ダブログ宣言!

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☆断盲腸亭日乗(三)

2009年08月28日 21時24分29秒 | 文学
8月25日(火)
朝食。今日から粥ではなく普通のご飯となる。
一汁一菜の食事をしていると、食事というのは(日本では)お米を食べるための行為なんだと気付く。お米を食べて、汁や煮物などの”しょっぱい”を口に入れながら、またお米を食べる。常に中心は米であるのだな、と。
こういうことは子供の頃は思っていたと思うのだけれど、洋食に慣れて忘れていた。パンやパスタやうどんに並んで米があり、おかずも米と並列の関係にあると思っていた。
しかし違った。米がとても大切、しかも中心、という思想が確かにあったし、今もあるのかもしれない。

「徹子の部屋」勝間和代。
勝間和代は笑顔が下手だなあ。右頬を30%上げて、左目を20%下げて、とか考えてるんじゃなかろうか。
全て数字で上手くはいかないということは何%くらい理解しているだろうか。
このところ注目しているが、前に聞いた話の繰り返しだった。
テレビは同じ話をさせ続ける。宇梶剛士の不良時代の話(100人を相手にして勝った話)を何度聞いたことだろう。
徹子は”カツマー”の使い方を間違っていると思う。
勝間和代のことをカツマーと呼んでいるわけではなく、支持者のことをカツマーと呼んでいるはずだ。シノラーやアムラーと一緒。
それとも私が間違っているのか。

8月26日(水)
朝食。これまで毎日残さず食べていたが、食パン少しとプチトマト2個を残す。
食パン2枚は食べきれない。プチトマトは昨日は食べたが今日は食べる気がしなかった。
全て美味しいと思っていたが、そうでもなくなる。
感覚はすぐに慣れる。感動もじきに去る。

月と六ペンス (光文社古典新訳文庫)モーム「月と六ペンス」(光文社古典新訳文庫)。
昔読んだことはあるのだが、この機会に新訳で再読。
あまりピンとこなかった記憶があるのだが、今回もピンとこなかった。
モームの代表作のように言われるが、他の小説のほうが面白いと思う。
深い哲学のようなものを見せつけず、語りの面白さで持っていくところが谷崎潤一郎を思わせる。

8月27日(木)
明日退院することが決まる。
昨夜はビートルズを聴いていた。病院でビートルズを聴いていると、阿美寮(「ノルウェイの森」)にいるような気分になる。「ノルウェイの森」や「ミシェル」や「ガール」を聴く。
今日の午前中は茂木健一郎の講演を聴く。iPodに入っているものを聴いているので、いろいろなものを聴くことになる。講演は河合隼雄の追悼で、箱庭療法の話を聞いていると、箱庭療法を自分にも試してみたくなる。河合隼雄の箱庭療法について今度調べる。

夕食後に病院ロビーでオペラ歌手のピアノ伴奏のコンサートがあり、最前列で聴く。
高音がすごくて少し泣きそうになる。日本語の歌よりもイタリア語(?)の歌のほうがやはりよい。
言葉の意味が分かるかどうかは、歌の感動には関係ないのだ。
これは前々から思うのだけれど、私たちは油断していると、最後に頼るものはテレビしかなくて、入院生活も一日中テレビを見る生活になってしまいがちだ。
そして、テレビでやっていることが面白く、テレビを見て感動し、テレビの音量が最適な大きさで、テレビを通じてしか感じられず、普段の生活もテレビ的に受け取っている気がする。
しかしやはり生(ナマ)は違う。テレビとは全然違う。テレビなんてクソだ、と思ってしまうのだ。
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☆断盲腸亭日乗(二)

2009年08月28日 20時48分36秒 | 文学
8月23日(日) 6日目
流動食がはじまる。水みたいな粥と、具のない味噌汁、牛乳。
食べる前に興奮して、頭の中をグレン・グールドの「ゴールドベルク変奏曲」が響き渡る。(「羊たちの沈黙」ハンニバル・レクターの猟奇的な食事風景より)
味噌汁がうまい。
全部食べて満腹。物足りないとは思わなかった。

カズオ・イシグロ「降っても晴れても」(『夜想曲集』より)
《フィリップ・ロスはクソ。》(66ページ)が最もおもしろいところ。
たぶん、村上春樹の小説に「大江健三郎はクソ」といった台詞を見つけたようなものだと思う。なんかすごいし、フィリップ・ロスというところがよい。
主人公の読む本がオースティンの「マンスフィールド・パーク」というのもいい。
この良さは、いい、としか言えない。趣味の問題だ。
主人公が、自分の認識と――というか語っていることと――、周りの認識にずれがあってたいぶダメ人間と見られている。語り手が正しいか周りが正しいか読み手にはわからない。
犬の真似して紙を咥えているところを見つかる。変な話だった。
可笑しい話。

便が出る。
昼食、夕食と流動食だとさすがに感動はなくなる。
プルーストが想い出そうとして、何度か紅茶を飲むが、しかし想い出せない感覚に似ている。しかしなぜ、プルーストのことをよく思うのだろう。病人感覚に通じた作家ということか。

カズオ・イシグロ「モールバンヒルズ」(『夜想曲集』より)
この短編集(『夜想曲集』)のテーマは女のヒステリーということか。よく登場する。
いじわるしてやった後に、その人に好意を持って後悔する感情を描いた小説って他にあるのだろうか。
カズオ・イシグロは掬い方が上手い。

この日記のタイトルを、永井荷風の日記に倣って「断盲腸亭日乗」とすることを思い付く。
自分の冴えに感心してしまう。
でかした私。

8月24日(月)
点滴がはずれる。
もうあいつ(点滴台)を連れて歩かなくて良いと思うと嬉しい。
ストラップの抜けた携帯電話のようなハッピーな気分。

日本人の知らない日本語「日本人の知らない日本語」(蛇蔵&海野凪子)
まあまあ面白かった。

カズオ・イシグロ「夜想曲」(『夜想曲集』より)
包帯ぐるぐる巻きの二人がホテルを徘徊するというのが印象的。
「老歌手」に登場したリンディが再登場する。

甲子園の決勝戦が終わる。
終盤の流れは見ごたえがある。
追いつくかと思ったが、あと1点で終わった。気の緩みとか緊張感をものすごく感じさせる。

夜想曲集:音楽と夕暮れをめぐる五つの物語カズオ・イシグロ「チェリスト」(『夜想曲集』より)
短編集をすべて読み終える。
最後の「チェリスト」が一番面白かったのは、言葉で相手の才能を引き出すということに僕が興味あるからだろう。
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☆断盲腸亭日乗(一)

2009年08月28日 19時32分25秒 | 文学
(盲腸で入院中のことをノートにメモしていたので、それを書き写しておく。意味不明のところは括弧書き等でところどころ補うようにする。)

8月18日(火) 入院
論語による”文字あたり”(食あたりみたいなもの)かと思っていたが盲腸だった。
手術は一時間程度のはずが五時間かかった。
全身麻酔で、麻酔の時に「もう眠るんだなと思う間もなく眠る」というプルーストからの引用を思いながら意識がなくなった、と思う。カール大帝のことや昭和天皇のことは考えなかった(「カール大帝」がプルーストの眠りの場面に確か登場したはず。昭和天皇はもちろん登場しない)。
術後、目が覚めておしっこがしたいと思い、それを口にするがカテーテルが入っているから大丈夫と言われる。しかし気持ち悪い。
ベッドのまま移動し、病室に着く。暗い。
妻と、その後ろに誰かいるのが見える。眼鏡をしていないので分からない。(叔母だった。)
時間を訊くと「十時」だと言う。遅いので妻に帰れと言う。叔母の車で連れて帰ってもらえば良いなと思う。
誰もいなくなると「病牀六尺」(正岡子規)の気持ちになる。今晩は立ち上がれないので、ここから動けないんだと思う。
この日は一睡もできず、朝まで発狂しそうになりながら待つ。身体の自由がきかないことがこれほど苦痛とは思わなかった。
何度もナースコールして、うがいをさせてもらう。時間を訊くと「二時」でまだ四時間もあるのかと思う。ひどくつらい。死にたい気分だった。

8月19日(水) 2日目
(横になっているのが苦痛だったので、)何度か催促して、カテーテルを抜いてもらい立ち上がることとなる。朝の十時くらい。
カテーテルを抜くときめちゃくちゃ痛い。あんなことをあんなところにしてはいけない。変態か!
立ち上がりトイレまで行ける。尿を出すとき少し痛いが、2、3回目のおしっこでおさまる。
一週間程度の入院と思っていたが、少し長くなりそうだと妻から聞かされる。
もうこのベッドでは眠れないので、しばらく辛抱して早く帰って家のベッドでゆっくり寝ようと思っていたので悲しくなり、ひどく落ち込む。妻に慰められる。
一日中眠い。夜が怖い。硬いので柔らかいマットに代えてもらう。
夜、やはり眠れず不安でつらくなる。
昨夜は一睡もしていないのだが、横になっていることで眠ったことと同じになるのではないかと思い、少し安心させようとする。
たぶん一時ごろから一時間ほど眠る。そのあともこきざみに眠れる。

8月20日(木) 3日目
眠れたのでひどく嬉しい。マンモスうれピー!
両親が来る。
病気は少しずつでも良くなっているという実感があれば耐えられるものだと思う。

8月21日(金) 4日目
雑誌「日経エンタテインメント!」を買う。
男性の読む雑誌の1位が、35歳まで「少年ジャンプ」であることに驚く。
しかし確かに他に読む雑誌もないんだよな、とも思う。しかし子供過ぎないかともやはり思う。

8月22日(土) 5日目 音楽は内臓で聴く
水を飲みはじめる。
ベートーヴェンのピアノソナタを聴いていて泣きそうになる。
もう何日も飲まず食わずで”草食系”を飛び越えて”草花系”になっているのが原因だ。

カズオ・イシグロ「老歌手」(『夜想曲集』の一つ)
母がレコードで聴いていたという想い出と、目の前でその歌手が歌うというところが見せ場だと思う。過去の記憶と結びつくということは、快楽なのだろう。
ベートーヴェンはあるリズムをかたちにして、私たちに届ける。届くと感動がある。どんなリズムかは問わない。
カズオ・イシグロの作る物語も、ある感じを私たちに届ける。
ある感じが、正しいものか正しくないものか、品のあるものかないものかは関係ない。細部まできちんと届いた時に感動があると思う。

夜中に空腹を感じる。
しかし今感じている空腹というのは、内臓のある動きからくる情感と過去の空腹の記憶が結びついているだけで、いま僕が感じているのはほんとうの空腹ではないと気付く。
ほんとうの空腹であればお腹が鳴るはずだが鳴らない。
情感と過去の記憶を切り離すことが出来れば、情感を感じるだけで、空腹を感じることはない。
(振り返って考えると、このあたり相当変だ。何も食べないことが普段とは違う精神状態にさせているのだろう。)
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☆退院

2009年08月28日 13時21分10秒 | 衣食住
盲腸で入院していた。
久しぶりに家に帰ってくる。
パソコンも久しぶりに立ち上げる。
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