三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

「旧海軍軍属身上調査表」・「旧海軍軍人履歴原表」 16

2012年01月21日 | 海南島史研究
■フィルム番号2017「旧海軍軍属身上調査表」6
 「死没場所」が「海南島方面」である8人の朝鮮人のうち、4人の「所轄」は「西太平洋漁業(第11南洋丸)、他の4人の「所轄」は「西太平洋漁業(第12南洋丸)」と書かれており、8人すべての「死没区分」が「戦死」とされています。
 第11南洋丸は、1945年2月28日に、第12南洋丸は1945年3月28日に沈没したと書かれていますが、その状況は、第11南洋丸の場合も第12南洋丸の場合も、「潜水艦の砲撃を受け沈没」、「潜水艦の攻撃により沈没」、「艦砲射撃を受け沈没戦死」などさまざまに書かれています。
 この8人の個人記録紙にも、すべて、1959年7月31日付けの「靖国神社 合祀手続済」という丸印と、1959年10月17日付けの「靖国神社合祀済」という縦長のゴム印が押されています。

 「死没場所」が「海南島近海(戎克光風号)」の「山本漢亀」さん(本名不明。本籍、咸鏡南道)の「所轄」は「南政」、「身分」は「嘱託(無待遇)」、死亡日は日本敗戦半月後の1945年9月1日と書、「死没区分」は「戦死」、「状況」は「乗組員として航行中船隊と交戦中戦死」と書かれています。
 「山本漢亀」さんの個人記録紙にも、1959年7月31日付けの「靖国神社 合祀手続済」という丸印と、1959年10月17日付けの「靖国神社合祀済」という縦長のゴム印が押されています。
                                        佐藤正人
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「旧海軍軍属身上調査表」・「旧海軍軍人履歴原表」 15

2012年01月20日 | 海南島史研究
■フィルム番号2017「旧海軍軍属身上調査表」5
 「死没場所」が「海南島石碌」とかかれているのは、「岩村遇乾」さん(本籍地、忠清北道。本名不明。生年不明)、「金沢成玲」さん(本籍地、ソウル。本名、金成乾? 1919年生)、「大河竜雄」さん(本籍地、ソウル。本名、河竜雄? 1913年生)、「松京茂」さん(本籍地、咸鏡南道。本名不明。生年不明)の4人です。
 4人の「所轄」は「南方政務部」、「身分」は「嘱託(無給無特)」と書かれています。
 「岩村遇乾」さんの死亡日は1944年8月31日、「死没区分」は「黒水熱 戦病死」、「状況」は「現地処理(西松組)、死亡日と同じ1944年8月31日に「南方政務部」に「採用・徴用(海南島)」されたと書かれています。
 「金沢成玲」さん、「大河竜雄」さん、「松京茂」さんら3人の死亡日は同一の1945年3月21日、「状況」は「現地処理(西松組)、死亡日と同じ1945年3月21日に「南方政務部」に「採用・徴用(海南島)」されたと書かれています。「金沢成玲」さんの「死没区分」は「戦死」、「大河竜雄」さんと「松京茂」さんの「死没区分」は「右胸部貫通銃創により戦死」と書かれています。
 4人の個人記録紙には、すべて、1959年7月31日付けの「靖国神社 合祀手続済」という丸印と、1959年10月17日付けの「靖国神社合祀済」という縦長のゴム印が押されています。

 「死没場所」が「石碌作業所職員病棟」と書かれている「西原常男」さん(本籍地、忠清北道。本名不明。生年不明)の「所轄」は「海南施設部」、「身分」は「嘱託(判待)」、死亡日は1944年3月27日、「死没区分」は「戦病死」、「状況」は「熱帯性マラリヤ 終戦前処理とすること」と書かれており、1959年7月31日付けの「靖国神社 合祀手続済」という丸印が押されています。

 「死没場所」が「感北縣北黎市」と書かれている「金村宏一」さん(本籍地、忠清北道。本名不明。1914年生)の「所轄」は「海南特務部」、「身分」は「傭人」、死亡日は1945年3月27日、「死没区分」は「戦死」、「状況」は「右鎖骨下○貫銃創」と書かれており、1959年7月31日付けの「靖国神社 合祀手続済」という丸印と、1959年10月17日付けの「靖国神社合祀済」という縦長のゴム印が押されています。

 「死没場所」が「海南島楡林」と書かれている「金成次郎」さん(本籍地、ソウル。本名不明。1922年生)の「所轄」は「南方政務部」、「身分」は「嘱託(無給無特)」、死亡日は1945年6月3日、「死没区分」は「黒水熱」、「状況」は「現地処理(西松組) 戦病死」と書かれており、1959年7月31日付けの「靖国神社 合祀手続済」という丸印と、1959年10月17日付けの「靖国神社合祀済」という縦長のゴム印が押されています。

 「死没場所」が「昌江縣熱水駅」と書かれている人は、「金村昇成」さん(本籍地、咸鏡南道。本名不明。生年不明)と「梧川光雄」さん(本籍地、咸鏡北道。本名不明。生年不明)の2人です。
 「金村昇成」さんの「所轄」は「海南特務部」、「身分」は「傭人」と書かれ、「梧川光雄」さんの「所轄」は「海南特務部」、「身分」は「嘱託(判待)」と書かれています。
2人の死亡日は同じ1943年2月1日で、「死没区分」は共に「戦死」、「状況」も共に「敵匪の来襲に際し抗戦中 陸上戦斗」と書かれており、1959年7月31日付けの「靖国神社 合祀手続済」という丸印と、1959年10月17日付けの「靖国神社合祀済」という縦長のゴム印が押されています。
佐藤正人
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「旧海軍軍属身上調査表」・「旧海軍軍人履歴原表」 14

2012年01月19日 | 海南島史研究
■フィルム番号2017「旧海軍軍属身上調査表」4
 「死没場所」が「海南海軍病院」と書かれている「山川輝元」さん(1910年生。本籍、忠清南道。本名不明)の「所轄」は「海南建築部」で、「身分」は「嘱託 無報酬」とされており、1943年6月6日に「朝鮮総督府看守ヲ拝命」、1943年3月30日に「京城刑務所海南島作業所出張ヲ命ゼラル」、1943年4月17日に「海南島楡林港上陸」と書かれています。
 最初の「南方派遣朝鮮報国隊」がソウルを出発したのは1943年3月30日でしたから、「山川輝元」さんは、この「朝鮮報国隊」の看守として海南島に行ったのだと思います(このブログの2008年5月5日の「「朝鮮報国隊」の軌跡 1」、「「朝鮮村」虐殺」〈紀州鉱山の真実を明らかにする会編『写真集 日本の海南島侵略と抗日反日闘争』2007年2月刊〉などをみてください)。
 「山川輝元」さんの死亡日は1943年5月18日、「死没区分」は「戦傷死(爆傷死)」、「状況」は「海南建九基地工事事務所にて設営作業に従事中1943.5.4.敵機空襲に依り戦傷海南海軍病院に於で加療中5.18.13時戦傷死(右大腿貫通爆弾々片創破傷風)」と書かれています。「九基地」とは、海南島南部の三亜の日本海軍空軍基地(三亜飛行場)のことです。
 「山川輝元」さんの個人記録紙にも、1959年7月31日付けの「靖国神社 合祀手続済」という丸印と、1959年10月17日付けの「靖国神社合祀済」という縦長のゴム印が押されています。
                                         佐藤正人
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「旧海軍軍属身上調査表」・「旧海軍軍人履歴原表」 13

2012年01月18日 | 海南島史研究
■フィルム番号2017「旧海軍軍属身上調査表」3
 「死没場所」が「海南島」である15人の朝鮮人すべての「所轄」は海南島にある「南方政務部」で、「身分」は「嘱託(無給無特)」であり、「南方政務部」に「採用・徴用」されたのと同じ日に死亡したとされています。「死没区分」の欄には、「マラリヤ兼十二指腸炎」、「昏睡性マラリヤ」、「熱帯性マラリヤ兼○性肝臓硬変症」、「熱帯性マラリヤ」、「熱帯性マラリヤ黄疸」、「マラリヤ 昏睡」、「前頭部及後頭部抱傷 上脳振温病」、「急性腸炎」、「脳溢血」と書かれています。
 「死没」の「状況」の欄には、「現地処理(西松組) 戦病死」、「現地処理(西松組) 普通死」、「現地部隊処理済 西松建設 戦病死」、「現地部隊に於て死没処理済 西松建設」と書かれており、15人すべての記録紙に「西松組」(あるいは「西松建設」)とう文字が書き込まれています。
 また、15人すべての記録紙に、1959年7月31日付けの「靖国神社 合祀手続済」という丸印と、1959年10月17日付けの「靖国神社合祀済」という縦長のゴム印が押されています。
                                        佐藤正人
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すべての軍艦の入港を拒否する

2012年01月17日 | 個人史・地域史・世界史
 今朝の『北海道新聞』と『朝日新聞』に、きのう米空母に反対する市民の会、改憲阻止!労働者市民行動、ピリカ全国実行委員会・札幌圏がアメリカ合州国海軍の軍艦を民間港である石狩湾新港に入港させなことを求めたことが報道されました。
 
        米空母に反対する市民の会 佐藤正人


  『朝日新聞』2012年1月17日朝刊(北海道版)
  「米艦船寄港反対を要請」
  「小樽市の住民グループ「米空母に反対する市民の会」など3団体は16日、石狩湾新港に2月に入港を打診している米艦船のミサイル駆逐艦マスティンの寄港を認めないよう同港管理組合管理者の高橋はるみ知事に求める要請文を道に提出した。併せて、ほぼ同時期に苫小牧市などが管理する苫小牧港に揚陸指揮艦ブルーリッジと掃海艦パトリオットが寄港を希望していることについて、反対を表明することも高橋知事に求めた」。

 『北海道新聞』2012年1月17日朝刊(社会面)
 「米艦の入港拒否 道に3団体要請」
 「在日米軍が石狩湾新港管理組合に対し、2月6~10日に米海軍のミサイル駆逐艦「マスティン」(9000㌧)の同港寄港を要請している問題で、道内の三つの市民団体は16日、道に入港拒否を求める要請文を提出した。
 「米空母に反対する市民の会」(小樽)、「改憲阻止!労働者市民行動」(札幌)、「ピリカ全国実行委員会・札幌圏」(同)の連名で、「入港許可を米軍に出さないよう要請します」としている。3団体は同日、小樽市にも同様の趣旨の要請文を提出した。
 道、小樽市、石狩市でつくる石狩湾新港管理組合は、月内に受け入れの可否を判断する」。

 『北海道新聞』2012年1月17日朝刊(小樽・しりべし版)
 「石狩湾新港への米艦寄港拒否を 市民団体、市に要望」
 「「米空母に反対する市民の会」(小林けん代表)など3団体は16日、小樽市の中松義治市長に対し、2月に米ミサイル駆逐艦が計画する石狩湾新港寄港について、許可しないよう港湾管理者の高橋はるみ知事に要請することを求める申し入れ書を、市に提出した。小樽市は同港管理組合の構成団体の一つ。また3団体は道庁でも、高橋知事に入港拒否を求める要望を行った。
 小樽市は高橋知事に対し、米艦の①核兵器搭載の有無②入出港時の安全性③港湾機能への影響―の3点を確認の上で慎重に判断するよう、すでに文書で要請している」。
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泊原子力発電所廃絶のために

2012年01月16日 | 個人史・地域史・世界史
 きょう(1月16日)、米空母に反対する市民の会、改憲阻止!労働者市民行動、ピリカ全国実行委員会・札幌圏の3組織と、川村 シンリツ エオリパック アイヌ(川村カネトアイヌ記念館館長)、石井ポンペ(アイヌ民族の権利を取り戻すウコチャランケの会代表)、新保清和(障害者・マイノリティーなどの人権と生活を考える会代表)の3個人は、北海道庁に行き、北海道総務局危機対策局原子力安全対策課と、昨年9月9日いらい2回めの話し合いをしました。
 午後2時から1時間半あまりの話し合いのなかで、北海道庁の「原子力安全対策」が、泊原子力発電の「安全」を宣伝する機関のひとつであること、その「安全」がいつわりであることが判明しても責任をとりえない機関であることが明らかになりました。
 しかし、そのような機関であり続けさせないためにも、わたしたちは、今後も話し合いを継続していきます。

      米空母に反対する市民の会 佐藤正人
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「マスティン」入港反対

2012年01月16日 | 個人史・地域史・世界史
 1月11日午後5時に、オタル市から米空母に反対する市民の会に、オタル海上保安部長から石狩湾港湾管理者あてにアメリカ合州国艦船の石狩湾新港への入港にかんする文書が届き、それがオタル市に通知されてきたという連絡がありました。
 その文書には、石狩湾新港の岸壁の手配を希望しているアメリカ合州国軍艦船の艦名はMUSTIN、入港期間は2012年2月6日9時から2月10日9時まで、入港の目的は「親善及び友好」、1日最大上陸人員数218人、回答期限2012年1月23日、直前の寄港地沖縄と書かれていました。
 この日トマコマイ市は、2月3日から8日までアメリカ合州国軍艦「ブルーリッジ」が、2月8日から13日まで、「パトリオット」がトマコマイ港への寄港を希望していると発表していました。
 翌日1月12日に、石狩湾新港管理組合は、在日アメリカ合州国海軍からオタル海上保安部をつうじてミサイル駆逐艦「マスティン」の石狩湾新港への寄港の「打診」があったと発表しました。
 石狩湾新港の管理者は北海道知事であり、寄港承認・不承認の権限は北海道知事にあります。オタル市は、石狩市とともに石狩湾新港の共同管理者となっています。
 きょう(1月16日)午前10時に米空母に反対する市民の会はオタル市役所に行き、改憲阻止!労働者市民行動、ピリカ全国実行委員会・札幌圏とともに、オタル市長にたいし、「マスティン」の石狩湾新港寄港を認めないよう高橋はるみ石狩湾新港管理責任者に求めることを要請しました。
 また、きょう午後3時半に、米空母に反対する市民の会、改憲阻止!労働者市民行動、ピリカ全国実行委員会・札幌圏は、北海道庁に行き、石狩湾新港の管理者である北海道知事にたいし、「マスティン」の石狩新港入港拒否を求めるともに、トマコマイ港への2隻の米艦船入港に反対することを求めました。

    米空母に反対する市民の会 佐藤正人
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「旧海軍軍属身上調査表」・「旧海軍軍人履歴原表」 12

2012年01月15日 | 海南島史研究
■フィルム番号2017「旧海軍軍属身上調査表」2
 フィルム番号2017のマイクロフィルムには、アジア太平洋各地に送られて死亡した2939人もの朝鮮人の個人記録が収録されていますが、そのうち、「死没場所」が「海南島」と書かれている人は16人、「海南海軍病院」と書かれている人1人、「海南島石碌」と書かれている人は4人、「石碌作業所職員病棟」と書かれている人は1人、「感北縣北黎市」と書かれている人は1人、「海南島楡林」と書かれている人は1人、「昌江縣熱水駅」と書かれている人は2人、「海南島近海(戎克光風号)」と書かれている人は1人、「海南島方面」と書かれている人は8人です。また、「死没場所」が「トラック近海」と書かれている1人の人の「所轄」は南方政務部で、その所在地は「海南島」と書かれています。
                                          佐藤正人
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海南島近現代史研究会第9回定例研究集会

2012年01月14日 | 海南島近現代史研究会
 9回目の海南島近現代史研究会定例研究集会を開きます。
 みなさんの参加をお待ちしています。
 報告者の細見(ほそみのぼる)さんやYさんの証言などについては、このブログの2011年7月14日の「海南島の日本人教師」および7月15日から8月19日まで断続的に12回連載した「海南師範学校」をみてください。

  
  と き:2012年2月26日(日)13時~17時(開場12時)
  ところ:大阪産業大学 梅田サテライト・レクチャーA室(大阪駅前第三ビル19階)
             第三ビルはJR大阪駅から南に歩いて5分ほどです。
  参加費:500円(会員は無料です)

■報告  海南島で日本語教師をしていたときのこと   細見
  1942年5月から約1年間、日本占領下の海南島東南部の陵水、椰林、多華地域で日本語教師をしていた海南師範学校1期生細見さんに、海南島に行った経緯と、海南島で経験したことについて報告してもらいます。細見さんは、当時のことを振り返って、“軍の宣撫班の尖兵という任務をおっている気持ちだった”、と話しています
【補】 海南師範学校3期生だったYさん(三重県在住)の証言   竹本昇
【補】 海南師範学校と黒潮会   キム チョンミ

■【研究報告Ⅰ】 海南島における非軍人日本人の侵略犯罪   佐藤正人
  海南島で侵略犯罪をくりかえしていたのは、日本政府の官僚や日本軍の将兵だけではありませんでした。日本企業の要員、日本語教師、「研究者」、従軍記者、日本軍慰問団員、アヘン栽培人、農民、商人、旅館経営者……として海南島に侵入した日本人が何をしていたのかを解析します。

■【研究報告Ⅱ】 日本人「研究者」の植民地意識ーー海南島と台湾  斉藤日出治
  日本の占領下の海南島では、地質学、鉱物学、植物学、農学、民族学などの日本人研究者が「学術調査」をおこない、日本の領土として島を開発=搾取することを自明のことと考えていました。
  この意識が台湾の植民地統治の延長にあるということを考えてみたいと思います。
【補】 日本人の海南島農業調査について   趙従勝  
     1939年2月、日本軍は海南島を占領し、熱帯軍需資源を確保するため、海南島農業開発政策を策定し、台湾関係を中心とした日本の各学術団体・機関に要請して、海南島農業調査を行なわせました。その調査団体の活動について報告します。    

■【調査報告1】 海南島昌江黎族自治県で建設中の昌江原子力発電所について

■【調査報告2】 2011年10月下旬~11月上旬の海南島「現地調査」
 紀州鉱山の真実を明らかにする会として20回目、海南島近現代史研究会として7回目の海南島「現地調査」では、文昌市の錦山鎮排坑村、東閣鎮金牛流坑村、翁田鎮、瓊海市の長坡鎮楽古昌村と南宝村、中原鎮の長仙村と“三・一”被難公塚、万寧市の月塘村、保亭黎族苗族自治県の加茂、抗日根拠地があった尖峰嶺、東方市感城鎮感城村の麦家祠惨案の現場、臨高県の調楼鎮調楼村と抱村、澄邁県の新呉鎮龍楼村、石浮村などを訪ねました。

 海南島近現代史研究会 http://www.hainanshi.org/
  【事務局】 大阪産業大学経済学部 斉藤日出治研究室内 
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「旧海軍軍属身上調査表」・「旧海軍軍人履歴原表」 11

2012年01月13日 | 海南島史研究
■フィルム番号2017「旧海軍軍属身上調査表」1
 フィルム番号2017(リール番号)のマイクロフィルムの冒頭につけられている「マイクロ写真撮影証明書」には、
   「件名:旧海軍軍属身上調査表。
    撮影場所:株式会社アジア・ビジネス・コンサルタント。
    このフィルムは……原資料から直接正写されたことを、証明します。
    依頼者:厚生省援護局業務第二課。
    撮影開始時間:1991年3月21日9:00時」
と書かれています。フィルム番号1217「旧海軍軍人履歴原表」の撮影開始日は、1986年8月23日でしたが、このフィルム番号2017「旧海軍軍属身上調査表」の撮影はそれより4年7か月後におこなわれています。これらのマイクロフィルムが日本政府から韓国政府にわたされたのは、1991年でした。
 フィルム番号2017の収録されている記録文書も整理されておらず、ほかのフィルム番号のマイクロフィルムに同一の文書が含まれている場合もあります。
 フィルム番号2017のマイクロフィルムの通し番号は69200から72139までで、アジア太平洋各地に送られて死亡した2939人もの朝鮮人の個人記録が収録されています。「死没場所」は、「ニューギニア」、「ポナペ」、「トラック」、「マキン島」、「クエゼリン」、「ケゼリン」、「ウオッゼ」、「ラバウル」、「ブラウン」、「タロア」、「タラワ島」、「ナウル」、「サイパン」、「マロエラップ」、「ブーゲンビル」、「ブイン(ブーゲンビル島)」、「メレヨン」、「ギルバート」、「ルオット」、「ソロモン」、「ミレ」、「タラカン」、「サマリンタ」、「海南島」、「海南島方面」、「仏印西貢港」、「南支那海」、「黄海」、「朝鮮東岸」、「朝鮮海峡」、「朝鮮南岸鴻島沖」、「朝鮮群山方面」、「朝鮮西岸群山の西方」、「朝鮮西海岸」、「仁川河口附近」、「対馬海峡」、「津軽海峡」、「北海道南方海面」、「北海道北方海面」、「本邦東方海面」、「南太平洋方面」、「台湾方面昌仁丸」……と書かれています。
                                         佐藤正人
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