(私の琉大合格を通知頂いた農学部長の泉裕巳兄さん)
奄美諸島は人口減少が続き、現在10万人になっているようですが、昭和25年には22万人を超える史上最高でした。これは太平洋戦争の終結により、当時満州や韓国、台湾等に移住していた島出身者の帰郷が大きな要因でした。昭和22年、7歳の私も両親、妹と共に大連から奄美に引き揚げて来て、古仁屋小学校に入学しました。
1945年(昭和20年)9月2日、本土から分割され沖縄と共に米国民政府の統治下に置かれた奄美大島出身者は親戚のいる鹿児島や大阪等の本土に行けず、許可なく渡航すると密航者として逮捕されました。山海に囲まれ平地が少なく米作も難しく、漁業以外の産業もなく外地引揚人口増加で貧困に喘ぐこの頃の奄美では、当時同じ米軍統治下の沖縄に大勢、出稼ぎ移住しました。実はこのころ南北朝鮮戦争の勃発を背景に沖縄では米軍の基地建設で空前の人手不足と景気高揚があったのです。私達の出身地の須子茂の伯父、伯母、従兄弟たちも挙って沖縄に出稼ぎに行きました。女性達の多くは沖縄のコザ近界で米軍人相手の水商売店に務め、お盆や年末に帰郷する彼女達の華麗な服装に呆然とし“沖縄って凄いナ!”と感じました。
私の父も昭和26年、沖縄で出稼ぎしていた従兄弟に呼ばれ、沖縄に渡り3年後に母と私達妹弟も沖縄に呼ばれ移住します。以来私は小学6年から琉大1年まで8年間、沖縄に暮らすことになります。当時沖縄には清水建設、大林組等の本土の大手建設会社が進出し、米軍建設に携わり、これら会社はエリート勤務先で憧れの的でした。父もこの建設会社の下請け会社で働いていました。
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