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☆「臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ」を半分ほど読んだ

2009年11月11日 22時28分00秒 | 文学
「おかしな二人組(スゥード・カップル)」三部作に続き、大江健三郎の「臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ」(新潮社)を読んでいる。108頁まで読んだ。
「おかしな二人組」三部作と「臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ」の設定は重なっているようで微妙に違いがある。まとめておくと、

(「おかしな二人組」三部作 → 「臈たしアナベル・リイ」)
三人称 → 一人称
主人公は長江古義人(ちょうこう・こぎと) → 語り手は「私」(かつてケンサンロウというあだ名だった)
息子はアカリ → 光(ひかり)
妻は千樫(ちかし) → 千樫のまま
妹はアサ → アサのまま
義兄は塙吾良(はなわ・ごろう) → 塙吾良のまま
大学の恩師は六隅許六(むすみ・ころく) → 渡辺一夫
『ラグビー試合一八六〇』 → 『万延元年のフットボール』

「おかしな二人組」三部作に比べると、より現実の大江健三郎に近くなっている。アメリカ人のピーターも登場するし、まるっきり違うというわけでもない。
新たな登場人物としては、木守有(こもり・たもつ)という映画プロデューサーとサクラさんという女優と柳夫人が主なところ。
「おかしな二人組」三部作で娘の名前が真木だったり、基本的に女性の名前は樹木の名前で、と考えているのだろうか。実際の奥さんの名前が”ゆかり”ではなく、”ゆーかり”だったらそのまま使えたのにな、と思いました。

「第一章 ミヒャエル・コールハース計画」で、岩波文庫の「ミヒャエル・コールハースの運命」(クライスト著)の要約がえんえん続いている間はほんとうに辟易して、もう二度と大江健三郎は読むものか! と思っていたのだけれど、第二章になり少し興味を惹かれる。
かつて語り手と塙吾良が見た、ポーの詩を題材にした「アナベル・リイ」映画に少女のころのサクラさんが出ていた。ラストでアナベル・リイが死ぬ。
第二章の最後は、
《”I”はアナベル・リイの死体にいたずらしなかったでしょうか》(108頁)
という柳夫人の意味深な台詞で終わる。
普通に読めばこれは、映画の撮影中にサクラさんが睡眠薬を呑まされて死体役の撮影が終わった後にいたずらされた、ということになるんだろう。
占領期に日本人がアメリカ人に犯されそうになる、というところが「おかしな二人組」三部作と同じだな。

その他では以下のようなところがおもしろかった。長くやってきた小説家の、小説家としての言葉は、それとして、特別な重みがあります。(大江健三郎的に「それとして」を使ってみたが、使い方はあっているだろうか。)
《それは、こういうやり方です。自分が書こうとしている作品の、核心にあるシーンをひとつ想像することから始めます。そこで主人公や脇人物を具体的に動かしてみるうちに、小説がしだいにリアルなものとなるんです。》(60頁)
《ぼくが長編小説を書く経験から持っている確信はね、これらは対立する・両立しない、と感じる二つの構想も、すぐには一元化させない方がいい、ということなんだ。》(78頁)

大江健三郎を読んでいると、やはり他の彼の作品も読みたくなる。
未読のものでは、「河馬に噛まれる」、「日常生活の冒険」、「ピンチランナー調書」に興味がある。
それとガルシア=マルケスの「百年の孤独」と、河出書房の世界文学全集で新訳が出るというナボコフの「賜物」とギュンター・グラスの「ブリキの太鼓」も気になっている。よく出来た、知的な、長編小説が読みたいということなのだろう。
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