三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

2011年3月2日 20 (文書・証言・映像・音声・もの・場 9)

2011年04月18日 | 海南島
 1945年3月2日の海南島感恩県龍衛郷新村(現、東方市新龍鎮新村)での日本軍の犯罪にかんする文書記録は、日本海軍海南警備府横須賀鎮守府第4特別陸戦隊が日本海軍功績調査部に提出した「横鎮四特戦闘詳報第五号 1945年3月2日龍衛新村ノ戦闘」(原題は、「元号」使用)のほかは、日本では公開されていません。
 中国における関係文書は、これまでわたしたちが見ることができたのは、2009年6月に「海南史志网」に掲載された、湯主良さんについての短い文章だけです(「2011年3月2日 12(文書・証言・映像・音声・もの・場 1) 」を見てください)。
 『東方文史』(第1輯~第9輯は、中国人民政治協商会議海南省東方黎族自治県委員会文史組編。1999年12月発行の第10輯からは、中国人民政治協商会議海南省東方市文史委員会編)にも、海南省政協文史資料委員会編『海南文史資料』11(『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』上下、1995年8月)にも、『海南文史資料』13(『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』続、1996年8月)にも掲載されていません。
 東方市新龍鎮新村の村史は、まだ発行されておらず、村内に当時のことを記録した文書は残されていないとのことでした。
 村内には、文書はありませんでしたが、当時のことを示す場(地下室・井戸のあった所)と湯主良さんの墓と墓碑がありました(「2011年3月2日 11 」を見てください)。
 地下室を掘った譚秋鳳さんは、“井戸には地下室とつながっているところがあり、井戸から地下室に声をかけて日本兵が来たことを知らせたこともあった”、と話しました(「2011年3月2日 9」を見てください)。
 1945年3月2日の66年後に、新村で、当時のことにかかわる証言、場、ものを映像・音声でも記録させてもらいました。
 この映像・音声は、録画・録音しておくだけでは、ほとんど意味がありません。
 国民国家日本の侵略犯罪にかかわる証言、場、もの……を録画・録音することは、それを保管し公開する社会的課題を担うことなのだと思います。
 これまで、わたしたちは、その一部を、紀州鉱山の真実を明らかにする会企画・制作『日本は海南島でなにをやったか』(日本語版)、紀州鉱山の真実を明らかにする会企画・制作『日本が占領した海南島で 60年まえは昨日のこと』(日本語版、漢語版、朝鮮語版)、紀州鉱山の真実を明らかにする会企画・制作『“朝鮮報国隊”』(日本語版、朝鮮版)、海南島近現代史研究会企画・制作『海南島月塘村虐殺』(日本語版)などで公開してきました。
 今後、さらに、おおくのみなさんと共に、事実の探求をすすめ、伝達の努力を重ねていきたいと思います。ことし2月10日に海南島近現代史研究会が編集・発行した『海南島近現代史研究』第2号・第3号の特集「歴史事実を伝達する方法について」(紀州鉱山の真実を明らかにする会「国民国家日本の海南島侵略犯罪史認識と伝達」、朝治武「人権博物館の戦争・平和展示」、金靜美「大阪人権博物館セミナー(2009年春)中止について」)を見てください。
                                      佐藤正人
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする