きょう(11月26日)朝8時に海口市内を出発し、はじめに海口市秀英区永興鎮儒東村の王鎮寧さん(1932年生)を訪ねました。わたしたちが前回お会いしたのは、今年4月7日でした(南海出版公司編写組『真相 海南島近現代史研究会17年(27次)調査足跡』2015年8月、225~226頁をみてください)。
はじめてお会いしたのは、2004年12月21日でした。このとき、王鎮寧さんが「無情砍伐 瘋狂掠奪」、「殺人放火 無悪不作」、「日寇推行奴化教育明謀的破産」などを発表している瓊山市政協文史資料委員会編『侵略与反抗』(1995年10月)を贈られました。そして、翌日、日本軍が住民に掘らせた長い洞窟が残っている雷虎嶺に案内していただきました(紀州鉱山の真実を明らかにする会編『海南島で日本は何をしたのか 虐殺・略奪・性奴隷化、抗日反日闘争』2005年5月、36頁)。その後、王鎮寧さんには保亭黎族苗族自治県文史資料工作委員会の張応勇さんとともに、紀州鉱山の真実を明らかにする会制作『〈写真集〉日本の海南島侵略と抗日反日闘争』(2007年2月)の制作に協力していただきました(同書62頁、奥付をみてください)。
きょう訪ねると、王鎮寧さんは、長椅子に寝ていました。病状が重く、午後か明日に海口の病院に入院することになっているとのことでした。
午後、儒東村の向かいの純雅村で、王澤新さん(1920年生)に話を聞かせてもらいました。
午後4時に符和積さん(1949年生)の自宅を訪ねました。
わたしたちは、1998年6月に海南島をはじめて訪ねた日に、当時海口の中心部にあった飛行場から新華書店に行き、『海南文史資料』第11輯(『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』上下、1995年8月)と第13輯(『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』続、1996年8月)を購入したあと、直ちにその主編者である符和積さんに会いに海南省政治協商会議文史資料委員会に行きました。
わたしたちはこのとき漢語をほとんど話せなかったので符和積さんとは、主として筆談で意見を交換したと思います。
写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』(紀州鉱山の真実を明らかにする会制作、2007年2月)のあとがき「証言(ことば) ・「場」・「物」・記録」に、わたしたちは、つぎのように書いています。
「わたしたちは、1998年6月下旬、海南島に到着した日に、海南省政治協商会議文史
資料委員会を訪ね、『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』を主編した符和積
さんに会った。
符和積さん、抗日戦争勝利50周年を記念して、海南島各地の政治協商会議文史
資料委員会が、日本占領下に受けた「暴行」の聞き取り調査をおこない、それを省の
政治協商会議文史資料委員会がまとめたのが『鉄蹄下的腥風血雨』であると話した。
同書編集当時、海南省の行政区は、4黎族自治県(陵水、楽東、昌江、白沙)、3黎
族苗族自治県(保亭、瓊中、東方)、4県(臨高、屯昌、澄邁、定安)、 8市(海口、三亜、
瓊山、儋州、通什、瓊海、文昌、万寧)に分けられており、それぞれの地域に文史資
料委員会が組織されていた。
その後、わたしたちは、2002年10月までに、海南省のすべての政治協商会議文史資
料委員会を訪問し、各地域での聞き取り調査・報告執筆を担当した人たちから話を聞
かせていただいた。
そのさい、とくに、政治協商会議三亜市委員会の羊杰臣さんと蔡文恵さん、昌江黎
族自治県文史工作室の趙志賢さんと文宇光さん、陵水黎族自治県文史資料委員会の蘇
光明さんと馮少雄さん、保亭黎族苗族自治県文史資料工作委員会の張応勇さん、臨高
県文史資料研究委員会の王碧中さん、楽東黎族自治県文史委員会の邢華冑さん、万寧
県政協文史弁公室の蔡徳佳さんには、わたしたちの「調査」に同行していただくなど、
多大な協力をしていただいた。
わたしたちは、侵略と抵抗の歴史を具体的に追及する共同作業が実践的にも思想的
にも可能となる道を求めていった。
残念ながら、その途上で、趙志賢さんは2000年秋に、羊杰臣さんは2003年7月に、
張応勇さんは2005年12月に病死された」。
きょう、符和積さんと3時間半話し合いました。符和積さんが主編した『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』3冊を、わたしたちは28回の海南島「現地調査」のとき、いつも基本図書として携行しています。
符和積さんが朴来順さんと会ったことがあるということは、きょうはじめて知りました。朴来順さんについては、このブログの2011年5月20日「海南島における日本軍隊性奴隷制度と強制連行・強制労働5」、2011年6月26日の「朝鮮から海南島への朝鮮人強制連行5」、2013年7月7日の「日本政府・日本軍・日本企業の海南島における侵略犯罪「現地調査」報告2」をみてください。
符和積・朱寒松・範暁軍主編『中国地域文化通覧 海南巻』(2013年10月、中華書局)を贈られました。この本の記述は「清代」まででした。
佐藤正人
はじめてお会いしたのは、2004年12月21日でした。このとき、王鎮寧さんが「無情砍伐 瘋狂掠奪」、「殺人放火 無悪不作」、「日寇推行奴化教育明謀的破産」などを発表している瓊山市政協文史資料委員会編『侵略与反抗』(1995年10月)を贈られました。そして、翌日、日本軍が住民に掘らせた長い洞窟が残っている雷虎嶺に案内していただきました(紀州鉱山の真実を明らかにする会編『海南島で日本は何をしたのか 虐殺・略奪・性奴隷化、抗日反日闘争』2005年5月、36頁)。その後、王鎮寧さんには保亭黎族苗族自治県文史資料工作委員会の張応勇さんとともに、紀州鉱山の真実を明らかにする会制作『〈写真集〉日本の海南島侵略と抗日反日闘争』(2007年2月)の制作に協力していただきました(同書62頁、奥付をみてください)。
きょう訪ねると、王鎮寧さんは、長椅子に寝ていました。病状が重く、午後か明日に海口の病院に入院することになっているとのことでした。
午後、儒東村の向かいの純雅村で、王澤新さん(1920年生)に話を聞かせてもらいました。
午後4時に符和積さん(1949年生)の自宅を訪ねました。
わたしたちは、1998年6月に海南島をはじめて訪ねた日に、当時海口の中心部にあった飛行場から新華書店に行き、『海南文史資料』第11輯(『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』上下、1995年8月)と第13輯(『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』続、1996年8月)を購入したあと、直ちにその主編者である符和積さんに会いに海南省政治協商会議文史資料委員会に行きました。
わたしたちはこのとき漢語をほとんど話せなかったので符和積さんとは、主として筆談で意見を交換したと思います。
写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』(紀州鉱山の真実を明らかにする会制作、2007年2月)のあとがき「証言(ことば) ・「場」・「物」・記録」に、わたしたちは、つぎのように書いています。
「わたしたちは、1998年6月下旬、海南島に到着した日に、海南省政治協商会議文史
資料委員会を訪ね、『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』を主編した符和積
さんに会った。
符和積さん、抗日戦争勝利50周年を記念して、海南島各地の政治協商会議文史
資料委員会が、日本占領下に受けた「暴行」の聞き取り調査をおこない、それを省の
政治協商会議文史資料委員会がまとめたのが『鉄蹄下的腥風血雨』であると話した。
同書編集当時、海南省の行政区は、4黎族自治県(陵水、楽東、昌江、白沙)、3黎
族苗族自治県(保亭、瓊中、東方)、4県(臨高、屯昌、澄邁、定安)、 8市(海口、三亜、
瓊山、儋州、通什、瓊海、文昌、万寧)に分けられており、それぞれの地域に文史資
料委員会が組織されていた。
その後、わたしたちは、2002年10月までに、海南省のすべての政治協商会議文史資
料委員会を訪問し、各地域での聞き取り調査・報告執筆を担当した人たちから話を聞
かせていただいた。
そのさい、とくに、政治協商会議三亜市委員会の羊杰臣さんと蔡文恵さん、昌江黎
族自治県文史工作室の趙志賢さんと文宇光さん、陵水黎族自治県文史資料委員会の蘇
光明さんと馮少雄さん、保亭黎族苗族自治県文史資料工作委員会の張応勇さん、臨高
県文史資料研究委員会の王碧中さん、楽東黎族自治県文史委員会の邢華冑さん、万寧
県政協文史弁公室の蔡徳佳さんには、わたしたちの「調査」に同行していただくなど、
多大な協力をしていただいた。
わたしたちは、侵略と抵抗の歴史を具体的に追及する共同作業が実践的にも思想的
にも可能となる道を求めていった。
残念ながら、その途上で、趙志賢さんは2000年秋に、羊杰臣さんは2003年7月に、
張応勇さんは2005年12月に病死された」。
きょう、符和積さんと3時間半話し合いました。符和積さんが主編した『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』3冊を、わたしたちは28回の海南島「現地調査」のとき、いつも基本図書として携行しています。
符和積さんが朴来順さんと会ったことがあるということは、きょうはじめて知りました。朴来順さんについては、このブログの2011年5月20日「海南島における日本軍隊性奴隷制度と強制連行・強制労働5」、2011年6月26日の「朝鮮から海南島への朝鮮人強制連行5」、2013年7月7日の「日本政府・日本軍・日本企業の海南島における侵略犯罪「現地調査」報告2」をみてください。
符和積・朱寒松・範暁軍主編『中国地域文化通覧 海南巻』(2013年10月、中華書局)を贈られました。この本の記述は「清代」まででした。
佐藤正人