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”朝吼夕嘆・晴走雨読”

「美ら島沖縄大使」「WeeklyBook&Reviews」「マラソン挑戦」

「何故、埼玉に住んでいるの?」~私の履歴書⑬

2020年09月02日 | 「私の履歴書」

   
    (昭和40年、埼玉県北本市の一戸建て住宅購入、移住)

 首都圏在住の沖縄、奄美出身者の多くは鶴見・川崎等に住んでいますが、時に「重田さん、どうして埼玉に住むようになったの?」と聞かれ、我と我が身の経緯を振返りました。満州、奄美、沖縄、東京と漂流した私は大学も琉大、早稲田、中央大、東大(新聞研)を転々。とは言え、卒業したのは早稲田だけ。琉大は1年、中央大(第2学部)、東大(新聞研)は数カ月で中退。その経緯は後程。職業は新聞記者、公務員、コンサルタント、IT会社経営と転職の経緯も後程。琉球新報東京支社の記者を1年で辞め、関東行政監察局に転じ、浦和の行政監察事務所に配属され京王線・上北沢から3年通いました。その節、沖縄の両親を呼び寄せるべく、埼玉県が北本市に住宅団地を建設、分譲することを知り、購入申し込みをしたのですが、庭付きの一戸住宅で購入競争が激しくなかなか(´Δ`;)そこで上司に相談した所、何と県担当者に掛け合い?購入することができ、両親と妹弟を呼び寄せ、成婚、以後その北本に5年間住むことになりました。ここで両親を送り、北本の寿命院墓地に両親の墓を建立しました。 その後、私はビジネスコンサルタント社に転職するのですが、北本市からの高崎線での東京への通勤は遠く、転居を目指し、昭和61年、何とか大宮以南の現在の与野市で住宅を購入転居、以来40年以上埼玉県民として今日に至りました。

 

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「経営力とは」②~”守る力”「私の履歴書」

2020年08月20日 | 「私の履歴書」

            
               (平成4年=創業14年目の入社式)

 私は1978年の創業第一期から1992年の14期まで連続で増収増益の成長を続けて来ましたが、一転、93年の15期から3期連続で減収減益に陥りました。これは後に山一証券、北海道拓殖銀行、日本長期信用銀行等の金融機関の破綻を招く90年前半に始まった世界経済バブル崩壊の影響でした。この時期、同業のIT会社の半分近くが倒産しました。この時期、多くの同業他社が倒産する最中、我社は3期連続減収ながら何とか黒字を死守したことが主力取引の三菱UFJ銀行から高く評価されたことが後で分かりました。
 これは厳しい市場環境による減収を予測した当社は敢えて“特別利益対策”と称する経営方針を作成し社員に説明、協力を要請し、黒字を実現したのです。その具体的内容を振り返りたいとおもいます

 

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「奄美と満州」~私の履歴書⑩

2020年08月07日 | 「私の履歴書」

                
         (50代の父(左)と60代の伯父(父の兄)

 田舎にいた頃の父は村青年特有の相撲好みで、色黒、ガッシリした体格の父を覚えていた母は満州で“色白でほっそりしたインテリゼンス様の父の姿を見た母はショックを覚えたと語っていました。実は飲酒か、父はこの時、胃不調だったようで、60歳で逝去するまで体格は細身でした。
  父の両親は父が小学校入学前に死去し、幼児介護扶養制度などない当時、5歳上の兄と3歳上の姉との3人は近所の家事、農業を手伝ったり、食事を貰ったりで大変功労したようですが、反面、狭い田舎村では近所が逆に親兄弟の様に助けてくれて様です。
 こうした両親のいない父を弟の様に面倒を見たフミ伯母は母から見て、まるで小姑の様に煩わしかったようで、よく愚痴を聞きました。実は両親は島で中学を卒業した父の兄(伯父)の長男(私の従兄)を大連に引き取り、大連工業高校に通わしました。長く同居していた私は“賢孝兄さん”と今でも呼んでいます。
 こうした狭隘な村で助け合い育った島の兄弟親戚の絆が濃密で、こういう育ちの夫と結婚した他県育ちの内の女房にも大変苦労掛けたようです。私が生まれて間もなく、父の勤務もあったのはハルピンから大連に引っ越したようです。
私 にとって、満州とは大連です。ハルピン以外何も知りませんが、大連の幼少記録は鮮明に残っています。終戦の昭和20年、大連で妹が生まれますが、この翌年、私達一家は大連から奄美に引き揚げます。
 この頃は多くの日本人が日本軍占領の満州や、韓国、台湾島には開拓民が少ない、逆に仕事、就職先の少ない奄美、沖縄、九州、東北の人々が国策と本人達の意欲が合致し、渡航、移住したようです。
 1946年、日本から切り離され、終戦で満州、本土からの引き上げ人口過剰、仕事がなく、失業に溢れた奄美の人々は、本土には行けず、米軍基地建設で仕事あふれる沖縄へ殺到します。

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「私の生まれた満州・ハルピン」~私の履歴書⑨

2019年12月30日 | 「私の履歴書」

 

 (父に抱かれる1歳の私、左前が母・右は母の妹・義母・義妹・父の右は母の弟)

 私の両親は奄美大島南部の加計呂麻島の須子茂村出身ですが、私が生まれたのは1940年(昭和15年)満州の哈爾濱(ハルピン)で、五歳まで大連で育ちました。何故、満州で生まれたのかというと、父が学校卒業後、召集され鹿児島45連隊任務を終えた後、ハルピンで満鉄(満州鉄道)に勤めていた父の従姉の岡留ウフミ伯母に呼ばれ、渡航、満鉄付属の「大連都市交通」に就職したようです。
 父と母の結婚もこのウフミ伯母の斡旋紹介でした。たまたま滋賀県の近江絹糸社に繊維工として勤めていた母が須子茂へ帰郷した折、フミ伯母も帰郷しており、説得され結婚したようです。母は須子茂小学校の二つ年上の父を知っており、快諾しハルピンに渡り、結婚、私が生まれたようです。

 ~”重田さん履歴書途絶えたの?”との督促を受け、継続アップ(´Δ`;)

 

 

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「琉大除籍」と本土受験失敗。

2019年09月27日 | 「私の履歴書」

                     

  以前、琉球新報に投稿した琉球大学放生池埋立」問題が原因ではありませんが、私は結局琉大を一年で辞めることになります。その一因は沖縄在住奄美本籍者は琉大卒業しても公務員や教員等の公職就職はもとより、当時多くの琉大生が目指したアメリカ留学資格もなく、前途への閉塞感があったからです。同時に、先の国費・自費制度によって、九大、阪大、徳島大、信州医大、新潟大医学、東京医科歯科大等に進学した那覇高3年4組のクラスメイトを見て、琉大の自分がなんだか落ちこぼれのような気になり、授業には出ず翌年の早大受験を目指し、学内の志喜屋図書館で受験勉強ばかりしていたら、添付のような除籍退学通知が来ました。省みる、この通知書を見た両親の心配は如何ばかりだったか!琉大を退学、上京した私は翌年、早慶、上智の5学部を受験しますが、結果全敗。早大での不合格受験結果を見て、京王線笹塚の下宿先への帰路途中、新宿の大ガード下で呆然とうずくまったのが忘れられません。

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「私の履歴書」⑧~創業の経緯

2019年05月19日 | 「私の履歴書」

                                           (創業時のメンバー) 

  私は1978年、38歳でそれまで10年近く勤めた経営コンサルタント社(BCON)の子会社Bconシステムの営業部長を辞め独立、㈱日本アドバンスシステムを仲間7人と設立しました。創業間もない会社は多くの場合、大手企業の二次、三次という多重下請けモデルですが、私の場合、独立当初から主要取引先はいずれも東証一部のTIS(旧東洋情報システム)、住友電工、富士通の三社でした。創業一〇年過ぎからは独自製品も開発、販売していましたが、この三社が三〇年近く、売り上げの五割を占めていました。いわばこれら東証一部同業の下請け子会社でした。創業間もない小会社が何故、いきなり一部上場会社と取引開始出来たのか。当初は認識しなかったこの理由を、同業各社の状況を見ているうちに追い追い自覚する様になりました。実はこの三社は独立する前の営業担当顧客でした。今なら、“取引先掠奪”で訴えられたかも知れません(苦笑)。事実、勤めていた会社の後継社長からしばしば「重田は我社のお客と社員を掠奪して独立した!」と揶揄、冷やかされます。

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私の履歴書⑦~「私の経営スタイルの功罪」

2018年10月04日 | 「私の履歴書」

 
           (平成4年・創業14年目の社員旅行~秩父長瀞温泉だったか?)
             前列左4人目が42歳?の小生

 先の述べたような厳しい鉄則を強いられる一部上場の社長勤続が平均10年以下ということが改めて分かりました。勿論、経営は株主重視の上場だけが全てではなく、様々なスタイルがあります。ある時、合併会社の監査役から、「重田さんの会社、なんであれ程社員を甘やかしていたのですか!」と言われ、経営者としての自分の甘さを痛感させられました。合併した他の会社と比較して社員旅行以外に創業10毎の記念年パーティ集いや幹部社員の半数近くを占める30組以上の社内結婚の“社内融和、和気藹々?”の社内カルチャーは予想外で、多くの同業OB社長から、そんな経験は少ないと言われました。
 会社経営は悲喜交々ですが、経営の継承、M&A等を考えておられる経営者の方々に私の拙いこうした経験が何がしお役立てばと、拙い経験の披瀝でした。

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私の履歴書⑥~「合併で知った私の限界」

2018年09月14日 | 「私の履歴書」

             
                 (5社合併で入居、会長・顧問を拝命した神楽坂プラザビル)
 合併した企業では残業の事前申請を徹底し、それが実行されない場合、上司の管理責任が厳しく問われます。また、50歳を過ぎた非役職社員は年収がダウンする制度があり、ある時、元当社社員から「息子がまだ在学中で、自宅ローンもあり何とかならいですか」との嘆願を受け、総務部長の元に連れて行ったところ、部長は「ご事情はよく分かります。でもこれは規則で、貴方だけが対象ではありません」との回答に、改めて上場子会社の管理の厳しさを認識しました。長く私の経営風土に親しんだ社員は悲鳴を上げ「なんで、重田のお陰で、こんな目に会うの!」と思われたのでは。とは言え、重田方式の甘い経営ではいずれ会社はもっとは厳しい局面を迎えたのではと、“個々の現場に甘く優しい社長は、長期的に経営逼迫、やがて倒産”という社員にとって最も厳しい“合成の誤謬”の結論を後日感じました

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私の履歴書⑤~「会社合併で知った私の限界と特色」

2018年09月07日 | 「私の履歴書」

        
  (創業20年から退任の30年まで入居した”思い出の”五反田西口の・第一誠実ビル」

 私は創業30期、1期を除き黒字経営を続けていました。創業6年目の1984年には日経の「有力ベンチャー企業500社」にも選出され、国内最大のベンシャーファイナンスのJAFCOからも出資を受け、野村証券常務から同社を立ち上げた今原禎治社長が当時の三田の我社を訪ねて来られ、「財界」(1984年9月18日号)にも掲載されました。87年にはNHKテレビからも取材を受け、放映されました。
 それにも拘わらず、何故上場されなかったのか。30期の売上は20億でしたが、ジャスダックやマザースでの上場には黒字基調の売上高以外のハードル・基準には遥かに及びませんでした。後年、一部上場の同業会社と提携することによって、私の経営スタイルの限界が理解できました。それは一口に言って「欲望の低さ!」です。上場達成の経営TOPは売上、利益率、資産総額等の目標に対し、強烈な意志と実行力があります。例えば、我社の場合、従業員の超過勤務代と利益額はほぼ等しく、この残業代抑制コントロールだけで利益率は倍増したはずですが、私は個々の社員の扶養やローン負担を忖度し、なかなか実行出来ずにいました。

 

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「私の履歴書」④~”社長退任と承継”

2018年08月27日 | 「私の履歴書」

 
        2006年(68歳)で社長退任~社員による慰労パーティ”NASを惜しむ会”

 社長職という経営職を承継しても、創業社長の持株を時価で継承するのは難しく、時に後継社長が株を抵当に銀行からの借入金で株を引き取る例もあります。これは後継社長が取引銀行出身で、銀行自体が当該会社の経営資産力を評価したケースです。
 創業者にとって創業者利潤や“のれん代“は貴重な資産ですが、これは企業独自のノウハウや取引先(一部上場会社か同業下請けか)の評価等のデューディリジェンスDue diligence調査があり、我社の場合、二度ほど受けましたが、そのコストは一千万円を超したようです。勿論、これは買収する会社の負担ですから、M&Aは言うほどに簡単ではないということです。会社のM&Aはこうした創業者利潤の確保以外に、会社の文化の違いや社員の適正や処遇等、TOPの決断には難しい問題がいろいろありますが、これらについては、今後報告したいと思います。

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「私の履歴書」③~社長退任の背景

2018年08月22日 | 「私の履歴書」

                    
       (創業から20年入居した慶應大東門向いの”アネックス三田ビル)

 私の場合は子供がおらず、社員(専務)に社長職を譲ったのですが、これは経営の承継で資本の譲渡ではありません。資本の承継とは私の場合一億円の資本金の七0%を保持していましたが、これは簿価で時価は四倍近い二億八千万前後になるとのことでした。
 退任の数年前、直腸ポーリーフ手術で入院した時、見舞いに来た取引先の銀行支店長から「こんな時に申し上げるのは大変失礼ですが、社長に万一の時は奥様に数千万円の相続税が行きますよ」と言われました。後で考えるとこの支店長の直言、アドバイスが私の創業会社のM&Aに踏み切る切っ掛けでした。
 実はこの支店長は東京生まれでしたが、ご尊父は高名な沖縄出身学者で、私は生前、お会いしたことがあり、こうした縁で当該支店長は通常の取引顧客とは違う配慮があったようです。その後、私の創業㈱日本アドバンスシステムのM&Aを斡旋実施したのはこの支店長が役員として移動したコンサル・投資ファイナンス会社の担当者でした。

 会社のM&Aはこうした創業者利潤の確保以外に、会社の文化の違いや社員の適正や処遇等、TOPの決断には難しい問題がいろいろありますが、これらについては、別途報告したいと思います

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「私の履歴書」➁~「事業承継としてのM&A」

2018年08月21日 | 「私の履歴書」

                   
       (創業時の入居ビル~東京・田町の「サーラ三田ビル7階17坪)
私は昭和五三年、三八歳で会社を立上げ、平成二〇年の六八歳、創業 三〇年で代表取締役を退任、後輩社員に社長職を譲渡し、その後、東証一部同業と資本提携、株式交換、合併会社の会長、顧問を三年間務めたことは前回報告しましたが、今回はこの“事業承継としてのM&A”の背景と理由を振り返りたいと思います。
 創業者にとって経営の承継はもっとも難しい課題ですが、社長としての後継者選択は親族、社員、取引先、銀行、同業者等々とその選択は幅広く、悩ましく難しい問題です。経営権承継以外に株の承継、創業者から見ると“創業利潤”の確保、つまり、後継者が創業者の持株を引き取れるかどうかの問題です。社長の座は譲るが相変わらず株は保持し、会長、顧問として会社オーナーであり続けるケースは良くあります。
 

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「我が生涯を顧みる」①(私の履歴書)記載アップについて

2018年08月11日 | 「私の履歴書」

 たびたび知友から“重田さん、自分史書いて”と督促されていましたが、たまたま関東沖縄経営者協会の会報編集担当者からも「会報に創業史を書いて欲しい」という要請を受けたのを機会に、自分史記述に挑戦することにしました。
 創業30年、古稀を過ぎて大腸癌が見付り、ステージ4のストマー手術を終え、5年目を迎えた今年、何時転移再発、初期認知症かも分からない残された生涯、どこまでご期待に添えるか分かりませんが、起業意欲ある後輩に幾ばくたりともお役立てばと週一回の割合で生涯を振り返って見ます。
 月一度の経営者会報記載と週一のBLOGアップが同期せず、記載内容の誤謬、過誤にお気づきなら忌憚なくご指摘、ご教示頂ければ幸いです。

 

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朝吼夕嘆

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