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☆大江健三郎「さようなら、私の本よ!」感想

2009年11月10日 02時27分57秒 | 文学
さようなら、私の本よ! (講談社文庫)大江健三郎の「さようなら、私の本よ!」(講談社文庫)読了。
「取り替え子(チェンジリング)」、「憂い顔の童子」、それとこの「さようなら、私の本よ!」と続くいわゆる「おかしな二人組(スゥード・カップル)」三部作をすべて読み終えた。
読み終わってみれば「取り替え子」が最も面白く、「憂い顔の童子」がその次、「さようなら、私の本よ!」がその次、という気がする。つまりだんだんと面白くなくなっていった。
講演のおもしろさはそのライブ感にあると思う。
用意されたものではなく、いまその場で言葉が出てきている感じがわくわくさせるのだろう。用意された原稿をうつむいて読むだけではその感じが出てこない。大江健三郎的に言えば、語られる内容ではなく、語り方が重要だ。
三部作の最初「取り替え子」では、これまでの大江健三郎らしくなく、あまり自作の引用もなく、英語の詩の引用もなく、身軽に物語が始まっていたように思うのに(このへんはライブ感がありました)、二作目、三作目になると、だんだん中野重治やエリオットや四国の森が登場し始めた。
初めは身軽に歩いていたのに、歩くたびに筋肉がつき、鎧が重くなり、とうとう身動きが取れなくなって立ち往生という気がする。結局最後はいつもの大江健三郎らしい終わり方だなあ、ちょっと退屈、と思ってしまった。
「さようなら、私の本よ!」では、タイトル通り、腐った本を燃やしたり、自宅にある本を古本屋に処分したり、最後は軽井沢の別荘を爆破したりするのだけれど、結局過去のモノを捨て切れていないなあという気がする。

「さようなら、私の本よ!」でもっとも面白かったのは、「第十一章 「破壊する」教育」で、古義人が洋書をほとんど前半しか読んでいないことを家族に揶揄されるところ、吾良の死んだ母親の通帳を見せろと梅子の弁護士に千樫が言われて傷つくところ、などだった。吾良は伊丹十三がモデルで、その妻の梅子は宮本信子がモデルで、千樫は大江健三郎の奥さんがモデルで、ほんとうにこういうことがあったのかなあ、と思ってしまう。
自作の引用なし、最後に爆発が起きて誰かが死ぬとかなし、四国の森なし、で、まるまる一冊大江一家の経済問題という小説でも僕は読めるなあ、そっちのほうが興味あるな、と思った。雰囲気としては夏目漱石っぽいものになるんじゃないかと思う。

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