御室桜には一歩早かった

2009-04-10 00:00:26 | 歴史
sakura1日頃の不信心のせいか、正確に自分の宗派を知らなかった。真言宗なのはわかっていたのだが、色々調べてみると、真言宗は、約10程度の派に分かれているそうだ。そしてその中の「御室(おむろ)派」だということだそうである。

どうして、同じ真言宗なのに分派したかというと、密教が難しすぎたからだそうだ。空海は、当代切っての天才少年だったそうなので、彼の思想が弟子に完全に理解されなかったのだろうか。だから、後世、各派に分かれたのではないだろうか。(勝手なことを書くと、天罰が下りそうだ)

真言宗御室派の本山が京都にある仁和寺(にんなじ)。平安時代から有名な寺院だ。宇多天皇の時に完成し、天皇は後に法皇として、この寺に住んだとされる。宇多天皇はこの寺を有名にしたほか、別の神社の大恩人でもある。諫言により無実の菅原道真公を福岡の大宰府に追放。おかげで彼は学問の神様に崇められ、受験シーズンには全国の天神様は大儲けの図である。

さて、今までに京都の名山の多くには行っているのだが、仁和寺は交通の流れが悪いこともあり、未踏の地だった。罰あたりである。近く行かねばなるまい、と思っていた。何しろ、仁和寺に行かずに高野山とか比叡山とか行ってはいけないような気がしていた。

そして、この仁和寺の名物と言えば、『桜』である。時は満開のソメイヨシノだけではなく、稀少な種である「御室桜」の群生地である。

たとえば、早咲きの桜と言えば「河津桜」が有名であるが、この「御室桜」が有名なのは、逆に「遅咲き」。ソメイヨシノが終わった頃に開花する。


sakura1つまり、ソメイヨシノのピークが終わった頃に行けば、両方とも咲いている状態を観ることができる可能性もあり、逆にどちらも咲いていない可能性もあるはずだ。

しかし、ちょっと後ろ向きの仕事が忙しくて、ちょうど花見のシーズンの今、時間を取ることができそうもないと、今年の花見はあきらめていた。

が、

突然、近くに仕事ができた。


仕事上の関係のある会社の関係者のことで、ある場所に単色のネクタイと封筒をもって行き、ノートに名前を書いて、夜と昼と各1時間ずつ、椅子に座っている仕事である。

ということで、時間があり余ってしまうので、自然と仁和寺へ足が向かってしまったわけだ。

まず、京都駅から山陰線に乗る。人生初の山陰線だ。ちょっとさびしい電車である。戦後の引揚船は舞鶴港に帰ってきたそうなので、この線で京都まで帰ってきたのだろうか。そして、行くあてのある人は東海道線に乗り、行くあてのない人もとりあえず東海道線に乗る。

花園駅で降りて徒歩15分。ところが道を迷って古墳の中を歩くことになる。枯葉の下で小動物がうごめく音が聞こえるのだが、眼を合わせないように上を向いて歩く。

そして、仁和寺に到着し山門をくぐると、さっそく満開をちょっと過ぎたソメイヨシノがある。そして、お目当ての御室桜はというと、・・・

sakura1ほんの数日早かったわけだ。膨らんだ蕾である。しかし、ちょっと見ただけでは、何一つ咲いていない。地元のガイドの人はがっかりしている観光客に、「あと3日ですね。つつじは満開ですけど。」となぐさめにならない言葉をかけている。

御室桜はまとまって約200本が植えられているのだが、やっとの思いで、全体の0.1%の気の早い桜の枝を見つけたのである。

この桜の花びらの白色のことを「オムロ・ホワイト」というそうである。なかなか美しい色合いである。ソメイヨシノの白にはピンクの中にほんの僅かに光沢があり、見る者の心を覚醒させるのだが、オムロホワイトは、あくまでも柔らかな色調である(といっても、残り99.9%の蕾が一斉に開くと別の色なのかもしれないが)。


ところで、仁和寺と言えば、吉田兼好が著した『徒然草』の中にさまざまな逸話が登場するのだが、この吉田兼好は、私が迷い込んだ双ヶ岡古墳群のある雙ケ岡丘陵に山荘を建てて住んでいたそうである。家を建てるなら夏向きがいい、とか書いたのだ。そして、坊主の悪口。よほど仁和寺の坊様とは不仲だったらしく、自分の墓石も置かせてもらえなかったそうだ。

sakura1彼の人生を振り返ると、神主の家に生まれたものの、武士になり、そのうち出家して兼好法師と名乗る。法師ならば宗派はどこか知りたいが、よくわからない。たぶん、仁和寺とは喧嘩ばかりして、うさばらしに『徒然草』を書いたのだろうか。晩年は権力者になびいたりしている。西行法師のように漂泊するわけでもなく、結局、「何にもなり切れない人生で、一冊の著書だけを残したエッセイスト」ということになるのかもしれない。


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