1 ShotLog-9 卑弥呼の家

2005-01-10 22:50:16 | PHOTO
353b9f96.jpg博多駅からJR長崎線に乗り佐賀県に入ると、ほどなく吉野ヶ里駅に着く。そこには有名な吉野ヶ里遺跡がある。佐賀県が、遺跡の発掘と古代の状態への復元に力を入れている。

その中心が、卑弥呼の家だ。つまり邪馬台国である。修復された(というか、魏志倭人伝の記述から想定された)3階建ての建物が卑弥呼の家であり、3階の2DK位の広さの居室に卑弥呼が住む。そこには窓がない。そして、階下の2階には大広間があり、近隣の邪馬台国を支持する部族長たちが集まり、定例会議を行っていたそうだ。そして1階は侍従の女性たちの仕事場だ。

邪馬台国では集落をいくつかのパートに分けていて、中心部には卑弥呼がいて、周縁にいくほど身分が下がり、一番外側には農民が住む。居住地は、柵と堀にめぐらされていて、農耕地は、その外側にあり、昼間は外で稲作(黒米、赤米)をし、夜は柵の中に戻る生活をしていたらしい。

実は、ここでは、すべて「ここが邪馬台国である」ということを前提に組立てられているので、不勉強な私は、「そうか、邪馬台国論争には決着がついていたのか」と納得していたのだが、帰宅後、調べると、まだまだ諸説並立状態ではないか。畿内説、九州説、そして九州内でもあちこちが誘致活動をしている。地元の気持ちはわかるが、この卑弥呼ハウスは虚構が実像になったものだ。

実は欧州でもこの30年ほどで古代史は大きく修正されている。考古学に科学が導入されたからだ。日本の古代の謎は、今後、少しでも明らかになるのだろうか。

あまりにぼんやりしたところから歴史が始まることも、まずいだろう。歴史と神話は別物なのだから。

1 ShotLog-10 卑弥呼の外堀

2005-01-10 22:48:21 | PHOTO
7e3f3d39.jpg前回に続きだが、吉野ヶ里集落のボスが誰だったかは別にして、大集落であったことは間違いない。そして1000人近い人口を抱えていた城郭都市的であったと考えられる。そして、農耕地が集落地の外側にあったために大規模な戦闘行為があったことがわかっている。一つは発掘された遺骨に戦闘による負傷の跡があることと、居住地を取り囲んだ巨大な堀と上部が尖った柵やその外に這わされた茨などからの推測である。

公式展示コーナーでは、そうやって「卑弥呼」は専守防衛につとめていたことになっているのだが、不作の年などには、実際には近隣の集落を攻撃したり、他集落と同盟を結んだりとか生臭い話はあったのだろうがいかにも平和国家的解説になっている。