(私が入学した首里城跡の琉大と放生池)
私は那覇高校を創業し琉球大学(法政科)を受験します。当時農学部長を務めていた泉裕巳さんから「辰弥君、法政科現役で一番合格ですよ」と聞いて帰宅した父の顔が忘れられません。この泉裕巳さんは当時琉球政府の副主席を務めていた泉有平さんの子息で、私達と同じ奄美の須子茂出身でした。このお二人は共に九州大農学部卒でした。
今思うと、あろうことか、琉大新入生の私は地元紙に当時グランド施設用地として学内で揉めていた「放生池埋め立て問題」で大学を難詰する投書をしました。当時、安里学長を補佐しこの問題解決に奔走しつつ、英語授業を担任しておられた翁長先生から“あれは君か?”と問われました。またこの件について泉先生が父に“辰弥君のあの投書はちょっと!”と注意があったようです。この投書問題が原因ではありませんが、私は結局琉大を一年で辞めることになります。その一因は沖縄在住奄美本籍者は琉大卒業しても公務員や教員等の公職就職はもとより、当時多くの琉大生が目指したアメリカ留学資格もなく、前途への閉塞感があったからです。同時に、先の国費・自費制度によって、九大、阪大、徳島大、信州医大、新潟大医学、東京医科歯科大等に進学した那覇高3年4組のクラスメイトを見て、琉大の自分がなんだか落ちこぼれのような気になり、授業には出ず翌年の早大受験を目指し、学内の志喜屋図書館で受験勉強ばかりしていたら、大学から除籍退学通知が来ました。
ヤング重田のやらかし武勇伝。また聞かせてください。
今も囲碁三昧??( ´艸`)
って、どちらの森田さんと間違えてるんですか?w