赤い靴を追いかけて(4)

2006-06-15 00:00:03 | 赤い靴を追いかけて
「赤い靴はいてた女の子」3

函館で牧師を探す
菊地記者は、きみちゃんの行方を捜すのに糸口を函館で探すことにした。かよが安吉にきみちゃんを引き渡したのは函館である。さらに多くのキリスト教会がある。岡そのさんは「プロテスタント」というように聞いている。なにしろ両親はカトリックの宣教師をしているのだから、おそらく間違いはないだろう。その中で、地元の意見など総合するとメソジスト系の日本基督教団函館教会ではないだろうか、という説に傾いていく。しかも、教会では、以前養女をもらった牧師がいるというようにも伝わっているらしい。しかし、函館でわかったのはそこまでで、調査の範囲は東京に移っていくのである。


原胤昭とメソジストのつながり
菊地記者は、当時集めていた多くの資料の中に、どこにもはめこめないバズルを何枚か持っていた。その一つが原胤昭である。元刑務官でクリスチャンということまではわかっていた。さらに調査していくと、彼は青山学院の創成期の中心人物だった牧師の本多庸一と親しいことがわかってきた。青山学院は日本のメソジストの中心である。そしてきみちゃん探しは青山学院を中心に過去の記録を再調査するところから始まるのである。


テレビ放映が決まり、大型調査となる
年が変わり、昭和53年1月北海道テレビは、赤い靴さがしをテレビドキュメントとすることを決定する。さらに、その後全国ネットに流すことが決まる。ここまでの個人による調査が組織による調査に格上げになる。今までの調査についても、綿密に調査の穴がふさがれていく。番組のナレーターも倍賞千恵子に決まる。きみちゃんの行方がわからないまま、番組の収録は北海道の原野で進んでいく。

そして、ついに青山学院から、「可能性があるのは二人に絞られた」という連絡を受ける。一人はチャールズ・ヒュエット師。もう一人がチャンセラー・バーティルス師。特に、時期的にはヒュエット師は岩崎かよとほぼ同時期に函館・札幌にいたことがわかっている。そのため、アメリカにあるメソジスト本部にヒュエット師について紹介する。

しかし、本部からの回答では、”こどももいなかったが、養女の記録はない”とのことである。菊地記者はバーティルス師、ヒュエット師の実像に近づくため、ついにアメリカへ渡ることになった。


東京「雨情忌」・金田一春彦の感想
また、昭和53年2月に行われた雨情忌に菊地記者は現れる。「赤い靴」の童謡の女の子のモデル探しのヒントを探しにいったのだが、国語学者である金田一は、この歌の中で、二番の「ヨコハマ」というところが、詩の中で、もっとも荒っぽい表現と指摘する。1、2番の中で、全体が夢の中の話のように幻想的であるのに、具体的な地名が表現されているからだろう。それが故に、実際に横浜港から出航するというところにリアリズムを感じると推定する。さらに金田一は、「横浜からの出航ならば行先はアメリカである。欧州なら神戸である」と断定する(注:実際はそうとも限らないのだ)。


米国での調査
まず、カリフォルニアで調査は始まる。二人に絞られた候補のうち、バーティルス師の出身地である、モントレーに行くのだが、まったくのからぶり。次に、ヒュエット師の情報を得るためにデンバーに向かう。デンバー大学卒業ははっきりしている。しかし、それ以上の調査は簡単にはいかない、調査団はデンバーの町で、電話帳を片手にヒュエットという名の人たちに電話をかけ続ける。そして、ついにチャールズ・ヒュエットの親類を見つけ出すのである。

しかし、ヒュエットの末裔達はきわめて親切に調査に協力したのだが、どうしても養女がいたというような、”絶対的な証拠”を得ることはできなかった。帰国前に夫妻の最晩年の住まいがあるパサディナで二人の墓を見つけることができた。墓碑に刻まれたチャールズは1864-1935年、妻エンマは1870-1964年である。エンマの亡くなったのは昭和39年。岡そのさんが北海道新聞に投稿するわずか9年前であった。


ヒュエット師であることを確認
日本に戻った菊地記者は、その足で撮影が続く、静岡県日本平に向かい、岡そのさんと情報の分析を行う。そのさんが、母から何度か聞いた外人の名前が「シュミット」であるということだ。おそらく、母かよさんは、佐野安吉が死地を求め樺太に来た際に聞いたのだろうが、どこかでヒュエット→シュミットに間違えがあったのだろうと結論を付けることになる。


aaf5e269.jpg再び東京 墓地を捜索する
菊地記者は、その後、日本平はじめ、都内、横浜、函館の外人墓地を探し続ける。過去帳をたんねんに追う。そして行き詰まる。そして、発想を逆に考え始める。佐野家の戸籍に記載されていた、麻布で死亡届を出しているところから、港区の墓地をさがすことにしたのだ。最大の墓地は、青山霊園である。膨大な過去帳を大勢で探したところ、ついにきみちゃんの名前を発見することができたのだ。

佐野きみ 静岡県平民
昭和44年9月15日死亡
死因 結核性腹膜炎
墓番号 ・・・・・

墓番号を辿ると、そこは鳥居坂教会の所有であった。何らかの事情で9歳のきみちゃんは結核性腹膜炎で亡くなり、鳥居坂教会の墓地におさまることになった。


aaf5e269.jpg鳥居坂教会
鳥居坂教会はメソジストの教会である。その後の調査で、ヒュエット師は明治36年、37年には札幌で牧師をしていたのだが、明治38年に欧州へ出発したことがわかっている。その後、アメリカに行き、出身のデンバー大学で修士課程をおさめ、明治39年の秋、再び日本に戻っている。そして、日本に戻ったあと、あわただしく函館、札幌と赴任地を変え、明治41年8月にアメリカに帰国。この時、きみちゃんは日本に残ったわけだ。(注:菊地記者は、ヒュエット師が明治38年に欧州から米国に渡った際、きみちゃんが同行したかどうかは、あまり明確には書かれていない。おそらく同行しただろうというように読める)

なぜ、きみちゃんはアメリカに行かなかったのか。

菊地記者は「結核」のせいだろう、と結論付ける。出発間際に判明した結核感染のため、夫妻はきみちゃんを、当時鳥居坂教会が運営していた孤児院に預け、病状の回復を待ったのだろう。しかし、それは叶わなかった。

と書くことで書を閉じている。


しかし、いくつかの部分において、私には解釈できない点があったわけだ。

特に、きみちゃんのことを中心に考えてみる

続く


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