三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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植民地朝鮮から海南島へ

2019年01月28日 | 海南島史研究
 以下は、おととい(2019年1月27日)開催された設置理念に則ったピースおおさかを取り戻す会主催研究会での、海南島近現代史研究会の金靜美の報告要旨です。

■植民地朝鮮から海南島へ■
はじめに
 日本の植民地とされていた朝鮮から日本が植民地としようとして占領した海南島に朝鮮人が連行された。

 1938年2月22日:朝鮮人を日本陸軍の「特別志願兵」に加える「陸軍特別志願兵令」を「勅令95号」として公布(4月3日施行)
 1938年4月 1日:「国家総動員法」公布(5月5日施行)
 1938年5月 4日:「国家総動員法ヲ朝鮮、台湾及樺太ニ施行スルノ件」公布(5月5日施行)
 1939年2月10日:日本陸海軍、海南島に奇襲上陸
 1939年7月 8日:「国民徴用令」(勅令) 
 1939年7月28日:「朝鮮人労務者内地移住に関する方針」・「朝鮮人労務者募集要項」公布
 1939年11月10日:「改正朝鮮民事令」(「創氏・改名」)公布(1940年2月11日施行)
 1943年7月27日:朝鮮人「海軍特別志願兵令」公布・8月1日施行
 1944年8月 8日:「半島人労務者ノ移入ニ関スル件ヲ定ム」

(一) 「朝鮮報国隊」
■植民地朝鮮の刑務所から海南島へ
1、「1943年度国民動員実施計画策定ニ関スル件」1943年5月3日日本政府閣議決定
    「1943年度国民動員計画実施計画ハ大東亜戦争ノ現段階ニ即応シ労務給源拡充ニ
   強力ナル措置ヲ講ジ戦時生産ノ増強ニ必要ナル要員ヲ充足スルト共ニ勤労総力ノ最
   高度発揮ヲ図ルヲ目途トシ左ノ要領ニ依リ之ヲ策定ス。……朝鮮人労務者ノ内地移入
   ハ概ネ前年度同様トスルモ内地在住朝鮮人、華人労務者、俘虜及刑務所在監者等ニ
   付テハ之ガ活用ヲ図リ国民動員実施計画ニ弾力性ヲ有セシム」
2、「朝鮮総督府受刑者海南島出役ニ伴フ監督職員増員ニ関スル件」1943年4月12日、内務大
  臣湯澤三千男発総理大臣東條英機宛
3、「半島に於ける外役作業中最も大規模なものは、南方派遣報国隊の従事してゐる作業で
  ある」、「出役人員は半島全受刑者の一割に及び、作業は決戦下に於ける緊急且重要なる
  国家的事業である」(「治刑情報」、『治刑』治刑協会〈朝鮮総督府法務局行刑課内〉1943年
  11月、23頁)
4、当時の「半島全受刑者の一割」に相当する人数は、2300人弱。1943年9月末の朝鮮国内に
  おける獄中者数は2,2888人(『第84回帝国議会説明資料』1943年12月、朝鮮総督府法務局)

「朝鮮報国隊」(「南方派遣報国隊」)に入れられた朝鮮人獄中者の海南島連行年月日
 1943年3月30日 第1次「南方派遣報国隊」ソウル出発
     5月   第2次「南方派遣報国隊」出発
     6月   第3次「南方派遣報国隊」出発
     7月   第4次「南方派遣報国隊」出発
     8月   第5次「南方派遣報国隊」出発
     10月   第6次「南方派遣報国隊」出発
     11月   第7次「南方派遣報国隊」出発
 1944年 1月    第8次「南方派遣報国隊」出発

■証言
1、「朝鮮報国隊」
※朴萬重さん(85歳。第1次朝鮮報国隊)。2001年4月12日の証言
   石碌山に行った。
   満2年いた。決まっていた。病気で大勢死んだ。
   行った先は家もなくて、じぶんたちで作った。
   何もわからず逃げた人たちもいたが、何人かつかまってひどい目にあわされてからは、
  逃げる人はいなかった。逃げたら銃に撃たれて死ぬ。歩哨がいた。日本人だった。銃を持っ
  ていて、逃げたら撃って殺すといっていた。
   われわれは200人来た。そのあと何人来たかはわからない。あとから来た人たちは、死ん
  だ人や逃げた人も多かった。石碌山だけでなく、他所にもおおぜい配置され、道路工事やトンネル掘りをやらされたと聞いた。空襲も頻繁で、死ぬ人も多かったようだ。
   わたしは海南島に10か月いた。

※呂且鳳さん(1913年生。第7次「朝鮮報国隊」)2007年7月17日、7月20日の証言
   光州刑務所で服役中だった。刑期の満了がもう数日となったある時、看守からどこかの仕
  事に行けと言われた。自分は出所したら故郷に帰るから嫌だと断ってもきいてもらえなかっ
  た。逃げようもなく、光州刑務所から全部で5人、釜山港に連れて行かれた。各刑務所から
  大勢の朝鮮人が集められていた。
   休憩する宿舎がある。軍人がいて。タバコもすって、食事もする。そこで殴られた。服を脱
  がせて、逆さにつ るして、殴られているのか、どうかもわからないくらい殴られた。9時につ
  かまって、1時に部屋に戻された。帰還のときもおぶわれて帰った。

※高福男さん(1917年生。第2次「朝鮮報国隊」)2003年10月26日、2005年12月18日の証言
   洋服のような青い服に、“南方派遣報国隊”と書かれた腕章をつけた。白い腕章。リュック
  を背負い、戦闘帽、脚半、地下足袋。海南島に行くということは知っていた。プサンにから下
  関に行って、一晩、小倉刑務所で寝て、台湾の高雄で降りた。輸送船に乗って行った。監視
  が厳しかった。船では、3階くらいの船底にいた。
   戦争が終わってから、“匪賊”が1か月くらい、われわれのめんどうを見た。報国隊の人で、
  日本語も中国語も上手だったコバヤシが逃げて、解放後、中国遊撃隊の1個小隊の隊長と
  なって戻ってきて、われわれを守った。帰るまでは、そこで、自分たちで畑を作って、食べた。
  中国人がもっていた畑だ。中国人がいろいろ協力してくれた。
   船は海口で乗った。われわれだけで、220~230人。そのほかに、“挺身隊”。広東に寄り、
  そこで100人くらいの光復軍が乗った。

2、朝鮮人軍属
※崔成烈さん(1920年生) 2001年4月19日の証言
   故郷の咸興にあった興南窒素株式会社に就職して、海南島の八所に行き、西松組で3年
  間働いた。
   八所では新しい港を建設していた西松組の配給所の責任者だった。
   ある日、「今日、朝鮮から大勢の人がくる」という話を聞いて、待っていたら船が来た。港に
  行って、見た。
   戦闘帽をかぶって、白い半そでシャツに半ズボンをはいて、地下足袋を履いていた。ふつ
  うの人とちがうかっこうだった。胸に、何かつけていた。憲兵が銃を持って監視する中を、
  船からおりてきた。
   各団体別に旗を持って、列を作って並んでおりてきた。咸興報国隊という旗があった。釜
  山報国隊、大邱報国隊の旗もあった。白い布に、黒い字で書かれていた。旗を持っていた
  人は、報国隊の人だった。
   日本人看守に、同じ咸興の人間だからちょっと話させてくれと頼んで、話すことができた。
  朝鮮のいろんな刑務所から「京城」に集められ、海南島に来たといっていた。5年以下の懲
  役の人たちが来たのだが、3分の1をつとめれば免除されるという条件で来たといっていた。
   ひとつの旗の下にいた人の人数ははっきり覚えていない。来たのは、1943年だったが、何
  月ころだったかも覚えていない。報国隊の人たちは、楡林、石碌、三亜で働いた。三亜では
  飛行場をつくる仕事。八所でも飛行場の工事をした。

3、「朝鮮村」の近くに住む人たち
※符亜輪さん(1916年生) 2000年3月27日の証言
   朝鮮人は、竹で作ったかごを背負って土を運んだ。朝鮮人は、少ししか食べるものをもら
  えないので、力がなかった。運ぶことができなければ、日本人に殴られた。
   道路ができたあと、何の理由もなく、朝鮮人をふたりづつ、木に吊るして殴った。日本人は
  いすに座って、朝鮮人に朝鮮人を殴らせて、見物をしていた。死ぬまで殴って、死んだ後、
  2、3人ずつ穴に埋めた。朝鮮人に穴を掘らせて、埋めさせた。箱に死んだ朝鮮人を入れて、
  穴に運んで、からの箱を持って戻り、またその箱に朝鮮人を入れて運ぶ。最初は、殺した朝
  鮮人に油をかけて焼いたが、あとは油がなくなって、そのまま埋めた。焼いた場所は、ここ
  からすぐのところだ。日本人が銃をつきつけて、運んだ朝鮮人に火をつけさせた。
   朝鮮人はとても多かった。みんな同じ服を着ていた。上着もズボンも青色で、ボタンは白
  かった。朝鮮人の家は、鉄条網で回りを囲み、日本人が見張っていた。

※周学勤さん(1935年生) 2000年3月27日の証言
   子どものとき牛追いをしているとき、道路工事をさせられているおおぜいの朝鮮人を見た。
   (チゲを背負う姿勢をして)朝鮮人はこのように土を運んでいた。
   朝鮮人が木にぶら下げられているのを見てとても怖かった、近くの裏山で生きたまま焼か
  れた朝鮮人の声を聞いた、幼いころ聞いたその低いとぎれれとぎれの悲鳴が、いまも聞こ
  える。

4、石碌に住む人たち
※馬霖さん(86歳。香港) 2002年3月30日の証言
   朝鮮報国隊は背中に文字が縫い付けてあった。
   ねずみ色に近い青色。(ジーンズのような色の服)三亜で毎日見た。道(中山路)で歩いて
  いるのを毎日見た。二十人ぐらいで道の修理をしていた。それ以外の仕事は見ていない。
  わたしは建物を作っていた。
   「コラー」ニホンの兵隊が報国隊をどなっていた。朝鮮報国隊は二十人くらいだった。朝鮮
  共産党の人だと思っていた。

※向全さん(1917年生) 2002年3月30日
   イギリス人、インド人、朝鮮人の生活条件はすごく悪かった。
   報国隊はとても苦労した。タバコをあげたことがある。周りの人がみんな朝鮮報国隊だと
  言っていた。八所から石碌35kmの鉄道工事で見た。
   朝鮮報告隊は日帝に反対した朝鮮人だと聞いた。
   台湾報国隊は見たことがない。でも台湾から来た労工は見たことがある。

※白川さん(1921年生) 2002年3月29日の証言
   台湾から連れてこられた。
   北黎にも朝鮮人がたくさんいた。北黎には日本海軍の特務部があって、そこで毎日のよう
  に朝鮮人が焼かれた。
   解放後、台湾人と朝鮮人は団結した。そこで朝鮮報国隊の人、李と一緒だった。

■「朝鮮村」(南丁村):日本軍の侵略犯罪現場
 「朝鮮村」1998年6月 試掘
 「朝鮮村」2001年1月 発掘
 「朝鮮村」2006年5月 試掘
 「朝鮮村」2011年2月 発掘した遺骨がなくなっていた。遺骨が埋められている場所は、高速道路工事用車の資材置き場になっていた。
 「朝鮮村」2012年11月:素焼き工場ができている。
 「朝鮮村」2015年11月:
■2004年9月15日 日本政府に紀州鉱山の真実を明らかにする会が「南方派遣朝鮮報国隊」の真相究明にかんする要請」
 2004年10月6日 厚生労働省職業安定局総務課から回答
     「厚生労働省では「「南方派遣報告隊」に関する資料がないため、要請に対してお答え
    することができません」
■韓国政府への要請
 1回目:2002年4月17日
 2回目:2003年5月22日
 3回目:2007年7月17日

(二) 「海軍特別志願兵」

■「海軍特別志願兵令」:1943年7月27日、「勅令」第608号
 第一条 「戸籍法ノ適用ヲ受ケザル帝国臣民タル男子ニシテ海軍ノ兵役ニ服スルコトヲ志願スルモノハ海軍大臣ノ定ムル所ニ依リ銓衡ノ上之ヲ特別志願兵ニ採用シ海軍兵籍ニ編入ス」
1943年8月1日:朝鮮で施行
 朝鮮:鎮海の「朝鮮総督府海軍志願兵訓練所」→鎮海海兵団
 台湾:高雄海兵団
 日本:田辺海兵団
 年齢:16歳~21歳

■証言
※Pさん(1928年生) 2001年4月12日2005年12月21日の証言
   「海軍特別志願兵第1期兵」だった。市・郡でひとりづつ選んで、1000人。わたしの故郷は
  麗水。鎭海で訓練を受けて南方に派遣された。下関で19隻の艦隊をつくった。
   途中で高雄に上陸た。バシー海峡で魚雷(1944年3月15日)。12時間漂流して、マニラへ。
  病院船を仮装した船で中国南方に行く途中、サイゴンのメコン川入り口で爆撃をうけた。そ
  の後、海南島に向かった。海南島に着くまで、船が魚雷にあたって3回遭難した。海南島で、
  第16警備隊にいれられた。
 
※Iさん(1923年生)  2010年10月5日の証言
   1943年10月1日に海軍特別志願兵第一期生として入学。1944年3月に卒業し、鎭海海兵
  団に入った。鎭海海兵団第一期生。6月30日に卒業した。海兵団に入ったの一期生は996人
  だった。
   1944年、鎭海海兵団から698名が海南島に行った。わたしは舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊
  に入れられた。
   (帰還時)朝鮮人は3か所に集まった。海口、瓊山、三亜。瓊山と海口には舞特、第15警の
  兵士が集まった。
   日本が戦争にまけたあと、瓊山の収容所に入れられた。収容所は、瓊山師範学校の建
  物だった。わたしは朝鮮人の責任者だった。収容所は、朝鮮人、日本人はいっしょだっ
  たが、朝鮮人の区域、日本人区域は別で、朝鮮人の区域は鉄条網に囲まれていていた。
  日本人が入れないようにだ。日本人は外出できなかったが、朝鮮人は外出自由だった。
   「報国隊」のことは)日本が敗北する前に知っていた。刑期を短くしてやるといわれて朝鮮
  の刑務所から来た人たちだと聞いていた。三亜の鉱山でかなりきついしごとをさせられてい
  ると聞いた。。
   解放前は、かれらとは会ったことがなかった。帰りの船では、いっしょに帰った。

(三)日本軍隊性奴隷

■証言
※趙向盈さん(1918年生) 2002年10月14日の証言 陵水黎族自治県新村鎮で
   治安維持会会長をしていた。
   ここで朝鮮族の慰安婦を見た。全部で10人くらいだが4、5人が朝鮮人。三亜から連れて
  きた。
   わたしは治安維持会の会長だから、入ることができた。別に中国人だけが入れる慰安所と
  いうのはなかった。
   慰安所には最初は、日本人がいた。
   (なぜ、朝鮮人だと知ったのか?)ことばが違う。日本語を少しだけ話した。台湾人、日本
  人、朝鮮人、みんな話し方が違う。

※張応勇さん(1940年生) 2002年10月19日の証言 保亭黎族苗族自治県保城鎮で 
   日本の海南島での罪悪史を調査していて、1991年に朴来順さんのことを知った。
   保亭で、道路修理をしている女性の中に、朝鮮女性がいると聞いた。
   はじめて朴来順さんを訪ねて行くと、過ぎ去ったことは聞くなといわれた。
   最初は話をしてくれなかったが、徐々に話しはじめてくれた。海南語も、北京語も、日本
  語も、よくできた。
   政治協商会議の事務所と朴来順氏の家が近く、しばしば訪ねて、ことばを交わした。ここ
  の人たちは、朴来順氏を“アマニ(オモニ)”と呼んだ。故郷に帰りたかったら、領事館を通
  じて話してあげようというと、いらないという。公安部で発給した外国人証を持っていた。
   1993年に、病気になって、公路局で職員をひとり行かせて、亡くなるまで身の回りの世話
  をさせた。
   その娘は、黎族で、入院する前から身の回りの世話をしていたが、入院したので、ついて
  いってつづいて世話をした。そのとき、ほとんど毎日、菓子や果物をもって見舞いに行った
  のだが、わたしが毎日来る目的はわかっている、ほとんど死にゆく身だから、もう話してあ
  げよう、とそのころからすこしづつ口を開きはじめた。故郷では文字をすこしは読んだが、
  ここでは勉強できなかったといっていた。写真をとってもいいか、録音をしてもいいかと尋
  ねると、いいという。写真を撮ったが、借りたカメラで、ちゃんと写せなかった。録音した
  テープは、返した。写真があったら、貸してもらえないかというと、1枚の写真をくれた。そ
  れが本に出した写真で、その後返した。
   故郷に連絡しようか、どうしたいかと聞くと、“こんなありさまで、ここにいるから来いと連絡
  をして会うと、もっと辛い。連絡しなくていい。ここで長い間暮らしたのだから、ここで死ぬ”。
  (朴来順さんから聞いて書いた)文を見せて、発表してもかまわないかと聞くと、いいと。死ん
  だ後は、どうしたいかと聞くと、牛を使って道の修理をしたのだが、その牛の世話をしている
  ときに住んだ小さな家があった。その家の後ろに埋めてくれ、遺物はカンの入れ物があるか
  ら、そこに入れて墓の近くにいっしょに埋めてくれといったので、そうした。文を書くとき、とて
  も辛かった。
   話を聞いているとき、自分の兄弟の名前、故郷の住所をみんな朝鮮語で書いてくれた。中
  国に来る前は、中国がこれほど広いとは知らなかった、撫順からここまで来るのに、船に乗
  って何日もかかった、と言っていた。

※蘇殷貞さん(73歳) 2003年3月20日の証言 三亞市紅沙で
   慰安所」の近くに住んでいた。
   朝鮮人は髪が長い。長いスカート。白い服を着ていた.日本人は髪が短い。短いスカート
   で洋服を着ていた。台湾人は普通のシャツとズボンのようなものを着ていた。
    「アリラン」は聞いたことがある。

※張仁常さん(90歳) 2015年11月20日の証言 東方市八所村で
   八所の港湾建設現場で働いた。朝鮮人、アメリカ人もいた。とても多い。朝鮮人は男も女
  もいた。
   女の人はしごとをしない。きれいなかっこうをしている。女の人だけで小さな部屋に住ん
  でいた。朝、散歩をしていた。掃除をしていて、‟日本娘よ、汚いからこっちにこないで“と
  いうと、‟ちがう、朝鮮人だ”と言った。

◆海南島戦時性暴力被害賠償請求訴訟の原告
 2004年 9月   黄玉鳳さん亡くなる
 2003年12月   譚玉蓮さん亡くなる
 2010年 9月7日 譚亜洞さん亡くなる
 2012年 9月22日 陳金玉さん亡くなる
 2013年10月17日 林亜金さん亡くなる
 2014年6月19日 鄧玉民さん亡くなる
 2017年8月12日 黄有良さん亡くなる
 2017年5月14日 陳亜扁さん亡くなる

■日本敗戦時、海南島にいた朝鮮人数
1、伍賀啓次郎「帰還報告書」による日本敗戦時およびその後の海南島の朝鮮人数
   所属            軍人     軍属    其の他    計
 第十五警備隊         36       2             38
 第十六警備隊         21       4             25
 横須賀第四特別陸戦隊   52       5             57
 佐世保第八特別陸戦隊   22       1             23
 舞鶴第一特別陸戦隊     44       0             44
 軍需部 運輸部                31             31
 施設部                      5              5
 特務部                      9              9
 気象部                      1              1
 朝鮮報国隊                  52      606     658
 居留民                             729    729
   合計             175     110     1335    1620

2、1946年5月に日本陸軍少将富田直亮(第23軍司令官田中九一代理)の名で出された第23軍司令部の「状況報告」(日本防衛研究所図書館所蔵)の「華南地区第二十三軍隷属(指揮)下部隊(海軍部隊及居留民ヲ含ム)人員一覧表」
 
  「海南島地区」
    陸軍部隊:   68人
    海軍部隊:3万3475人
    居留民: 1万1935人
        計4万5478人

  陸軍部隊:全員「内地籍」
  海軍部隊:「内地籍」1万7674人、「台湾籍」1万5068人、「韓籍」733人
  居留民は:「内地籍」5214人、「台湾籍」5488人、「韓籍」1233人
            ※当時、海南島にいた朝鮮人は、733人+1233人=1966人

おわりに
 「朝鮮報国隊」の名簿の探索□「朝鮮村」の遺骨の行方は?
 「朝鮮村」の遺骨が村人とともに「証言」する。誰が殺されたのか。誰にどのように殺されたのか。
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