赤い靴を追いかけて(2)

2006-06-13 00:00:10 | 赤い靴を追いかけて
b775e689.jpg「赤い靴はいてた女の子」1

妹からの投稿
著者である菊地寛氏は、昭和15年(1940)旭川生まれ、札幌の大学を卒業したあと、北海道新聞社で記者をしていた。そして、創立まもない北海道テレビに転職したのが昭和48年(1973)。ちょうどその年の11月のある日、北海道新聞夕刊に中富良野町在住の岡そのさんという女性から投稿に目がとまる。



私が生まれた10年も前に日本を去った姉。いまとなっては、顔も姿もしのぶよしもありませんが瞼を閉じると赤い靴をはいた四歳の女の子が、背の高い青い目の異人さんに手を引かれて横浜の港から船に乗ってゆく姿が目に浮かびます。この姉こそ、後年、野口雨情が。「赤い靴」に書いた女の子なのです。


菊地記者は、この誰かに訴えるような投稿を読み、その後2年間にわたり文通を行っている。そして、昭和50年の末頃、岡家を訪問し、そのさんの記憶に残る情報を取材している。そして、岡さんの母であり、きみちゃんの母でもある「岩崎かよ」の故郷である静岡県富士見村に向かう。ところが、富士見村は存在しない。清水市の一部になっていた。


岩崎家の戸籍
菊地記者は清水市役所で最初の壁に出会う。”親戚でもない人に戸籍を見せることはできない”と言われる。今後、ここに限らず、多くの場所で、記者は赤い靴の話をし、調査の協力を得ている。そして、戸籍を閲覧する。

岩崎家の戸籍は、戸主:岩崎清右衛門(弘化1-明治23年)、妻:せき(安政6-明治35)、長女:かよ(明治17年-)、長男:辰蔵(明治19年-)。そして清右衛門が亡くなったあと、戸主は辰蔵となるが、辰蔵の籍の中に、姪として、「きみ:姉かよ□□□女(明治35年7月15日)」と記載がある。□の部分は、後年塗りつぶされたそうで、元は「私生子女」と書かれていたそうだ。つまり、何らかの事情で父親の名前が記載されなかった。さらに、2年後、明治37年9月19日にきみちゃんは佐野安吉という男の許に養子縁組している。


佐野家の戸籍?
次に佐野家の戸籍を改めると安吉には恒吉という弟がいるのだが、奇妙なことに戸主は弟でその籍の中に安吉も、きみちゃんも入っている。きみちゃんの母の記載は岩崎かよと書かれていて、父の欄には、「佐」と一文字書かれたあと、斜線で消されている。そして、菊地記者のにとって、思いもかけない記載があったのだ。きみちゃんは、明治44年9月15日午後9時死亡東京麻布区提出となっていた。果たして9歳で東京でなくなったのだろうか。それでは、「きみちゃんがアメリカに行った」という岡さんの証言とは矛盾する。そして、この後、次々と調査上に登場する人物たちとの格闘が始まるのである。


岩崎家の事情
岩崎家は農家であった。ごく普通の農家の最初の不幸は、戸主清右衛門(きみの祖父)の早世(46才)である。その時、せきは31歳、かよ(きみの母)は6歳。辰蔵は4歳。一家はかなり生活に苦しんだと想像される。せきは、一時再婚し、農家の次男を婿にする。しかし、なぜか一男を得たものの、離婚。子供も手放してしまう。その頃、出入りしていたのが佐野安吉という男である。どうも地元で評判のワルだったらしく、鼠小僧の真似をして義賊風を吹かしていたらしい。その結果、刑務所との出入り生活を続けていたらしいのだが、どういうわけか、岩崎家がお気に入りになり、しばらく、せきと愛人生活を送っていたらしい。


きみちゃん出生の事情
一方、子供たちは成長し、かよさんは小学校を卒業したあと、甲府の方に奉公に出る。甲府は当時街道街として大いに賑わっていて仕事は数多くあったそうだ。そこで6年ほど勤めたあと17歳になったかよさんは、実家に戻ることになる。そして、運命の日、秋祭りのある日、村に戻っていた51歳の佐野安吉に出会うのだが、おそらくは言葉巧みに言い寄られ関係をもってしまう。そして同時に妊娠したのである。さらに、かよさんの出産を支えるべき母親のせきさんは、安産祈願に身延山へ向かった途中、旅先の甲府で落命してしまう。6月のことである。それから慌しく1ヵ月後、7月15日、きみちゃんが誕生する。  

続く



最新の画像もっと見る

コメントを投稿