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フランクル『それでも人生にイエスと言う』、そして久しぶりに小説を読む

2012年08月25日 23時28分44秒 | 文学
フランクルの『夜と霧』を読んだので、ついでに同じ著者の『それでも人生にイエスと言う』(春秋社)も読んでみた。
『夜と霧』を読めばこっちは読まなくてもよいかなと思った。タイトルほどは感動しない。

最近まともな小説を読んでいないので、ちょっと読みたくなり、トルストイの『復活』かドストエフスキーの『死の家の記録』か大岡昇平の『俘虜記』かで迷っていたのだが、どれも久しぶりに読むには重すぎるので、何か良い本はないかと思っていたら、たまたま覗いた新潮社のホームページでデヴィッド・ギルモアの『父と息子のフィルム・クラブ』という本を見つけ、読んでいる。
学校を辞めた息子と一緒に父親がただただ映画を見るという小説で、内容も文章も適度に軽くて申し分ない。
トルストイとか大岡昇平とかの名作だと読むのにそれなりにプレッシャーがかかるのだが、全く知らない作家の新刊ということで、「どうでもいい」気分で読める。たまにはこういうものを読まなくてはいけない。
父親が息子に薦める映画がたくさん出てきて、映画評論家でもある父親が講釈をするのだが、見た映画もあり見てない映画もあり、見たけど忘れた映画や見たかどうかを忘れた映画もある。
『ウディ・アレンの重罪と軽罪』を僕は見たのだろうか。
一時期ウディ・アレンの映画を集中的に見ていた時期があるのだが、忘れてしまった。
最近のウディ・アレンの映画は、次の映画を作るために急いで片づけたような雰囲気があり、その次の映画も結局は似たような雰囲気だ、というのは確かにその通りだと思った。
ビートルズはある世代にとっては特別なものだが、それ以外の世代にとってはなんてことのない存在であるというのもその通りだろうなと思った。
ジェームズ・ディーンやマーロン・ブランドやヒッチコックに関してもそう。ある世代にとって特別で、それについて勉強することや語ることが特別な意味を持っていた存在も、下の世代にはどうでもよいものとなってしまう。この小説で行われているのは、息子を教育することではなく、逆に父親がそのことを確認する作業なのではないかと思う。
今後も様々な映画について語られるだろうから楽しみだ。
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