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ミラン・クンデラ『小説の技法』

2016年06月25日 23時39分29秒 | 文学
ミラン・クンデラ『小説の技法』(岩波文庫)を読んだ。
ミラン・クンデラの考え方が(彼の小説を読むよりも)よくわかり、おもしろかった。いつものように七部に分かれていて、特に第六部なんかはつまらなかったのだが、大半はおもしろく読めた。

《ところが、ブロッホの場合はこれとは違う。彼は「ただ小説だけが発見できるもの」を追求する。しかし彼は、(もっぱら一人物の冒険に基づき、その冒険の語りだけで満足する)型通りの形式が小説を限定し、その認識能力を減少させることを知っている。》(94頁)
ブロッホのことを知らないけれど、これを読むとブロッホの小説がどんなものかなと興味を惹かれ、たぶん読みにくいのだろうなと思う。ミラン・クンデラの小説も興味深いと思いながらも、ものすごくおもしろいと言えないのは型通りでないからなのだろう。この部分を読んで思った。小説というのは、一人物の冒険譚の語りを楽しむものだと言ってしまえば言えるのに、その楽しさに浸らせない。エッセイになったり哲学になったりする。

《フローベール以来、小説家たちは筋立てのトリックを消し去ろうと努め、その結果小説はしばしば、このうえなく冴えない人生よりもさらに冴えないものになってしまいました。しかしながら、初期の小説家たちには本当らしさにたいするその種の几帳面さなどはありませんでした。》(113頁)
この部分以外にも、ミラン・クンデラは小説を書くときに皆が従っている不可侵のルールについて疑問を持っていることが分かる。現実世界のリアリティが小説世界にもなければいけない、とか、登場人物の過去や外見をきちんと描写しないといけない、とはミラン・クンデラは思っていない。

《愛の代わりに茸の話をした男と同じように、アンナは「思いもかけない衝動に駆られて」行動する。これは彼女の行為には意味がないということではない。ただ、この意味は合理的に把握できる因果律の彼方にあるというだけなのだ。》(87頁)
多く言及されるブロッホやカフカよりも、このあたりを読んでトルストイが読みたくなった。ドストエフスキーの論理がちがちの、因果律きっちりの世界観よりも、トルストイの理屈じゃない世界観のほうに惹かれる。ほかにセルバンテスも読みたくなった。

引用に疲れたのでこの辺で終わる。
おもしろい本だった。
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