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☆論語読みの孔子知らず

2009年08月10日 02時06分36秒 | 文学
渡辺謙がアメリカに住む日本人の被爆者へインタビューをするNHKの番組(「渡辺謙 アメリカを行く 星条旗の下に生きたヒバクシャたち」)を見る。
とても面白い番組だった。

「論語」を少しずつ読んでいるがあまり面白さが分からない。正直言えばまったく分からない。
「小林秀雄全作品22」に「論語」と題された文章があり、参考になるかと思い読む。
「論語」に描かれている孔子のことを感じて読めと、そうはっきりとは書いていなかったが、そんな風なことが書かれているのだと思った。
確かに、太宰治を読むときは太宰治を、夏目漱石を読むときは夏目漱石を、小林秀雄を読むときは小林秀雄を、こんな風な人だったんだろうなと思いながら、というか、確実な人物像を感じながら読んでいる。
作家を好きになるというのはそういうことのように思う。
しかし、「論語」を読むときは、僕はたぶん交通標語を読むようにしか読めていない。
例えば「注意一秒怪我一生」という言葉を読むときに、その作者の交通事故に対する切なる思いとかそんなことを感じて読むようなことを僕はしない。
どちらかといえば、正しいことを言う人は自分の生活感情とは離れたところでものを言うものだな、という感じを抱きながらそういう標語を読んでいると思う。
だからその後ろに作者を想像しない。
「論語」を読むのは、ご両親を大切にしましょう、という言葉を誰かから説教されている気分に通じるところがある。
本気で言っているのかもしれないが、そこに切なる思い、経験からの智慧、を感じることは極めて稀だ。
そのような、正しいことを言う人は大体においてそれを本気では信じていない、ということを経験しすぎていて、孔子が本気でものを言っていると感じることができなくなっているのだろう。
今後は「孔子は本気で言っているのだ」と思いながら「論語」を読みたい。

最初のテレビ番組の話につなげると、番組が面白かったのは紋切型ではない被爆者の話に、切実な感じを感じることができたからだろう。
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