赤い靴を追いかけて(5)

2006-06-16 00:00:46 | 赤い靴を追いかけて
20fc0920.JPG菊地寛記者の昭和50年から54年にかけての取材、そしてドキュメント放送、さらに「赤い靴はいてた女の子」の出版。ここまでが、とりあえずの集大成である。菊地寛記者にとっては、北海道新聞を退社し、誕生間もない北海道テレビへ転職してまもないこの取材が、出世物語の出発点となる。その後、彼は社内の階段を登り続け、常務にまでなる。現在は66歳となり、ついにテレビ局を退社する。そして、三番目の職場として選んだのは、札幌市郊外にある北星学園大学の文学部教授である。ジャーナリズム論が専攻である。運良く、大学のホームページを辿ると彼の写真があった。現在の研究課題として、「明治期から大正、昭和初期にかけての人間群像。時代と舞台が育んだ人間の生き様。」となっている。また自らの著書のトップに「赤い靴はいてた女の子」をリストされている。さらに、この北星学園は1887年、プロテスタントの宣教師、サラ・クララ・スミスさんが設立したスミス女学校から発展したものである。菊地教授による再調査はあるのだろうか。


ところで、当時の調査の中で、いくつか気にかかる点がある。問題を「きみちゃん」そのものに絞ってみる。

取材によれば、
1.明治35年7月15日に清水(不二見村)で誕生。母は岩崎かよ、父の記載はないが佐野安吉である。
2.明治36年の初め、母かよさんと二人で函館に向かう。ここでかよは鈴木志郎と知り合う。
3.明治37年9月19日に佐野安吉の養子となる。まもなくヒュエット夫妻の養女となり、母と別れる。ヒュエット師は札幌にいた。
4.明治38年、チャールズ・ヒュエット師は欧州へ向かう。さらに米国デンヴァー大学修士課程に学び、明治39年秋に帰国。函館、札幌と赴任教会を移動し、明治41年8月に米国へ帰国。
5.その際、きみちゃんは、結核のため、乗船できず、麻布にある鳥居坂教会の孤児院に預けられる。
6.しかし、病魔は彼女を逃がすことなく、3年後、明治44年9月15日、結核性腹膜炎で9歳の生涯を閉じ、青山霊園にある鳥居坂教会の教会墓地に眠っている。

私は、彼女の人生の粗筋にいくつかの疑問を持っていた。それらは菊地記者の取材を読むと、解決したものもあれば、依然としてわからないこともあった。

きみちゃんの人生で感じていた謎は二つ残った。

20fc0920.JPG一つは、チャールズ・ヒュエット師が欧州から米国へと日本を出国していた期間(1年から2年間)、きみちゃん、あるいは妻のエンマさんは、同行したのだろうか?あるいは日本にいたのだろうか。付随的だが、この短期間にあわただしく転勤を繰り返しているのはどういう事情なのだろうか。きみちゃんが一回出国していたとすれば、元々の童謡通りに異人さんに連れられて行っちゃたのに、また帰ってきたことになる。菊地記者は、この点をはっきりと記していない。全206ページの202ページ目に僅かに、海外へ出国し帰国した可能性を示すに留めている。

もう一つは、最初の疑問につながるのだが、6歳のきみちゃんが米国にわたらなかった理由は、本当に結核感染だったのであろうか。当時の医療水準から考えて、船に乗れないくらい病状がはっきりしている女の子が3年も生存することがあるのだろうか。あるいは、孤児院という共同生活を送るようなものなのだろうか、という点である。

私事だが、私は、ほんの短い2年間だが、プロテスタント(パプテスト)の幼稚園に通っていたことがある。無論、今は反宗教的な怠惰な日々を送ってはいるが、体の中に1%くらいの残存効果はあるだろう。全体として、ヒュエット夫妻ときみちゃんの関係については、ほんの僅かな違和感を感じる。


20fc0920.JPGさて、違和感を体感するために、私が歩き始めたのは、まだ時折、雪も降る頃からだった。まず、麻布周辺を歩く。最近、募金の累積が1000万円となったきみちゃん像のあたりには、あまり感じるものがなかった。募金の元締めの洋品店のご主人は、もの優しそうな方なのだが、逆に紳士過ぎて洋品店の経営が心配になってしまう。

次に、孤児院があったとされる場所は、なぜか神社になっているし、また大江戸線7番出口になっている。正確には孤児院といっても女性だけで、永坂孤女院と言っていたそうだ。児童に限らず、かなりの年齢の女性もいたそうである。そして、その敷地は鳥居坂の坂の下にあるのだが、鳥居坂を登ってみることにする。地図で見るとその坂の途中に鳥居坂教会があることになっている。

まず、麻布側から鳥居坂を登りはじめる。きつい坂道である。鳥居坂の由来は、江戸時代に親藩大名である鳥居氏が屋敷を構えていたからなのだが、この地が防衛上、重要な土地であったのだろうということがわかってくる。江戸時代を通して、幕府が警戒していた大藩は、島津家と伊達家なのだが、広尾方面に広大な屋敷を構え、現在も仙台坂の名を残す伊達藩と江戸城の間にあるのである。防衛線と考えたのだろう。そして、坂の右上には、新しい建物のシンガポール大使館がある。国交樹立してまだ40年らしいので、後年の取得だろう。そして坂を上りきったところに右に東洋英和学園の校舎群が並ぶ。その先、左側に鳥居坂教会がある。斬新なデザインである。明治の香りはもはやない。そして、そのすぐ先は六本木である。ロアビル脇の信号に出る。考えれば、孤児院の場所まで教会のものだったのだろうから、今のシンガポール大使館の敷地も含め広大な土地を所有していたことになる。メソジストはそれほど豊かな財政だったのだろうか?

さらに、日を改め、青山霊園に行く。なにか簡単に場所がわかると思っていたが、とんでもない間違い。結局、3回足を運んだ。内一回は空振りなのだが。

さらに、いくつかのキリスト教史関係の資料を読んでみた。さらに、造形芸術家イサム・ノグチの伝記も参考になった。ちょうどきみちゃんと逆パターンで、同時期にアメリカから日本に渡ってきている。

順に追うことにする。

続く


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