大奥、江戸城その図面

2008-11-09 00:00:56 | The 城
96931b55.jpg広尾にある東京都立中央図書館で開催中(11月3日~11月9日)の『大奥‐江戸城で働く女性たち』へ。

江戸城は、太田道灌が築いた場所とまったく同じ場所に、徳川家康が築城したことがわかっている。現在の江戸城は、東西二分割され、西側が吹上御所で、天皇家の住宅になり、東側が公園として、日中は開放されている(早朝の開門前は、騎馬隊がお馬の散歩に使っている)。道灌の築いた城(館)は、ちょうど東西の真ん中に近い場所とされる。家康は大構造物として、西丸、本丸、天守を定め、1593年に西丸、1606年に本丸、1607年に天守閣が完成する。

しかし、その後江戸は度重なる火事に町を舐められることになる。天守は明暦の大火(1657年)で三代目が焼かれ、僅か50年で、再建されることはなかった。その件については私見もあるのだが、ちょっと本題からずれる。

本丸の方は、焼けること7回。幕末においても、1859年に焼失、さらに翌年再建されるも1863年に焼失し、もはや再建されず。一方、西丸の方も再三焼失しているようだが、回数不明。幕末に本丸が焼失した1863年以降、西丸だけが再建され、1867年の大政奉還を迎える。その後、皇居として使用されるも1873年(明治6年)焼失。明治21年に再建されるも、昭和20年焼失。昭和43年に再建される。

この、江戸城、および日光東照宮の造営工事を、一人独占していた家系ある。甲良(こうら)氏という。大工というか建築業というか、正式には作事方という。初代の甲良宗廣は、1596年に作事方に任命され、以後10代甲良棟全の時、江戸幕府崩壊。末裔伝次郎氏が昭和21年に没し、甲良家本家は途絶え、江戸城図面類は日比谷図書館に寄贈された。

今回展示されているのは、主に江戸城の平面図、そしてその面積の約半分を占める大奥の構造図。まあ、俗に言えば、「ハーレム」。以前、現代でもハーレム制を維持しているUAEの宮殿を塀の外側から見たことがあるが、中央の王宮の四方に四つの小宮殿があって、中央の宮殿とは空中廊下のようなもので繋がっていたのだが、つまり、4人いる妻がすべて独立した生活空間を持っているのだが、江戸城、大奥は、巨大な共同住宅なのである。そのため、さまざまな抗争があったのだろう、と思うのだが。

ところで、この甲良家は、滋賀県甲良町出身といわれているのだが、なぜ、江戸城普請という大役に指名されたか。定説を読んだことはないので、例のごとく勝手に自説を繰り出せば、近江の国、甲良の豪族を出発として、再三再四、出仕先を繰り上げていき、ついに家康のベストアドバイザーとなった藤堂高虎に行き着くのだろうと思う。さまざまな才能をもちながら、「登場したのが10年遅すぎた」彼の一つの能力が、城造り。主に西日本にその名作類は残るのだが、和歌山城、名古屋城、江戸城と幕府の要所となる城郭では、町割りまで担当している。

たぶん、高虎が家康に口を利いたのだろう。関が原の少し前だ。一方、高虎は家康のために、石田三成寄りの諸藩の大名に対して「寝返りおすすめメール」をせっせと書いていた時期だ。スパムメールみたいなものだが、小早川某には効果があったわけだ。


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