田中久重の歴史

2007-08-27 06:30:52 | 美術館・博物館・工芸品
f25dff91.jpg東芝は日本有数の大企業で、関連会社の従業員や扶養家族の方を合わせると、数十万人ではきかないだろう。百万人くらい抱えているのかもしれない。ただし、私はまったくのカヤの外なので、気楽に「田中久重」などと呼び捨てにしてしまうが、本当は、松下電器における松下幸之助のような存在なのかもしれない(残念ながら、松下の社内事情もよく知らない。未だに始業前に社歌を歌っているという噂を高年齢の社員に尋ねたら口を濁していた)。

ようするに、東芝をさかのぼると、久留米生まれの”からくり師:田中久重”という人物にたどりつく。

久重の話の前に、東芝は以前は東京芝浦電気だった。さらにこれは主に二つの会社が合併してできたのだが、一つが芝浦製作所。そして、さらに1875年、明治一桁に創立されたのが田中製作所である。場所は東京の銀座。京橋区南金六町九番は、現在の番地でいうと、中央区銀座八丁目9番14号。そこに今、何があるかというと、田崎真珠である。中央通り(いわゆる銀座通り)の一番南端。銀座は北から一丁目、二丁目と下がっていき、八丁目までで新橋につながる。この田崎真珠の2軒隣が、銀座の終点で、「天國」という高級天麩羅屋があり、いつも、ごま油の匂いを撒き散らしている。

操業当初は、電気製品メーカーということではなく、「機械一式なんでも作ります」というビジネスだった。

そして、この田中製作所と後発の芝浦電気が合併したところから後が東芝の正史になるのだが、きょうまとめてみたいのは、それ以前の歴史。つまり、田中久重の個人史というのは、幕末から明治維新にたどりつく日本の歴史と大きくかかわっているということが見えてきたわけだ。

ある意味、薩長VS徳川と思われている幕末史の裏側に佐賀鍋島藩の影響が大きいのではないかという確信をこのごろ持っているのだが、その幕末時の開明的な佐賀藩主が鍋島直正である。薩長土肥とはいっても、薩長土では大名そのものは石頭で、若手藩士が爆走したわけだが、佐賀藩は大名が走った。そして、この鍋島直正と田中久重の出会いが、結局は戊辰戦争の帰趨に大きな影響を与えるのである。

まず、久重の誕生だが、随分と古い。なんと1799年である。18世紀である。福岡久留米のべっこう細工師、田中弥右衛門の息子、儀右衛門として生まれる。つまり、幕末の時は60歳台後半。ほとんどすべての幕末登場人物より年上だ。若いときからからくり仕掛けが好きだった久重は、青年時代を大坂で過ごす。道頓堀でからくり工房を持っていたらしい。そして、作ったからくり仕掛けで興行を打っていたらしいのだ。さすが、大坂道頓堀だ。現代でも蟹専門店やグリコの看板は、からくり仕掛けのように動いている。そしていつしか彼は「からくり儀右衛門」と呼ばれていた。

f25dff91.jpgしかし、彼の運命が変わったのが1837年。大坂の大乱である「大塩平八郎の乱」が勃発。彼の住んでいた大坂市内の家も数多くのからくり製品とともに、一気に灰燼に帰す。失意の彼は故郷に戻り雌伏の時代を過ごすのだが、10年以上経って、再び活躍することとなる。現代科学を履修したわけだ。京都梅小路・土御門家で天文学を学ぶ。そして、1852年に万年時計を発明。当時、科学技術の英才を集めていた佐賀藩のお抱え技術者になる。目的は、蒸気機関と大砲である。

おりしもペリー来日と時を合わせるかのように、佐賀藩は装備の近代化を行った。戊辰戦争で薩長軍が優勢だった理由の一つに武器の近代化が言われる。特に有名なのが「アームストロング砲」上野の彰義隊はこのアームストロング砲で壊滅した。射程距離が長く、さらに正確だ。田中久重の作だ。正確に言うと、輸入品の改良コピーだが、作るのは難しい。東芝の起源は兵器産業でもあったわけだ。

鍋島藩は伊万里の窯元として長崎を基点に主に欧州向けに陶器の大貿易を行っていた。資金は豊富だったのだろう。

明治政府になってもしばらくは上京していなかったのだが、新政府からもずいぶん依頼を受けていたらしい。結局、銀座で出店してから6年後の1881年没。青山墓地にて永眠している。

そして、鍋島藩の方は、現在では、かなり経済的に困窮しているようなのだが、それについては、現在、研究中なのである。

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