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「何故、私は国費、自費を受験しなかったのか」~私の履歴書⑱

2020年09月18日 | 「私の履歴書」

        
     (1959年、那覇高同期の国費(26名),自費(41名)合格を伝える校内新聞)

 前回述べた国費、自費試験を何故私は受験しなかったというと、私にはその資格は無かったのです。1953年奄美大島が日本復帰し、当時沖縄にいた奄美出身者は外国人扱いになり、在琉許可登録(外人登録)を義務付けられました。納税義務はあれど参政権は無く、今の在日韓国人のような扱いでした。奄美出身の私は国費、自費受験資格もなく、琉大に行っても米国留学の資格もありませんでした。
 先日、触れた私達の高校時代は国費、自費受験は憧れの的で、同期のトップクラスは殆どこれに挑んでいました。当時の琉大はこの国費、自費受験に失敗したメンバーが多く、琉大合格しても毎年、翌年、翌々年には国費、自費を受験するメンバーがおり、言わば琉大は予備校の要素がありました。また、琉大、中でも最難関の英文学部卒のトップクラスはガリオア資金(米陸軍省の「占領地域統治 救援資金」)を受け、米国に留学しました。この米国留学卒業生は「金門クラブ」を形成した沖縄のエリート階級でした。当時の私達にとってこの日留(国費・自費)と米留はエリートコースで憧れの的でした。
 ところが、1953年に奄美大島が日本に復帰し、私達在琉奄美人は納税義務があるものの参政権のない外人扱いで「在琉許可書」の外人登録を義務付けられました。言わば現在の在日韓国人と同じ扱いです。学校を卒業しても公務員や教職への就職は出来ませんでした。 奄美出身の私は先に述べて国費、自費、米留の資格もなく、入学した米国民政府管理下の琉球大を当時の文部省は大学と認めず、専門学校扱いで、沖縄の日本復帰は見えず、沖縄はグアムやパラオの様にアメリカの信託統治下に置かれるのではと、私は自分の未来に言いようのない閉塞感に襲われていました。これが私の琉大退学、”脱琉、北へ!”の動機でした。

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5 コメント

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Unknown ()
2020-09-19 15:12:07
凄い!
つい最近の事!
ドラマを観ているようです。
重田さん、ふてくされもせず、頑張りましたね。
闘病のエネルギーもここから生まれたんですね
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Unknown (shigeta)
2020-09-20 20:48:12
Y さん!”コメント有難うございます。
Yさん、誰かな??( ´艸`)
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Unknown (Y)
2020-09-21 09:58:59
「謎の女」の立ち位置、
人生で初めてなので居心地が良いです。
満州~奄美大島~沖縄~東京
生きていくだけで大変なのに、
子供(辰弥さん兄弟)をしっかり教育して
自立させる。ご両親があっぱれ!!ですね。
もちろん、それに応えた重田さんも立派です。
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Yさん! (shigeta)
2020-09-21 15:10:42
 ハッサー!ターヤガヤ??(´;ω;`)
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重田さん (安谷屋)
2020-09-25 10:10:32
実は私も似たような経験をしています。国費生合格発表があってしばらくして、琉球育英会から突然呼び出しを受け出向くと、「あなたは沖縄滞在期間が足りないので、国費受検資格がない」と言われました。最低10年は必要だったようです。私は5,6年。お先真っ暗になり、どうしようかと困惑していたところ、その場で勧められたのが委託奨学生です。国場組、琉石、沖縄電力の3社が現在募集中なのでこ、よかったらこの中から選んでくれとのこと。私は工学部化学系志望だったので、琉石を選びました。その後大学は東北大学に決まりましたが、卒業後は当然琉石入社を覚悟していました。ところが何んと4年初めの就職先決定の時期に当時の稲嶺一郎社長に相談を持ち掛けたところ、琉石入社にはこだわらない、君が活躍できるなら内地の会社でもOKよと言われたのです。全く予期せぬ出来事で、お言葉に甘えて日本鋼管(株)(現JFEスティール)に入社させて頂き、以後すべて順調に進みました。お返しにと言えば変ですが、沖縄から2,30名の高校新卒者採用に協力できた次第です。稲嶺社長は誠に偉大な方でした。以後、社長には足を向けて眠れません。


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