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☆吉本隆明「源氏物語論」を入手

2006年10月10日 23時37分52秒 | 文学
古本屋で吉本隆明の「源氏物語論」(ちくま学芸文庫)を見つけたのでしばらく迷ったのち、買った。絶版の本を見つけるとやはり買ってしまう。
ニンテンドーDSが品薄状態であると見つけたときに欲しくなってしまうのと同じだ。
「第Ⅰ部 母型論」だけ読んだ。「第Ⅱ部 異和論」、「第Ⅲ部 厭離論」、「第Ⅳ部 環界論」と続く。
この当時(80年代)の吉本隆明の本はほんとうに凄い。ところどころ何を言っているのかさっぱり意味がわからない。しかしその熱意と、凄いことを言っているんだろうっていう感じだけは伝わってくる。すさまじい。

「第Ⅰ部 母型論」は、作者紫式部が「源氏物語」をどのような意図を込めて書いたかという読み方をしている。物語の後ろに作者を見ようとしている。その辺が珍しいように思う。思うだけで結構みんなやってるのかもしれないが寡聞にして知らない。「寡聞にして」と言う場合はだいたい言ってる本人は自分のことを寡聞だなどとは思っていないものだと思うが、僕は本気で「源氏物語」研究のことはよく知りません。
この本によると、「中の品」である紫式部が空蝉や夕顔に自分を仮託して描いている、ということらしい。
それと吉本隆明の言う”「前の世」の定め”(簡単に言うと”運命”だと思う)、というものにも作者の姿が見える気がする。これは僕がそう思うだけなのか、吉本隆明がそのように書いているのかはっきりしない。ちょっと判りにくい書き方をしている。

それにしても、「源氏物語」を題材にした評論や研究を読む場合にどこまで「源氏物語」を憶えておかなくてはならないものなのだろうか。
読んでいてよく憶えていなかったので「潤一郎訳」の「箒木」の後半だけを読んだ。空蝉が最初の出会いで源氏とやるのかやらないのかが思い出せなかったので。
なんか、ふたりでごろごろしてたら朝になってみんなが起きだしたみたいな感じで書いてあるのでやったんだろうなあ。やったということに文学史的にはなってるのだろう。はっきり書いてくれないと判らない。このへんが僕が古典が読めない原因だろうな。
源氏が死ぬまでの間の主要登場人物のなかで源氏とやってないひとなんかいないんだよな、おそらく。なんかへんなお婆さんみたいなひと(ないしのすけ?)ともやるもんな。弘徽殿女御くらいか。
しかし「やった」とか「やらない」とか、もっと風情のある表現はないものかと思いつつ、ほかにぴったりとした表現がないのが困る。「ちぎった」なんて言わないし。

「源氏物語論」を読み続ける限り、物語を忘れていっていることをいちいち確認させられるんだろうなあ。結構いらいらするんだけれど。
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