ダブログ宣言!

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☆さようなら、マイケル・ジャクソンよ!

2009年11月08日 01時38分22秒 | 映画
マイケル・ジャクソンの映画「THIS IS IT」を映画館に見に行く。
マイケルは最後までよく動けていたんだなと思った。マイケルのダンスはマネがしたくなる。でも出来ないけど。
歌もリハーサルなので本気は出していないけれど、上手い。
きちんとマイケル追悼が出来て良かった。
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☆「さようなら、私の本よ!」始めました

2009年11月08日 01時31分30秒 | 文学
大江健三郎の「さようなら、私の本よ!」(講談社文庫)を読み始める。
主人公は、「取り替え子」や「憂い顔の童子」と同じく、長江古義人(ちょうこう・こぎと)。今回は椿繁(つばき・しげる)という、古義人とは古い付き合いであるが、自分の身辺を題材に小説を書いてきた古義人がこれまで一度も小説に登場させたことないという建築家が登場する。
清清(しんしん)とウラジーミルという外国人も登場する。
古義人は英語の堪能な清清とT・S・エリオットの詩をともに読むという学習を北軽井沢の別荘、通称”「小さな老人(ゲロンチョン)」の家”で毎日行う。
あいかわらず奇妙な小説だ。
かつて大江健三郎らしき主人公がギー兄さんといっしょにダンテの「神曲」を読んでいるのを「懐かしい年への手紙」で読んで、僕にもギー兄さんのような師と呼べるようなひとがいたらな、とか、自分も「神曲」を読まなければならない、とか学生時代だったこともあり思ったものだったが(素直でした)、いまはT・S・エリオットの詩を原書で読もうなどとは全く思わない。
さて、ここでこの三部作の”アレ”について整理しておく。
第一作「取り替え子」のときの”アレ”とは、アメリカ人ピーターが殺害されるのを古義人と吾良が知りながら何もしなかった、ということが曖昧なままに書かれていた。もしかしたら大江健三郎のなかでもはっきりと”アレ”とは何なのか未確定のままだったのかもしれない。
第二作「憂い顔の童子」で、”アレ”ははっきりとピーターの殺害のことである。そして加藤典洋の、”アレ”とは「牛の生皮」かぶせであるという意見にはっきりと違うと言う。
《――これは違うよ、と古義人は初めて反論した。》(「憂い顔の童子」561頁)
「強姦と密告」が隠されているという加藤典洋の意見にも、「クソどもが」と古義人に言わせて本を燃やさせるという方法で反対するのであるが、そのあと曖昧に終わる。
《――おれは大事な人を奪い取られた、と古義人は初めて考えた。》(「憂い顔の童子」568頁)
ここで言う”大事な人”とは吾良、あるいは「取り替え子」という本、のことだろう。私の大事な本が「密告」ということに読み替えられて私の手から離れてしまった、という気持ちなのだろう。
このあとの「憂い顔の童子」はよく意味のわからない仮装行列のようなもので終わる。
第三作「さようなら、私の本よ!」では、
《ある雑誌の文章がきっかけで、ぼくと吾良が高校生の時に経験した出来事について、自分でも思いがけない読み替えを思いついた。それが出発点なんだよ。》(「さようなら、私の本よ!」138頁)
と言わせている。
加藤典洋の「密告」説に大江健三郎は違うとは思ったが、それはそれで興味深く小説の展開としてもおもしろいかもしれない、と簡単に言っちゃうとこのように思ったのではないかと思う。
ミシマ(三島由紀夫がモデル、というかそのもの)の話と絡めて、この第三作はなかなかおもしろい。読みやすい。大江健三郎が素直に考えを書いているように思える。
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