千年の時を超えて、というが

2019-05-13 00:00:51 | 書評
競技かるたの世界の漫画を実写映画にした「ちはやふる三部作」を見終わって、この作品にかかわった多くの人たちの『百人一首愛』がよくわかったのだが、三部作のほぼ最後に、限りある命の人間が、千年の時をはさんで一瞬で情景をわかりあえるのが「百人一首」という意味が共有されることになったのだが、本当に千年なのだろうかと調べたくなった。

というのも、昨年(2018年)11月23日の夜、東の空から上った満月が、藤原道長が「望月のように欠けたるところがない」と自画自賛の和歌を詠んでから1000年目の月だったのだが、うっかり見逃してしまったからだ。もっとも自分は欠けたるところばかりなのだから今更月を見てもがっかりするだけなのだろう。

そして、調べるといっても、それぞれの一首が、何年何月何日に詠まれたかは、ほとんどの場合に特定されていない。しかし、編者の藤原定家は、彼なりに調べた結果、それぞれの歌人毎に生年順に並べたそうだ。ということで、およその推定はできる。例えば1番は天智天皇、2番が持統天皇という大化の改新親子である。

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ところが、肝心の天智天皇の『秋の田の・・・』というのは、近代の研究により万葉集巻十にある作者不詳の一首が平安時代に変化して天智天皇御製ということになったらしい。となると天智天皇より少し前の時代600年代前半ということで1350~1400年前ということになる。

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一方、定家は自らを97番にし、99番後鳥羽院、100番順徳院とこれも天皇二人を並べている。後鳥羽院も順徳院も承久の乱に加担し二人とも島流しとなった。順徳院の歌は承久の乱以前であり1220年頃と思われる。つまり800年前。

ではちょうど1000年前、1020年頃は誰の時代かというと、歌は下手だった藤原道長の絶頂時代で、清少納言、和泉式部=小式部親子、紫式部=大弐三位親子など女流作家が華々しく活躍した時代だった。清少納言の父の清原元輔が42番、清少納言が62番。このあたりの順番は、近年の研究では順不同になっているらしいが、ほぼ100首の中央付近であるので、おおまかにいえば百人一首から千年というのは正しいと言える。

そして、「ちはやふる-結び」の中にも登場するが、収録首の中の二首が同時に詠まれたことがわかっている。

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しのぶれど色に出にけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで 平兼盛

恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか 壬生忠見


村上天皇の天徳四年(960年)3月30日の歌合せの席に登場。どちらも片思いの悶々とした気持ちが詠まれている。判者の藤原実頼も甲乙付けられず、天皇の方を見ると、小声で平兼盛の一首を口ずさんでいるように見えたため兼盛の勝ちと判定した。こういう行為は「忖度」というのではなく「天気を見る」というそうだ。そう、天気予報である。

現在に至るまで、この二首の優劣は人それぞれということで、この争いに敗れた壬生忠見は、身分も低く、歌合せの席に出向く着物すら満足に揃えられなかったとされ、かるたの絵札でも貧相に描かれている。負けたことで鬱病を発症し、まもなく亡くなったとされる。こういったことを1000年後に言われるなら、服だけは借財してまでも整えるべきだった。


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