と感じる二つの構想も、すぐには一元化させない方がいい、ということなんだ。》(78頁)

大江健三郎を読んでいると、やはり他の彼の作品も読みたくなる。
未読のものでは、「河馬に噛まれる」、「日常生活の冒険」、「ピンチランナー調書」に興味がある。
それとガルシア=マルケスの「百年の孤独」と、河出書房の世界文学全集で新訳が出るというナボコフの「賜物」とギュンター・グラスの「ブリキの太鼓」も気になっている。よく出来た、知的な、長編小説が読みたいということなのだろう。
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☆大江健三郎「さようなら、私の本よ!」感想

2009年11月10日 02時27分57秒 | 文学
さようなら、私の本よ! (講談社文庫)大江健三郎の「さようなら、私の本よ!」(講談社文庫)読了。
「取り替え子(チェンジリング)」、「憂い顔の童子」、それとこの「さようなら、私の本よ!」と続くいわゆる「おかしな二人組(スゥード・カップル)」三部作をすべて読み終えた。
読み終わってみれば「取り替え子」が最も面白く、「憂い顔の童子」がその次、「さようなら、私の本よ!」がその次、という気がする。つまりだんだんと面白くなくなっていった。
講演のおもしろさはそのライブ感にあると思う。
用意されたものではなく、いまその場で言葉が出てきている感じがわくわくさせるのだろう。用意された原稿をうつむいて読むだけではその感じが出てこない。大江健三郎的に言えば、語られる内容ではなく、語り方が重要だ。
三部作の最初「取り替え子」では、これまでの大江健三郎らしくなく、あまり自作の引用もなく、英語の詩の引用もなく、身軽に物語が始まっていたように思うのに(このへんはライブ感がありました)、二作目、三作目になると、だんだん中野重治やエリオットや四国の森が登場し始めた。
初めは身軽に歩いていたのに、歩くたびに筋肉がつき、鎧が重くなり、とうとう身動きが取れなくなって立ち往生という気がする。結局最後はいつもの大江健三郎らしい終わり方だなあ、ちょっと退屈、と思ってしまった。
「さようなら、私の本よ!」では、タイトル通り、腐った本を燃やしたり、自宅にある本を古本屋に処分したり、最後は軽井沢の別荘を爆破したりするのだけれど、結局過去のモノを捨て切れていないなあという気がする。

「さようなら、私の本よ!」でもっとも面白かったのは、「第十一章 「破壊する」教育」で、古義人が洋書をほとんど前半しか読んでいないことを家族に揶揄されるところ、吾良の死んだ母親の通帳を見せろと梅子の弁護士に千樫が言われて傷つくところ、などだった。吾良は伊丹十三がモデルで、その妻の梅子は宮本信子がモデルで、千樫は大江健三郎の奥さんがモデルで、ほんとうにこういうことがあったのかなあ、と思ってしまう。
自作の引用なし、最後に爆発が起きて誰かが死ぬとかなし、四国の森なし、で、まるまる一冊大江一家の経済問題という小説でも僕は読めるなあ、そっちのほうが興味あるな、と思った。雰囲気としては夏目漱石っぽいものになるんじゃないかと思う。
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☆さようなら、マイケル・ジャクソンよ!

2009年11月08日 01時38分22秒 | 映画
マイケル・ジャクソンの映画「THIS IS IT」を映画館に見に行く。
マイケルは最後までよく動けていたんだなと思った。マイケルのダンスはマネがしたくなる。でも出来ないけど。
歌もリハーサルなので本気は出していないけれど、上手い。
きちんとマイケル追悼が出来て良かった。
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☆「さようなら、私の本よ!」始めました

2009年11月08日 01時31分30秒 | 文学
大江健三郎の「さようなら、私の本よ!」(講談社文庫)を読み始める。
主人公は、「取り替え子」や「憂い顔の童子」と同じく、長江古義人(ちょうこう・こぎと)。今回は椿繁(つばき・しげる)という、古義人とは古い付き合いであるが、自分の身辺を題材に小説を書いてきた古義人がこれまで一度も小説に登場させたことないという建築家が登場する。
清清(しんしん)とウラジーミルという外国人も登場する。
古義人は英語の堪能な清清とT・S・エリオットの詩をともに読むという学習を北軽井沢の別荘、通称”「小さな老人(ゲロンチョン)」の家”で毎日行う。
あいかわらず奇妙な小説だ。
かつて大江健三郎らしき主人公がギー兄さんといっしょにダンテの「神曲」を読んでいるのを「懐かしい年への手紙」で読んで、僕にもギー兄さんのような師と呼べるようなひとがいたらな、とか、自分も「神曲」を読まなければならない、とか学生時代だったこともあり思ったものだったが(素直でした)、いまはT・S・エリオットの詩を原書で読もうなどとは全く思わない。
さて、ここでこの三部作の”アレ”について整理しておく。
第一作「取り替え子」のときの”アレ”とは、アメリカ人ピーターが殺害されるのを古義人と吾良が知りながら何もしなかった、ということが曖昧なままに書かれていた。もしかしたら大江健三郎のなかでもはっきりと”アレ”とは何なのか未確定のままだったのかもしれない。
第二作「憂い顔の童子」で、”アレ”ははっきりとピーターの殺害のことである。そして加藤典洋の、”アレ”とは「牛の生皮」かぶせであるという意見にはっきりと違うと言う。
《――これは違うよ、と古義人は初めて反論した。》(「憂い顔の童子」561頁)
「強姦と密告」が隠されているという加藤典洋の意見にも、「クソどもが」と古義人に言わせて本を燃やさせるという方法で反対するのであるが、そのあと曖昧に終わる。
《――おれは大事な人を奪い取られた、と古義人は初めて考えた。》(「憂い顔の童子」568頁)
ここで言う”大事な人”とは吾良、あるいは「取り替え子」という本、のことだろう。私の大事な本が「密告」ということに読み替えられて私の手から離れてしまった、という気持ちなのだろう。
このあとの「憂い顔の童子」はよく意味のわからない仮装行列のようなもので終わる。
第三作「さようなら、私の本よ!」では、
《ある雑誌の文章がきっかけで、ぼくと吾良が高校生の時に経験した出来事について、自分でも思いがけない読み替えを思いついた。それが出発点なんだよ。》(「さようなら、私の本よ!」138頁)
と言わせている。
加藤典洋の「密告」説に大江健三郎は違うとは思ったが、それはそれで興味深く小説の展開としてもおもしろいかもしれない、と簡単に言っちゃうとこのように思ったのではないかと思う。
ミシマ(三島由紀夫がモデル、というかそのもの)の話と絡めて、この第三作はなかなかおもしろい。読みやすい。大江健三郎が素直に考えを書いているように思える。
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☆大江健三郎「憂い顔の童子」感想

2009年11月05日 23時22分28秒 | 文学
憂い顔の童子 (講談社文庫)大江健三郎の「憂い顔の童子」(講談社文庫)読了。
この間、この小説の続編である「さようなら、私の本よ!」と一緒にふとサガンの「悲しみよこんにちは」を買った。買ったあとで題名の類似に驚いた。
「こんにちは」のあとに「さようなら」するか、「さようなら」してから「こんにちは」するか少し迷っている。しかしやはり先に大江健三郎の本にさようならすべきかもしれない。

以下、なんだか長くなってしまったけれど、「憂い顔の童子」の感想です。
小説のなかに、「若いニホンの会」という、古義人が若いころに芦原(石原慎太郎がモデル)や迂藤(江藤淳がモデル)らと作った会の話があり、ほんとうにそのような会に大江健三郎は所属していたのだろうかと調べてみたら本当に「若い日本の会」は存在していた。
会に所属していた人として蟹行という人もいたらしく、これを僕は「かにゆき」と読んで吉行淳之介のことかなあ、大江健三郎と交流があったのかな、と思っていた。しかし読んでいくと、大江健三郎と同様若いころは痩せていて年をとって太った人物であることが分かり、吉行淳之介は若いころは知らないが年をとったときに痩せているので違うと思い、調べてみると、蟹行と書いて「かいこう」と読むことが分かった。開高健か。
モデルといえば、古義人の長女の真木が電話で「私はサクラコではない」と相手に訂正する場面は意味がよくわからない。他の小説からの引用か? 長女をサクラコと名付けている大江健三郎の小説があるということか、それとも大江健三郎の次男の名前が桜麻(サクラオ)なのでそれを仄めかしているのか、よくわからなかった。
長女の真木が混乱して頭をがんがん壁に打ち付ける場面は印象に残った。ほんとうにこのようなことがあるのだろうか。ほんとうだとしても嘘だとしても小説家の娘は大変だ。
そういえばこのシリーズには次男がまったく登場しない。古義人には二人しか子供がいないように読める。なんかあったのだろうか。
僕が大江健三郎の息子だとしたらあまり父の小説に登場したくない。

「ドン・キホーテ」になぞらえてこの小説を前篇と後篇に分けて考えると、前篇は「壊す人」とか「銘助さん」とか僕はもうすっかり忘れてしまっているしそもそもあまり興味のない四国の森の神話からの引用が多く退屈だったが、後篇(「第十三章 「老いたるニホンの会」(一)」以降くらいから)はたいへんおもしろくなった。
前作「取り替え子」で僕にはよくわからなかった”アレ”について、よくわからなくて正解というようなところがあり安心した。
《アレの一切が、計算される。古義人も吾良も、奥瀬にあった練成道場の若者らの、米軍語学将校殺害に手をかした。》(401頁)
つまり、この小説(「憂い顔の童子」)のなかの古義人は小説「取り替え童子」を発表している。「取り替え子」と内容が同じであるだろうその「取り替え童子」で、古義人が過去に殺人に手をかしたことがあるとは書くことはできない。
しかし今回はっきりと”アレ”について書いてしまったので、次回作でどういう展開になるのか楽しみだ。

あとは、加藤典洋のことだけれど、ここの部分(「第二十一章 アベリャネーダの偽作」)はとてもおもしろかった。大江健三郎のユーモアを感じた。
加藤典洋の評論には大江健三郎の名前も出てくるのに、そこはうまく端折り、まるで古義人の書いた小説「取り替え童子」に加藤典洋が評論を書いていると読めるようになっている。しかも古義人として(大江健三郎として、ではなく)きちんと反論しているのがおもしろい。
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☆大江健三郎の新作

2009年11月03日 23時06分34秒 | 文学
今朝の新聞で大江健三郎のことが載っていた。新作「水死」というのが来月出るらしい。主人公は長江古義人で、いま読んでいる「憂い顔の童子」の続きの続きの作品なのだろう。あまりにタイムリーで、僕に向けての出版としか思えないほどなので買って読んでしまうかもしれない。
以下は読んでいる大江健三郎の「憂い顔の童子」のメモ。
・高行健(ガオ・シンジアン)の”Soul Mountain”には「小さい人(タイニー・ピープル)」が登場するらしい。人間の喉の奥に寄生しているらしい。これは村上春樹の「1Q84」の”リトル・ピープル”じゃないのか。邦訳「霊山」を読んでみるかな。
・《永いなじみの出版社が、本の売れない長江からクセモノの若い女流に乗り替える。そういうこともあった。》(266頁)
”永いなじみの出版社”とは新潮社だろうか。”クセモノの若い女流”とは誰なんだろうか。
この引用部分を含む真木彦の発言はおもしろい。大江健三郎の素直な気持ちが出ている。

本屋で立ち読みして坂部恵に興味を持つ。
「仮面の解釈学」など、ちょっと読んでみようかと思う。

運動不足なので歩くためにジャージを買った。着てみると体育教師のようだ。
自分が体育の先生のように見えるとは発見だった。
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☆「憂い顔の童子」始めました。スピルバーグ監督「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」感想。

2009年11月02日 01時24分33秒 | 映画
大江健三郎の「憂い顔の童子」(講談社文庫)を読み始めるが、なかなかめんどくさい小説だ。
前作「取り替え子」は大江健三郎のなかでは入りやすいほうだったんじゃないかと思うのだけれど、今回は四国の森に古義人が行っちゃったのでどうしても話が面倒くさくなる。大江健三郎の過去の作品からの引用が多くなる。あまり気にせずにそのあたりは読み流すことにする。「ドン・キホーテ」からの引用も多い。読んだのがかなり前なのだけれど、ところどころ懐かしい。
こんなに引用だらけにしてしまって敷居がものすごく高い小説になっている。しかも登場人物にも「同時代ゲーム」(題名は言わないがおそらくこれだろう)は難しいからまだ読めていない、などと言わせている。
前作「取り替え子」も「取り替え童子」と少しだけ名前を変えて登場させている。
ほんとうに複雑にするのが好きなのだな。
昔山田邦子がNHKの朝ドラに出たときに、地方に行くと役柄と自分を混同しているお年寄りがいて困るという話をしていたように記憶するが、そのような地方の老人たちが大江健三郎の小説を読んだら間違いなくすべて事実として読んで混乱するだろう。
いま第九章まで読んだが、すべて事実として読むと、愛媛県はひどいところだと思ってしまう。田舎の人はみんなが大江健三郎に悪意を持って接している。どこに行ってもトラブルが起きる。県会議員に殴られる。愛媛県の県会議員は怖い。

キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン録画していた、スティーブン・スピルバーグ監督の「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」を見た。
期待していたよりもおもしろかった。
大江健三郎を読んでいると、スティーブン・スピルバーグが見たくなる。気楽だ。
父親と母親との仲を必死で元に戻そうとする子供の話だった。
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☆加藤典洋「小説の未来」

2009年11月01日 00時26分21秒 | 文学
小説の未来加藤典洋の「小説の未来」(朝日新聞社)を読み終えた。
ここに取り上げられている未読の小説で、読もうかなと少しでも思ったのは町田康のものくらいかな。それと一番最後に少し登場した庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」を、昔読んだのだけれどもう一回読んでみてもいいかなと思った。
どちらにしてもあまり興味の惹かれたものはなかった。
力作のものなのだろうけれど、ちょっとそれに付き合うのが億劫だったり、なんだかめんどくさそうだなと思ってしまう。最近は、文章がごちゃごちゃしていたり、漢字が多かったり、書き出しでなかなか句点が来なかったりすると、もう「私には関係ない」と思ってしまう傾向にある。昔はそういうのにわくわくしたように思うが、僕はもう文学青年ではなくなってきているのだろう。
格好いいことを言わせていただけるなら、そういう「私には関係ない」という場所から読めるものだけを、読んでいこうと思います。

朝日新聞で連載中の川上弘美の「七夜物語」は、グリクレルというでっかいネズミが主人公の女の子とその友達の男の子に皿洗いの仕方を叱りながら教えている。
なんだか宮崎駿的な展開。
子供にお手伝いをさせることはそんなに大切なことなのだろうか。確かに大切なことだろうが、そこまで? と思ってしまう。
そこそこ面白いので読めている。
文章が古風で独特。
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