赤い靴を追いかけて(1)

2006-06-12 00:00:21 | 赤い靴を追いかけて
255e99ff.jpg「赤い靴はいてた女の子の秘密」について興味を持ったのは、そう以前のことではない。しかも多くの偶然が重なり、昨年後半のある3日間のできごとが、奥深い洞窟への入口であったのだ。それは2005年11月18日(金)の夜に始まる。

当日は金曜の夜であり、当時、「現存12天守閣全制覇」の最後、12番目である弘前城へ登るべく計画を立てていた。冬季に長い休眠をとる天守閣に年内に行くには最後の週末だったが、きわめて短い日程しか許されていない状況だった。深夜の浜松町発の直通バスで早朝に弘前に到着し、午後、最終便で羽田に戻るまでの時間に太宰治のふるさとである津軽鉄道金山へ向かうことにしていた。

当日、バスの出発は夜11時頃だったと記憶している。まず、金曜夜は閉館時間が繰り下がっている上野の美術館で北斎展を見に行く。その後、日比谷線で六本木に向かい、ライトアップされたヒルズ周辺を歩き、初めて麻布十番温泉に浸かる。青森の温泉と較べようとしたのだ。その後、都営線「麻布十番駅7番出入口」から地下に降り、大江戸線で大門駅に行き、夕食をとってからバスに乗る。

翌日土曜は弘前で午前中を過ごした後、太宰治の生家がある金山にいくため、まずJRに乗る。弘前駅にあらわれたのは五能線「鯵ヶ沢」行の列車である。五所河原で乗り換え、雪の津軽鉄道に乗る。そして、同日青森空港から最終便で東京に戻る。まだ、「赤い靴」のことは何一つ知らない。

255e99ff.jpg「そして、問題の11月18日の日曜は、赤レンガ倉庫地区でのワインフェスティバルと山下埠頭で行われている現代美術展「横浜トリエンナーレ2005」へ行く。赤レンガから山下埠頭までは遠いので、バス乗り場に並ぶと、赤いバスが到着。これが横浜名物「あかいくつ号」であった。このバスは、普通のバス路線を走るのであるが、ガイドさんがいて「赤い靴」の由来を語る。そして、その話は、私を、未知の世界「赤い靴の秘密」の入口へ誘うものであったのだ。

バスの車内で、聞いた話は、およそ次のような内容だった。

1.赤い靴の童謡は野口雨情の作詞に本居長世が作曲をつけたもので、横浜港からアメリカ行きの汽船に乗って日本人の女の子が連れられていく情景が描かれている。明治時代の少女の悲しさが伝わってくる名曲と考えられていた。

2.しかし、ある時、この歌のモデルとなる女の子が実在していたことが、その妹と名乗る女性(岡その)があらわれたことでわかってきた。

3.以前、北海道新聞の記者だった野口雨情が同僚から聞いた話を元に作詞したものであり、調査の結果、その子は「岩崎きみ」という名前で、静岡県日本平で生まれた時には、訳あって父親がいなかった。

4.その後、母親(岩崎かよ)が、青森県の鯵ヶ沢出身の鈴木志郎という人と結婚。北海道留寿都村に新生活を始める。が、その頃、3歳のきみちゃんは、生活苦からキリスト教の宣教師の養子となった。

5.そして、米国人宣教師夫婦が帰国する際、きみちゃんを連れて行こうとするが6歳のきみちゃんは、重い結核に罹っていて、船旅に耐えることができない状態だった。

6.そして、預けられた先は、麻布十番にある鳥居坂教会の孤児院であったが、残念ながら3年後、9歳でこの世を去ってしまった。

7.そして、横浜だけでなく、日本平、麻布、鯵ヶ沢、留寿都村にきみちゃんの記念碑が建ち、各地で記念行事が行われたのである。

つまり、この話の通りだと、きみちゃんは横浜港から船に乗ろうとしたら、結核のため麻布の孤児院に送られてしまい、3年後、病死してしまう。生誕地の日本平と終焉の地である麻布はわかるが、横浜や鯵ヶ沢や留寿都村はきみちゃんには関係ないことになる。そして、これらの地名のうち二ヶ所(鯵ヶ沢、麻布)はこの数日の間に知らぬ間に異常接近していたわけである。

255e99ff.jpg「そして、少しずつネット上で調べていくと、この問題については、北海道テレビが昭和53年に特集番組を制作していた。テレ朝系で全国放送されている。当時、妹である岡そのさんの証言で調査が進められていたことがわかるが、なかなか調査の詳細がわからない。さらに、「岩崎きみ」という名前で紹介されているが、亡くなった時は、佐野きみという苗字になっていたらしい。米国人の養女になっていたはずなのにである。調べるにつれ、謎が謎を生み、わけがわからなくなっていく。また、彼女の終焉の地とされる孤児院があった場所は、現在、麻布十番駅の7番出入口の場所ということなのだ。

ところが、そのうちに、テレビで放送された内容を、調査にあたった菊地記者という方が一冊の本にまとめていることがわかった。まず、その本にあたるべきだろうという方針になる。書名は「赤い靴の女の子(現代評論社・昭和54年刊)」である。

ところが、今度はこの本が入手できない。何しろ出版社の”現代評論社”は現存しない。どうもマルクス経済関係の著者を多く抱えていたらしい。ではなぜ、その出版社が「赤い靴」だったのだろうか。見当がつかない。そして、片端から図書館データを検索しているうちに、港区の麻布図書館(つまり地元の一つ)に一冊所蔵されていることがわかった。

この本は、かなり傷んでいたのだが、一気に読み、206ページ全部を複写する。そして、仕方がないことだが、この本は、きみちゃんのことを書いたというよりも「きみちゃんさがしのドキュメント」の中で、明治末期の日本を描くということに主眼が置かれている。著者の菊地寛氏は、「岡そのさん」の証言から、多くの人物を洗い出し、その複雑な関係の中から、徐々にきみちゃんに近づいていく。調査は北海道、都内、静岡と各地にわたり、米国にも渡っている。そして、最後に東京青山墓地の過去帳の中にきみちゃんの名を発見するわけだ。つまり、そういう本としては一級品である。菊地氏は著書の中で、「普段は取材中にはメモはとらないが、今回は正確を期さねばならないので、メモをとりながら取材した」という意味のことを書いている。遠い過去の事実を正確に呼び戻すためである。


つまり、この本は、きみちゃんをとりまく人たちのつらく苦しい明治末期の物語となっている。しかし、きみちゃんについていえば、なお、数多くの疑問は残っている。なにしろきみちゃんが生まれて、今年2006年は101年が経過している。新たな資料を見つけることは極めて難しいだろう。ある意味で、ある程度の推定を加えながら考えていかないと、きみちゃんの秘密に近づくことは難しいかもしれない。菊地記者の調査でも、事実の部分と、想像の部分はわかれている。

以上のような事情であるので、まず、菊地氏の著書「赤い靴の女の子」の内容を追うことから、始めてみる。なお、その書には、現代では使わない差別用語や人権軽視の調査方法も含まれるのだが、それは本書のための調査活動が成立した昭和50年当時は、今から30年前であるということなのだろう。また、きみちゃんと強く関係のない部分は割愛することにする。また、一部には私が説明の注をつけることがある。

ただし、もはや100年も以前の日本に起きた悲劇を書くにあたり、事実をより悲惨な感情で描くことはやめようと思っている。人類は、過去の歴史を振り返った後は、また、未来に向けて歩き続けねばならないのであるから。
 
続く


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