焼肉屋の味方は?

2011-05-16 00:00:37 | あじ
ユッケ集団食中毒事件は、元ディスコの黒服男が社長になって、地方銀行の融資を集めてあっという間に増殖させた焼肉チェーンの利用者のうち、100人以上が入院、4人が死亡という現状になっている。「安いものにはわけがある」とも言える。まあ、生肉は危険ということを子供に教えるべき立場の親が、こどもにユッケを食べさせるということも信じ難い。

人類史を振り返れば、ギリシア神プロメテウスの気まぐれによって神々の世界から「火」を手に入れ、それにより、生肉を食わずに焼肉を食べることができるようになり、そのステーキに振りかける胡椒の実を手に入れるため、アフリカ最南端を廻りインドに向かう大航海時代が始まる。

それなのに、生肉を食べるというのは、どうも文明的な食事ではない。まあ、焼肉屋というのは、肉を包丁で切るだけで焼くのはお客なのだから、もともと料理店の仲間に入っていないのかもしれない。

私も焼肉は好きだが、ユッケは食べない。(関係ない話だが、キムチも食べない。口が臭くなってギャルに嫌われるから)


ところで、あるグループの人たちに、「ユッケ集団食中毒事件が起きてから現在、焼肉食べたいと思う?」という質問をしてみると、「それでも焼肉を食べたい」と答えた人数が63%もいるそうだ。

集団名:ギャル(平均年齢17.2歳)

別に、ギャルでもなければギャルオでもないのだが、「ギャル・リサーチ・プレス」で、そういうリサーチ結果が出ているそうだ。

では、ギャルは親からどう言われているかというと、約70%が『焼肉店に行ってはダメだ』と言われているそうだ。(つまり焼肉店の売上が70%減になるということだろうか)

『ユッケ自体を食べるのはちょっと…って思うけど、焼肉は別!ニュース見てて、ママが焼肉屋に行かない方がいいよって言ってたけど、問題があったのはユッケでしょ!?ってことは、焼肉は全然問題ないって思う』


ということらしい。

では、なぜギャルは焼肉に寛容なのかというと、ギャルの好きな食べ物ランキングでわかるようだ。

1位…焼き肉
2位…チョコレート
3位…イチゴ
4位…ハンバーグ
5位…チーズ

ベスト5、覚えただろうか。ギャル攻略の糸口である(もっとも平均年齢は17.2歳なので、攻略にあたっては、各種条例に違反しないように)。1位と4位が肉である。早い話が「肉食」ということなのだろう。今後日本の回りで何らかの理由で魚が捕れなくなっても、問題はなさそうである。


ところで、もうすぐ人間ドックなので、焼肉はご法度である。毎食、味気のないものを食べ続けて数キログラムの減量を試みている。食パン1枚、バターなし。わかめウドンとか。が、まだ結果は出ていない。しかも、胃の検査も行うので、当日は食事を抜かなければならない。

したがって、検査が終わった後、最初に何を食べようかと想像するのが、大きな楽しみなのだが、焼肉屋に行くかどうか、まだ決めかねている。「肉は食いたし、命も惜しい」

私の履歴書 孤高の画人

2011-05-15 00:00:58 | 書評
gajin実は、この日経ビジネス人文庫は、税抜きで1300円である。本の腰巻に写真で紹介されている画家は、右から中川一政、東郷青児、熊谷守一、棟方志功の4人。4人とも明治生まれである。このうち、東郷青児の自伝が読みたくて購入したのだが、1/4だけ読んで、あとはポイではもったいないので全部読むことにする。

どうも、全員が貧乏で、両親が揃っていないとか、地震の被害を受けたとか、画家になる前に、あれこれ仕事を転々としたりしている。

明治大正ってそういう時代だったのだろう。

それぞれに面白いエピソードはあるのだが、その中で青森出身の棟方志功のこと。

彼は、ゴッホに憧れていたのだが、裁判所の給仕をしながら青森市在住の画家のところに行って、「わ(私)だば、バン・ゴッホのようになりたい」と言ったそうだ。実際にはゴッホが描く絵のようなものが描きたい、ということで、実際に自分の耳を切ったり自殺したりしたいわけはないのだろう。

その画家の家で雑誌「白樺」の表紙に、エメラルド色の背景のゴッホの「ひまわり」が色刷りで印刷されているのを見て、ガク然と感動するくだりがある。それでプロの画家になろうという思いがメラメラと湧いてきたそうなのである。


実は、その「白樺」の表紙にあったエメラルド色の背景の「ひまわり」だが、以前から少し調べていた。

ゴッホのひまわりというのは、広義の作品群と狭義の作品群がある。花瓶に挿されているひまわり7枚を指すのが狭義の場合で、その他、ヒマワリの花束のようなものが5枚ほどある。それも含めるのが広義である。

棟方志功が見たのは、本人談によれば、6本のひまわりで、バックがエメラルドというのだが、実はそのような絵は存在しない。記憶違いだろう。バックがエメラルドのは、3枚目のもの(現在、米国人の個人所有)だろうが、それはひまわりが3輪しかない。むしろ、1945年に焼失してしまった5輪のひまわりに違いない。ただしバックはコバルトブルー。たぶん記憶が混線したのだろうと思える。





なにしろ、この4枚目のひまわりは、白樺派の総帥である武者小路実篤が、芦屋の豪商である山本顧彌太に依頼して購入したものである。白樺派美術館構想があったようだ。

ところが、結局、この絵は昭和20年8月6日。終戦まであと9日と迫った時期の芦屋への大空襲の結果、灰燼となったわけだ。以前、芦屋に行った時に、山本邸がどこにあったのか調べようとしたのだが、まったくわからなかった。

では空襲の時に、山本はなぜこのひまわりを持ちださなかったか、と言えば理由がある。

室内に特設の壁を作っていて、壁の中に絵が組み込まれていたそうだ。だから持ちだせなかった、と言われる。


ところで、この4人の自伝を読んでいると、親というのは、こどもの才能を伸ばすという意味だと、最初はプラスなのだが、こどもの能力がプロ級の場合は、むしろ邪魔な存在のようである。「画家なんぞになってはいかん」とか、そういうことを言い出す。

今回の地震で親を失ったこどもも多数いると思われるが、むしろ全国分の「こども手当」はとりやめにして、その財源をこれら災害孤児にすべて注ぎこんだらどうだろうか。そのうち何人かが、日本の未来を救うような大発見をしてくれるかもしれないわけだ。

今年の握り詰は・・

2011-05-14 00:00:06 | しょうぎ
毎年開催の詰将棋全国大会は7月17日に大阪の高槻で開催されるようだ。出席できるかどうかは今のところ未定だが、恒例の「握り詰め」の使用駒が発表になる。(あくまでも詰将棋の話で、握り寿司の使用ネタじゃない)

それで、使用駒は、

王、飛、金、銀、桂、歩、歩、歩

たった8枚である。確か、昨年も「玉飛金香歩歩歩歩歩」の9枚

tegataずいぶん手の小さい人なのだろうか。私なら全部握れるかもしれない。掌が大きいのである。以前、尾道の千光寺にあった第12代横綱陣幕久五郎の手形より大きかった。

もっとも、いつも全駒を握っていたら、握り詰めに意外性がなくなってしまうだろう。

それにしても、チャレンジを始めて5回目位になるのだが、一度も双玉になったことがない。なぜかなあ・・

昨年は、飛び道具が飛車と香車と2枚だったのが、今回は、飛車だけ。それでは合駒を取って筋に変化を付けたりできないような気がする。飛車打、歩合、同飛、同玉これでは飛車が歩になるだけだ。ミニ煙にして、8枚を3枚残すとして、5枚を捨て駒にすると、5回連続捨て駒にしても9手詰め。それを引き伸ばしても15手詰め位しか作れないような感じもある。

そこで、創り方もよくわからないので、過去の作品で使用駒が似ていて、ちょっとマシな作品を探してみると、9枚使用で桂が一枚多いというのを見つけたので、1時間くらい考えてみたのだが、うまくいかない。当然ながら、完成品には無駄な駒はないので、1枚減らそうというのが無理なようだ。

そのため、2枚足りない作を作り直しているうちに、もっと高額の駒を入手するうまい手順を発見。なんとなく、ベスト20を狙えそうなものになる。ただ、なにせ駒が少ないので、最後に大技を決めるような素材にはなりそうもないので、まあ、そんなところかな。同一構造で同一作が現れそうなので、早々とポストへ。後で出すと疑われそうなので。

ここに、発表するのは、もっともっとずっと後になるので、まあその時に失笑してくだされ。


さて、4月29日出題作の解答。実は29手詰である。(最初の図面を都合により微調整。内容が難しすぎたので)

長い問題を出すと、長い解答を書かなければいけないということになるがしかたない。



▲7三角成 △4一馬(王手) ▲6三香 △6二飛 ▲5三桂 △5一玉 ▲4一桂成 △同玉 ▲4三竜 △3一玉 ▲3二歩(途中図1) 

初手の逆王手を防ぐ手としては、本譜の他、▲7三桂があるが、△同香 ▲同角成 △4一馬 ▲6三香に渡した桂を△6二桂と打たれて逆王手で失敗する。初型で、玉型は桂が品切れ状態なのだ。

そして、途中図で△2一玉と逃げると、▲1二角の好手で早詰めになる。

途中図1から、△同飛 ▲同竜 △同玉 ▲4三角 △4一玉 ▲5一飛 △4二玉 ▲5二飛成 △3三玉 ▲3二竜 △2四玉(変化図2)

4二で精算した後、▲5四角と離して打つと、最後に一枚足りなくなる。そのため、▲4三角と筋悪に遠まわしに攻めて、2二の桂を狙うわけだ。

途中図2より、▲2二竜 △3五玉 ▲2七桂 △4五玉 ▲3七桂 △同銀成 ▲2五竜まで29手詰。

桂馬の二連打によって、最後は初手の▲7三角成が効いてくる仕掛けである。

動く将棋盤は、こちら




今週の問題は、簡単作。順に追いかければいい。最後に駒が足りなくなったら、その辺にある肉を切りとって、直ちにお客に食わせればいい。ユッケ方式だ。

わかったと思われた方は、コメント欄に最終手と手数を記していただければ、正誤判断。

いろは丸展示館

2011-05-13 00:00:55 | 美術館・博物館・工芸品
2008年2月のイージス艦あたごと漁船との衝突事件は、2009年1月に海難審判では、あたご側に衝突の主因があるとの裁決が出たのだが、横浜地裁では、衝突の原因は漁船側にあると、正反対の判決を下した。

漁船の航跡を特定することにより、あたご側に衝突防止のための右転義務があったのか、なかったのかはっきりするのだが、その航路の特定について、検察側の主張する航路は、間違っている、と判断されたわけだ。つまり、おなじみの冤罪コースである。取り調べ段階から、二人の自衛官は海上保安官の描いた図面に同意していなかったそうだ。

で、どこのメディアも取り上げないのが不思議なのだが、冤罪になった遠因と言えるのが、自衛隊と海上保安庁の不仲。犬猿の仲と言った方がいい。保安庁としては、いつか海上自衛隊を痛い目にあわそうと思っていたはずだ。当時、メディアも騙されてしまったのだろうか。大臣も辞めたし。

だぶん。自衛官でなく、普通の海運会社の船員だったら、すぐに調書にサインしてしまうだろう。保安庁とけんかしても会社が痛い目に会って、自分がもっと痛い目に会うから。


ところで、少し前に福山の近くにある鞆の浦(とものうら)に行っていた。平安時代から栄えた港である。ちょうど、京都大坂から瀬戸内海を西に向かって、海が荒れる時などに風雨を防げる避難港として場所的にも最高だったのだろう。平安時代から、文学作品などにも登場している天然港である。

ここで、日本で最初の海難審判がおこなわれた。

衝突は1867年5月26日夜の11時ごろ発生。この年の1月に徳川慶喜が最後の将軍となり、年末に大政奉還となる。そうした大混乱の時期である。



登場人物は、坂本竜馬である。土佐藩海援隊。

船齢5年、海援隊のチャーターした45馬力160トンの「いろは丸」は長崎から大坂に向かって、何らかの貨物を積載し、航海していた。

一方。いろは丸と衝突したのは紀州藩の明光丸。867トンである。船齢6年。150馬力。両船ともに近代的な蒸気船であり、英国製である。紀州から長崎に向け、瀬戸内海を航行中だった。



そして、衝突は、東から西に航行中の明光丸に対し、南西から北東に向かういろは丸の航路が重なる場所で発生する。あたご事件と相似している。

衝突した二隻のうち、小型で損傷の激しいいろは丸を明光丸が曳航して、近くの鞆(とも)港へ向かったが、途中でいろは丸は沈没してしまう。竜馬を含む乗組員は明光丸に移り、上陸後、損害賠償の談判を始める。結局、今回と同様に、衝突回避義務がどちらにあったか、ということで4日間の交渉が続くが解決しない。さらに、いろは丸の積荷について、銃砲類と金塊で合計7万両以上という竜馬の主張も、その証拠がはっきりしない。

そして、審判は場所を変え、長崎奉行所の元で続行されるが、難航。土佐藩対紀州藩という構造に変っていく。そして、突然、1か月後に紀州藩が被害額の大部分を支払うことに同意し、事件は終結する。ほぼ竜馬側の言い分を認めている。

そして、秋口に紀州藩は7万両を支払い、8日後に竜馬は京都で暗殺される。大政奉還の直後である。


実は、この事件については、いろは丸(竜馬側)に非がある(回避義務あり)のではないかという説の方が多いのと、数回にわたる沈没船の海底調査の結果でも、一体何が積み込まれていたのかはっきりしないということが言われている。



この「いろは丸展示館」でも、そのあたりは、妙にあいまいになっている。

なんだか、交通事故の時に、すぐにクルマから降りてきて、相手の非をなじりたてる気の短いオヤジのような話で、竜馬がさらに嫌いになる。

7月7日、晴れ

2011-05-12 00:00:08 | 映画・演劇・Video
773大震災の時、関東のあちこちで停電が発生。その後、計画停電の街は、暗闇に包まれ、電気のありがたさを思い知ることになるが、だからといって電気代に上乗せして何兆円も集めようというのには、みな反対だ。

そのうち思い出したのが、地震でもないのに、横浜のランドマークタワーの回りの照明を消させて、暗い星空に「今、天の川を見たい」とラジオ番組で無理なお願いをリスナーにした女性歌手がいたことを思い出す。

1996年の映画。

世界的アーティスト望月ひなたを演じるのが、15年前の観月ありさ。今はサザエさんはじめコミカル傾いている。そして相手役は、パシフィック自動車社員の山部健太を演じる萩原聖人。こちらは質より量といった感じで、予定表の隙間を埋めるべく、どんな役でもOKといったところだ。

で、キャンプ地で知り合って、密かに交際しようとするが、そうもいかないわけだ。7月7日はひなたの誕生日で、キャンプ場の夜空に生まれて初めての天の川を観る。そして来年のこの日にもう一度天の川を見ようと無理な約束をしてしまうわけだ。なんだか「冷静と情熱の間に」に似ている(逆かな?)。

しかし、この二人を利用しようと薄汚れた両者の取り巻きが、あれこれとふざけた真似をする。パシフィック自動車が社運をかけて発表する新車(日産のリバティとそっくり)発表会で大失態が演じられるわけだ。

そして、二人は会えなくなる。当時の携帯電話は20センチもあるような代物なので、やたらと持ち歩くこともできず、情報交換が困難になる(ロメオとジュリエット風)。

日本も進歩のない国なので、15年前の映画なのに、現代と風俗が違うのは、携帯電話の大きさと男物のスーツのデザイン(当時はソフトタイプが流行っていた)だけである。あとは、今と同じ。

そして、望月ひなたは日本を離れる日に横浜のランドマークのスタジオからさよならトークを始めるのだが、とうとう脚本からはずれて、「天の川を見たい」と言いだして、都会の照明を真っ暗にさせてしまったわけだ。

そしてパシフィック自動車の本社でラジオを聴いていた健太は、あわてて横浜に向かって車を走らせるのだが、照明がないためか道路は大渋滞である。でもやっと間に合うわけだ。


面白いもので、もしもパシフィック自動車のモデルが日産だとすると、数年前に横浜駅東口に本社を引越しさせたばかりである。駆け付けるのに車は要らない。5分も走ればランドマークだ。照明を消す要望を発表する前にスタジオ(FM横浜か?)に着いてしまう。

監督は本広克行で、初めて撮った映画がコレである。あちこちに遠慮の塊が見受けられるのだが、初めから70点目標で作ったのかもしれない。残りは、役者の個性とドリカムの音楽。

そして、この映画だが、テレビの映画専門チャンネルから録画したのだが、なぜかDVD化されていないそうである。映像のあちこちに企業コマーシャルが溢れているが、それが原因なのだろうか。あるいは、国民を電波で洗脳するという行為が危険思想とマークされたのだろうか。よくわからない。

もう一つ追加すると、高速道路の照明を消す話だが、現在、東名高速は照明を消している。夜は結構怖い。千葉県の南に延びる館山自動車道は、元々照明設備そのものが設置されていないので、夜は走りたくないのだが、暗くなったせいで東名で重大事故が発生したら、どうしてくれるのだろうか、と思わず憤慨しているのである。

塀の向こうへ

2011-05-11 00:00:02 | 書評
horie連休中に雑誌の整理をしたところ、新潮社の書評誌「波」3月号に、堀江貴文氏と養老孟司氏の対談があった。

全体として、そう面白い対談でもなく、養老氏の話が暴走し、堀江氏が、「ああ、なるほど」とか「そうですね」とか。そんなパターンが多い。6ページも対談が続くのだが、その最後のところが面白い。

養老氏が堀江氏に、こう言う。「たとえば、後藤新平だって、刑務所に入ってますよ。・・・・」
突然に、刑務所の話が飛び出したのは、近く堀江氏が収監されそうな状況だったからなのだろうか。それを知っていて慰めようとしたのかとも思えるが、余計なお世話のような気がする。

堀江氏はこう返す。
 「拘置所にいた末期に『私の履歴書・経済人』(全38巻)を読みだしたら、最初の一巻目の執筆陣は、見事に半分以上が刑務所に入っていましたね。電力王の松永安左エ門とか五島慶太とか、みんな入っている。」

最後に〆たのが養老氏で、
 「大物は“収監率”が高い(笑)。」

ということなのだが、最後に入っている(笑)というのは、養老氏が笑ったのだろうか、堀江氏が笑ったのだろうか。「虚ろな笑い」ということだろうか。なんとなく、自らの不幸に理由をつけてみた、といったところだろうか。


さて、対談中にあるように、一巻目の半分以上が刑務所に入っていたというのは本当だろうか。リストアップしてみた。13人である。誰が刑務所に入っていたか。ちょっとわからない。

五島慶太(東京急行会長)
杉道助(ジェトロ理事長)
堤康次郎(衆議院議長)
新関八洲太郎(第一物産社長)
原安三郎(日本化薬社長)
松下幸之助(松下電器産業相談役)
山崎種二(山崎証券社長)
石坂泰三(経団連会長)
出光佐三(出光興産社長)
伊藤忠兵衛(東洋パルプ会長)
大谷竹次郎(松竹会長)
高碕達之助(経済企画庁長官)
遠山元一(日興証券会長)

武内俊子のことから

2011-05-10 00:00:08 | 市民A
takeuchi先日、福山市のふくやま文学館に行った時に、地元の三原出身の童謡詩人、武内俊子の名前を知る。モノクロの写真は、日本人離れした美女顔である。だた、男でいえば有名な中原中也の帽子を被った写真など、文学者にはナルシストが多い。実際には、これより若干崩れたところに本物の容姿があったのだろう。

そして調べているうちに、大震災のあと突然有名になった童謡詩人、金子みすゞとほぼ同世代人であることがわかる。

金子みすゞは1903年生まれ。そして夫の暴力的行動のため、1930年、26歳で自殺してしまう。一方の武内俊子は1905年生まれ。「かもめの水兵さん」などの作詞で有名。1945年4月に東京で、病没。3月の東京大空襲の影響なのだろうか。39歳では長生きとは言えない。

そして、彼女たちが活躍をはじめたのは1925年以降なのだが、当時の童謡・童話の発表の場としては、3種の雑誌があった。雑誌「赤い鳥」、雑誌「金の船(後に、金の星)」、そして雑誌「童話雑誌」である。

この3誌には、それぞれに中心人物がいた。「赤い鳥」には北原白秋。また「金の船」には野口雨情。「童話雑誌」は西條八十である。

このうち、武内俊子が師事したのが野口雨情(1892‐1970)。野口雨情は弊ブログの中の「赤い靴はいてた女の子」の中にも登場。

一方の金子みすゞは西條八十に師事する。「若き詩人の中の巨星」と八十は評している。

しかしその後、みすゞは不運にも蛇のような男と見合結婚してしまい、上京することもなく詩人生命を失っていく。1927年に下関駅で西條に会った時が彼女の中では人生で最も輝いた時もしれない。

武内俊子は、広島県の三原に生まれ、広島県立第一高等女学校に進む。その後、結婚して東京世田谷に引越し。4人の子供を育てながら創作を続けることになる。

1945年の4月7日に東京で亡くなったのだが、墓地は広島市の二本松にある。

そして、昨年秋に、彼女についての新しい情報があった。中国新聞2010年11月10日発信

武内俊子のノートに未発表詩

三原市出身で「かもめの水兵さん」などの作詞で知られる童謡詩人武内俊子(1905~45年)の自筆のノートを、孫の武内ゆかりさん(59)=茨城県日立市=が相模原市の実家で見つけた。

ゆかりさんによると、未発表とみられる作品を含む複数の詩が書かれているという。ゆかりさんは三原市に寄贈する意向を示している。 

ノートは縦20センチ、横15センチ程度で厚さ約1センチ。表紙に「武内俊子」と記した名刺が張り付けてある。記入されていた年齢などから昭和初期ごろに書いたとみられる。


俊子には4人のこどもがいると言われ、その中の一人が、相模原に住んでいて、何らかの事情で、その家の整理をしていたところ、孫のゆかりさんが発見したということだろう。ノートの所有権をゆかりさんが持っているということは、遺品の整理ということだろうか。ゆかりさんの年齢から逆算すると、祖母の没後に生まれたことになる。

日立市というのも、今回の地震の被災地である。ノートが無事に三原市に寄贈されていたかどうかもちょっと気がかりである。


さて、

俊子が亡くなった1945年4月7日から4カ月後、母校の広島第一高女から650メートルの場所で原爆が炸裂する。そして没後364日後に鹿児島で生まれた少年が、その広島第一高女の現在の姿である広島皆実高校へ通学するようになる。吉田拓郎。



ところで、野口、西條と並ぶ三大童謡詩人の一人である北原白秋であるが、調べてみても女性詩人を育てたようにはみえないわけだ。そのかわり、3人の大物詩人を養成したことになっている。萩原朔太郎、室生犀星、大手拓次。

それだけの実績でも十分かと思うのだが、もう少し調べると、女性問題を起こしていた。1912年に松下俊子という人妻との関係が発覚し、当時存在した姦通罪で拘置所に入れられている。周囲の人間の奔走により何とか刑務所行きは免れたものの世間の哄笑にさらされることになる。(その後、白秋は松下俊子と結婚することになる。英国皇太子みたいだ)

白秋が野口に師事していた人妻美女の武内俊子に気がなかったかどうかは不明だが、再び事件を起こして、「白秋、別のトシコと関係か?」とか再び厄介に巻き込まれるのは、まっぴらだ、と思ったのかもしれない。 (と、いつものように俗に流れて本稿終わる)

日本のガガ

2011-05-09 00:00:48 | 音楽(クラシック音楽他)
gagaアメリカの現代を代表する女性歌手といえば、レディ・ガガということになるのだろうか。東日本大震災では、日米両国民が固いキズナによって繋がれたトモダチであることを証明するために、緊急日本公演をしてくれるということである(もっとも、キズナの語源は、家畜をつなぐ綱だったのだが、それは日本語の問題だ)。

そのレディ・ガガ論というのを多くのアメリカの社会学の専門家が分析しているのだが、多くは、「米国社会の体制崩壊の象徴」みたいな言い方をしている。

もっとも、ウサマ・ビン・ラディンの住居を襲撃して、10年前の仇とばかり、復讐を正当化し、無抵抗の相手を撃ち殺して海に沈めるという、まるで日本の暴力団みたいなことをして大喜びしている国の社会心理なんて分析してもしょうがないような気もするが、体制崩壊の予兆は、マドンナの「反キリスト教的」なステージからだったのではないかと思わないでもない。

オバマが大統領になったのも、いわゆるWASPの比率が下がり、その他のマイノリティ総数が増えてきたからに他ならないとも言えるので、数十年後には、ヒンズー教徒やイスラム教徒が大統領になっても何も驚かない。

日本のレディ・ガガのこと。

実は、大震災の後、テレビCMがすっかり姿を消し、ACのフィルムが一斉に流れだした時だった。PUKKABAKKAというファッション系の洋品(服とアクセサリー)のCMが目に付いた。というか、AC以外には、このPUKKABAKKAだけだったような気がする。どこかで見たような顔のオバサン風がニコニコ笑って、いかにも時節はずれって感じだったが、その女性の名前は、・・

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アン・ルイス。

そう、いつの間に消えてしまった女性歌手というカテゴリーに入るのかもしれないが、ハワイとかロスアンゼルスに居住していて、新しい企画を打ち出したわけだ。ファッションとは関係ないDVDなんかも発表したようだ。

彼女と言えば1Q84年に発表した「六本木心中」ということになる。一体、カラオケで何回歌われたのだろうか。実際には10年位ずっとロングヒットしていたようだ。何回歌ってもうまくいかないわけで、他の歌手もカバーしているが、全部下手だ。この曲は彼女に大いなる名誉を与え、作詞家湯川れい子に巨万の富を与えたのだった。

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しかし、バブル崩壊で六本木が普通の街になった頃、彼女は日本から脱出。

そして、今、色々調べてみても、彼女のやっていたことって、とても体制破壊的なステージで、20年前位のことなのだが、その当時も、その後も追随困難だったのだろうなあ、と思っているわけだ。

どうも、高音で歌い過ぎていて喉を傷めたり、パニック障害になったり、そして離婚したりと、結構さんざんな人生が待っていたらしいのだが、・・

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ついに、何かをやり始めたわけだ。

千年に一度というのは、小さな確率なのだろうか

2011-05-08 00:00:23 | 市民A
静岡県にある浜岡原発の停止が大きな問題になっている。その前に東電の賠償責任の限界についての議論もある。値上げして賠償に充てるという、いかにも東電ロジックを誰も覆そうもない状況だ。官房長官は、値上げの前にコスト削減と、正論を言うが、そもそもコスト削減する気があれば、原発を作らなくても、今の電力料金でやっていけるだろう。すべてが高コストの商法で、その下々まで広がる巨大利益構造が既に実在している。

原発についての意見は、様々な正反対の意見が関係者や専門家や学者たちの口から溢れるが、そういう仕事をしている人たちの多くが、利益構造にあずかっているか、あるいはあずかり損なっているわけで、自分の意見が正しいというより、正しい方がいい、と思っているわけだ。

仮に、東電の責任となったとしても、福一の危険は、立地上の問題と、設計上の問題と、事故後のオペレーションの問題ということになるが、そうなると、東電だけの問題にとどまらないはずだ。安全と認定したのは誰で、設備を作ったのは誰で、とか責任追及の泥沼にはまるような気がする。

事故の原因が、軽油発電機の冠水という矮小化された問題になってしまっているが、その他にも使用済み核燃料をいつまでも保管し続けていることや、同一箇所に6基もまとめて原子炉を設置して危険が複乗化していること(柏崎もそうだったが)など多数の問題は地元の自治体も含め、元々誰の目にも見えているので、その責任は誰のせいか、ということになる。


そこで本題。西暦869年に起きた貞観地震のこと。今回の地震・津波と極めて似ているとされる。M8.5以上の地震が起きれば原発は危ないという説もあった。ただ、何となく多くの人は、100年に一度の地震は問題だが1000年に一度は無視してもいいと思っていたかもしれない。

実際、貞観地震は1000年前ではなく、1142年前だし、M8.5ではなくM9.0だったのだが、被害の巨大さは、Mの大きさではなく、加速度と津波の高さや速さに関係するのでM8.5とM9.0の差はここでは論じない。1000年(1142年でもいいが)について考えてみる。

現代日本の寿命は、女86歳、男78歳である。平均すると、82歳である。82年間生きる人間が1000年に1回起きる巨大地震に遭遇する率はどれ位なのか。冷静に考えれば、82/1000程度であることがわかるだろう。8.2%である。安全を考える上で、リスクが8.2%というのは無視しうる小さな数字と言えるだろうか。8.2%の確率で破綻する国の国債(日本かな?)って、売れるだろうか。あるいは利回りはどれくらいになるのだろうか。

といっても、日本を離れてもっと住みやすい国を探そうという人がたくさんいるわけもないし、結構、日本人の住みやすい場所は環太平洋の海が近くにあって魚の美味い国が多いので、結局どこでも地震リスクはあまり変わらない。

だから、リスクから逃げるよりも、リスクに耐えうる社会構造にすべきなのだろう。


で、浜岡原発だが、ず~っと前から、よりによって危ない場所に作るなあと思っていた人は多いだろう。さらに、先日、静岡方面に行った時に現地の人に話を聞いたところ、原発はもとより、今までの東海地震対策はすべて見直さないと、ダメだろうということだった。想定している津波の規模が違うそうだ。

といっても、防波堤の高さを増すといっても現在の防波堤の上に糊で貼りつけるわけにはいかないから新設になる。3階建の防災センターを5階建にするといっても上に二階を乗せるわけにはいかない。新設。避難所の場所だって高いところに変え、迅速に逃げられるように新たに道路は必要。さらに静岡県の海岸は、内部まで平野が続く。


例えば、自民党政権だったら、浜岡原発について別の選択をしていただろうか、と考えると、やはり同じようなことになったのではないだろうか。政策の問題と言うよりも確率の問題なのだろう。


中部電力は、原発停止要請に直ちには応じないようだが、たぶん、代替燃料(LNGや重油など)の供給のメドが立っていないというのが真相なのではないだろうか。何しろ、週末で、買い付けるべく取引先は休日である。すぐには決まらない話だろう。それに命令ではなく要請である。

金曜夕方の首相の演説の中で、「原発停止を中部電力に要請した」というくだりがあって、ちょっと違和感を覚えた部分があった。法令外の頼みごとをするのだから、「中部電力」と呼び捨てにしないで「中部電力殿」とか、殿とか様とか付ければいいのに、あるいは、「中部電力株式会社」というように正式名称で呼ぶとかすればいいのにと感じたわけだ。威張るのは、彼の人間性なのだろうか。

御撰象棊攷格(2/2)

2011-05-07 00:00:40 | しょうぎ
徳川家治が幕府の紅葉山文庫に残した「御撰象棊攷格」。その2として、栄えある絵葉書として、不詰、早詰を後世に残してしまった第98番と第99番。その事情を考察。



まず、98番から。題意はこちら




この問題は、原図でいうと、初手に▲9八銀と捨てる手があり、△同玉、▲9二飛成以下、比較的簡単な9手詰になる。作意は41手詰なので、要するに問題のミスである。掲示した図には、玉方に9一歩を配置してあるが、ここでなくても▲9二飛成が王手でないようにすればいいだけなので、一歩をどちら向きにおいてもいい。

ただ、家治の棋力であれば、この早詰を見逃すことは考えられないわけで、要するに原稿にあった一歩が書物になる間に脱落してしまった、ということなのだろう。つまり校正ミスとでも言えるだろう。LPSAの日めくりカレンダーにも時々生じる。

が、疑問は、「誰も見つけなかったのだろうか」ということ。

実際、製本されてから、このミスを見つけたとしても、それを口に出せるのは、唯一将軍だけということになる。発覚すれば、誰かがハラキリになるやもしれないわけだ。うかつには申し出られない。

案外、将軍は見つけていたのかもしれない。治世を田沼意次に任せっぱなしで、浮世を楽しんでいたのだから、切腹騒ぎなどおこせば天下の笑い者として後世に馬鹿殿様として悪名を残すと思ったのかもしれない。



次に99番。これは、謎めいている。題意は49手詰

が、詰まない。6三に配置された玉方の香車を歩兵に変えるときれいに詰む。



しかし、原図を見れば、6三に配置するのは、香車よりも歩兵の方が普通の感覚だ。なぜ家治は盤上4枚目の香車を6三に配置したのか。

あれこれ、考えたのだが、実はしっくりした答えは見つけられなかった。もしかしたら、という可能性なのだが、本筋の途中変化で攻め方5五の竜を5九に引いて、下段の王に王手をかけた時に王方が△6九歩と合駒を打って詰まない筋を作ったのではないだろうか。もちろんそれは、行きどころのない駒を打つという反則なのだが、そういうところに粋を見せたつもりだったのではないだろうか。結果として、香の利きが強すぎて、本当に詰まなくなってしまったわけだ。


さて、4月23日出題作の解答。



▲2二銀 △1四玉 ▲1五金 △2三玉 ▲2五香 △1二玉 ▲1三銀成 △同玉 ▲2四金 △2二玉 ▲3三金 △1三玉 ▲2三金 △1四玉 ▲2四金まで15手詰。

途中で▲2五香と姑息に離して打つ手と▲3三金と卑怯な金の動きが、事態を解決させる。

動く将棋盤は、こちら。

今週の問題だが、GWが終わり、そろそろ詰将棋でも、と言われる方用にやや軽快な一作を。



わかった、と思われた方は、コメント欄に最終手と手数と酷評を記していただければ、正誤判断。

なぜ5000億円の仮設住宅なのか

2011-05-06 00:00:05 | 市民A
現政権が自民党以下だと思うことも多いのだが、仮設住宅費5000億円というのが、一体どうしたことかと思うわけだ。

どうも、必要な住宅数を72,000戸と予想しているようなのだが、そうすると一戸あたり694万円ということになる。しかし、プレハブで四畳半×2とキッチンとバストイレ付きにしては、高すぎるのではないだろうか。3倍くらい高いようの感じがする。

それに、しょせんは、仮設であって、いずれ壊すわけだ。

しかも、完成まで半年かかるという状態だ。

新聞によれば、今のところ避難民は13万人弱ということなので、たぶん総戸数も少し多すぎるような気もする。


一方で、日本は今、「超・空き家大国」なのである。

日本の総戸数は、5800万戸くらいで、人口は減り始めているのに、実は、戸数は増え続けている。日本では当たり前のように思われているが、家を買う時には、立て替える人と新規に建てる(あるいは買う)人がいる。すべての家が建て替えであるなら家は増えないが、初めてマンションを買う人は、つぶすべき家を持ってないのだから、結果総戸数は増え続ける。

5800万戸の家に対して、世帯数は5000万程度なので、800万戸の差がある。もちろん別荘として二軒使っていたり、こっそり別の家族を持っていたりする人がいるのだろうが、そんなに多いはずはない。

800万個は14%にあたるのだが、正確にはわからないが、少なくとも10%。500万戸の空き家はあると考えられる。

だから、7万2千戸に5000億円かける位なら、空き家所有者に声をかければ、格安で十分な数の物件を貸してもらえるのは間違いないわけだ。それに、若干の手直しと、退去時の補修費だけで済む。ゴミも出ないし、余剰金をもっと前向き予算に回せる。空き家所有者だって、固定資産税を払っているだけなのだから、国が払う賃料は、格安でいい。
同じようなことは、農地にだってあるわけで、全国の休耕地面積なんて、途方もなく大きいわけだ。10年以上前に、八郎潟の干拓地を見に行ったことがあるが、巨費を投じて、日本第二位の大きさの湖をすっかり埋め立てたにも関わらず、すでに90%近くが休耕地化しているといった感じだ。


もちろん、先祖代々の土地から離れないという感情は一般的なもので、そこから動くことで何がしらの損害が発生することが一般的なのだろうが、そういう穴埋めに予算が登場するのではないだろうか。


で、何でこうまでも理解不能な対策が出てくるかと言うと、まず民主党が官僚の言いなりになっていることによるのだろう。さらに、この官僚構造だが、高級官僚(省庁の課長とか班長)というのが、ピラミッド構造に組み込まれているために、自分のパソコン上でEXCELで試算を行ったりしないことになっていたり、電卓すら叩かないのではないだろうか。

以前、高級官僚から相談を受けて、ある企画のいくつかのプランの評価をアングラで手伝ったことがあるのだが、驚いたことに、たとえばA案、B案、C案とかあると、そのいずれかを選ぶということしか考えないわけである。三者択一方式。テストみたいだ。いずれにしてもプランというのは前提に未知の情報が想定されるのが常なので、実際には、A案とB案の中間で、少しはC案の一部も取り入れたらいいのではないだろうか、というようなことにはならないわけだ。

だから、後で前提が変わると対応できなくなる。


それはそうとして、仮設住宅の話だが、どうしても作ってしまうのだろうが、あとで解体する時には、ゴミにするのではなく、きちんと分解して、全国に分散させ、いつでも組み立てられるように保管しておいたらどうだろうか。

それで、20年経って資材が使われないまま朽ち果てれば、それはそれで、「良かったなあ」ということになるだけの話なのだから。

芥川賞はなぜ村上春樹に与えられなかったか・市川真人著

2011-05-05 00:00:39 | 書評
haruki先日、福山の文学館で、作家日野啓三が受賞した芥川賞の賞状を見た。僅か半紙一枚程度の大きさで、かなり情けない感じだ。記載されていることも。「賞金 三十万円」「商品 時計」とあるだけである。

しかし、ほとんどすべての新人作家にとって、何よりも欲しいものが、この紙切れらしい。いや、「ほとんどすべて」と書いたが、「残らずすべて」と書いた方がいいだろう。原稿料単価が10倍になると言われている。

かつて、どうしてもこの賞が欲しいと恥も外聞もなく選考委員に頼み込んだ太宰治が受賞できなかったのも、やや腑に落ちないが、村上春樹がこの賞を受章していないことも、不思議な話である。

本書は、そのあたりの事情を考察しながら、実は日本文学史に踏み込んでいくのだが、若干構造上無理があるのかもしれない。というか、表題についてもっと突っ込んでほしかった。

個人的には、村上春樹よりも太宰治の方が不思議な話なのだが、それはおよそ理由がわかっている。

大御所川端康成に嫌われていたからだ。たぶん、太宰小説の荒っぽさも嫌いだっただろうし、本人の人間性も嫌いだったのだろう。十分にレベルに達していただろうに、少しかわいそう。


そして、芥川賞も戦後すぐは大した賞じゃなかったそうだ。何しろ受賞者が翌朝の新聞をみて、自分の受章を知りうるようだった。

それが、メジャーな新人賞に格上げになった転機が。石原慎太郎の「太陽の季節」。だったそうだ。

村上春樹が芥川賞の候補になったのは1979年の「風の歌を聴け」と1980年の「1973年のピンボール」。その頃は第二の芥川賞ブームだったそうで、村上龍の「限りなき透明に近いブルー」とか池田満寿夫の「エーゲ海に捧ぐ」といった話題作が多かった。



それに比べると、「風の歌を聴け」と「1973年のピンボール」とは、個性の上でちょっと迫力に欠けていた。

当時の選考委員の評判も、今一つということで、何しろ、群像新人賞から芥川賞に挑んだのに、群像の選考委員でかつ芥川賞の委員だった二人(丸谷才一と吉行淳之介)も、おざなりなプッシュで、大御所である大江健三郎はかなり否定的。

どうも、村上龍の「限りなく・・」が、アメリカに対抗する日本人象を打ち出したのに対し、村上春樹は、アメリカそのものじゃないか、という評判だった。「ポップアート」とか「アメリカのどこかの町」とか、そんな評が多い。

そして、数年後になり、彼は、もっと長い小説を書き出し、それなりの世界を自分で作り上げ、あまり芥川賞にこだわることもなくなったのである。

ただし、最近作の『1Q84』の中でも、芥川賞は、かなり大きなテーマであり、その賞をもらえなかったことに、たぶん少しこだわりもあったのだろう。

まとめてみると、

1.2候補作には、迫力が欠けていた。
2.アメリカ的過ぎると考えられていた。
3.選考委員の中に、絶対反対者がいた。大江健三郎とか。
4.3回目の候補作がなかった。(長編を書きだした)

一言でいえば、「運が悪かった」と言うのだろうか。


本書の中で、映画「ALWAYS 三丁目の夕陽」の主人公である茶川竜之介青年の話が登場する。その茶川のところに転がりこむ少年が古行淳之介。もちろん二人の名前はパロディなのだが、実は、芥川(あくたがわ)というのも妙な姓で、「あくた」というのは「ゴミ」という意味である。「ゴミ川」である。

何か由緒があるのではないかと思って調べると、芥川家は、江戸時代は、徳川家に勤めるサムライだったのだが、普通のサムライとは異なり、大名たちが登城した時に、控室で茶湯の接待や雑用をする係だった。れっきとした役職がついていて「数寄屋坊主」という。

本当は、「茶川」だったのかもしれない。

今年も、トマトとゴーヤで

2011-05-04 00:00:14 | 市民A
tomato昨年は、トマトとゴーヤ(白と緑)の収穫があったのだが、今年も、いくつか苗を買ってきて植えてみた。

トマト、白ゴーヤ、緑ゴーヤ、キウリ。

昨年とは、僅かに違う場所を選択。

ただし、早くも緑ゴーヤの苗がしおれてきた。キウリの葉も枯れてきたように見える。

goya緑ゴーヤにもいくつか種類があるようで、「ニガニガ」という品種と「ホロニガ」という品種があった。あまり苦いのは苦手で、「ホロニガ」の方にしたが、枯れてしまっては、話にならない。

いつも、高い苗がダメになり安い苗が生き残るのは、どうしてだろう。人事部長になれば、安い給料でよく働いてくれる社員を発掘できるのかもしれない。(働く=絞りとる、という意味だが)

一冊ぐらい本でも買って読めば、もう少し賢いことになるのかもしれないが、そこまですると、素人の領域から飛び出しそうなので、あえて、トライ&エラー方式のままである。


sirogoya野菜と言えば、一時、野菜の放射能問題があった時に、神奈川県産の25センチ程度のミニ大根が一斉にスーパーに並んだのだが、あれは、「野菜クライシス」を恐れて、未完成品のまま、焦ってひっこ抜いて売ってしまったのだろう。いわば、換金売り。今頃、さぞくやしい思いをしているだろう。

義援金と支援金の差に悩みながら

2011-05-03 00:00:15 | スポーツ
花粉の飛散がほぼ終わった頃を見計らって、かなりしばらくぶりに富士山の近くにゴルフに行く。道路はGWで混雑。法令の許す限りのテクニックで道を急ぐ。

ところで、密かに決めていたのは、本日の獲得賞金については、大震災復興への寄付金にしようと思っていたから。といっても特にスポンサーはいないので、同伴プレーヤーの財布を狙っているだけなのだが。

しかし、実は気になっていたことがある。寄付とはいえ、主に2種類があることを最近知ったのだ。

「義援金」と「支援金」。

普通、新聞社とか日赤に寄付すると、「義援金」になり、特定の団体(NPOとか)に寄付すると、「支援金」ということになる。

それぞれ、長所と短所があるのだが、どうしよう。

fuji1

そして、ゴルフ場の方も、富士山が見えそうで見えない。

プレーの方も、うまくいったり失敗したり。

結局、賞金は0円。

寄付金の種類について悩んでいたからだろうか。


そして、ぎっしりと客を詰め込んでガッチリ設けたゴルフ場の思惑によって、すっかり夕闇が近付き、やっと姿を見せたのが、マウント・フジである。

fuji2

最近、富士山の爆発という風説を流す人間が現れている。不思議なことに科学者が風説を流すとウソっぽく聞こえ、預言者がしゃべるとホントらしく聞こえたりする。

しかし、気になって調べると、富士山爆発の破壊力の100倍くらいの火山も日本にはたくさんあるとか、世界には10万年内に爆発が予測されていて、地球の生物の半分くらいが死ぬかもしれないと言われるイエローストーンなんかもあることがわかった。

火山保険ってあるのかな。

民俗学への道(宮本常一著)

2011-05-02 00:00:30 | 書評
minzokugaku著者の宮本常一の名前だけは、以前から心得ていた。全国各地を歩き、その情報を正確な文章で記述していた人。なんとなく、宮脇俊三のようなマニア性とか椎名誠のようなアドベンチャー性を持っているのだろうか。とか推測していた。

さらに、昨年の暮れに発行された季刊誌「考える人」の中で、現代の紀行文学者たちの愛読書が紹介されていて、多くの文化人たちが、「宮本常一」を挙げていた。

「これは、読まなくてはなるまい。姫路城の前にある観光客用の茶屋で串団子を食べた時に、どういう表現をすればいいのだろうか」とか、夜の鹿児島天文館通りで、「どういう基準で二件目のネオンを探せばいいのだろうか」といった、長年抱えてきた疑問に答えが見つかるのではないか。とか・・

それで、近くの書店で無造作に棚に並んでいた彼の著作(文庫本)を、中も見ないで買ってしまう。

ところが、

『民俗学への道』は、彼の自伝であったわけだ。(「自伝」というのは、「記載ミスの多い伝記」である、という言い草を知っているだろうか。知らなければ、今、覚えよう)

ともかく、自伝にしろ、伝記にしろ、その本人の業績や著作を知ってから読むのが一般的である。もちろん、歴史に埋もれた名もない一介の個人の生涯を、世の中に紹介するという感動的伝記というのもあるだろうが、宮本常一は、既に有名人であり、単に私が不勉強だっただけだ。

ということで、著作を読んだことがないのに、彼の人生と密接に関連する、著作類について、その成立の背景を伝記として読んだわけだ。村上春樹論を読んでから「海辺のカフカ」を読むようなものだ。

ということで、大きなことはまったく書けないが、先祖代々の話から始まり、ある時、柳田国男に師事し、そしてある時、柳田民俗学の上に自分の民俗学を組み上げ、そして、日銀総裁(後に大蔵大臣)で民具収集家の渋沢敬三と師弟関係を結び、その基礎の上に学会から離れ、独自に民俗学を構築していった、ということが、うっすらとわかった。

思えば、数年前に訪れた大阪の万博記念公園の中にあった国立民族学博物館は、渋沢・宮本両氏の活動の賜物であったわけだ。


後で、調べると、「宮本常一書作集(全30巻)」「私の日本地図(全15巻)」が代表作ということだそうだ。

さて、・・・