三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

「朝鮮村」 2008年10月 1

2009年06月13日 | 「朝鮮報国隊」
 2008年10月28日、「朝鮮村」に行きました。前回は2007年1月4日(2006年5月はじめの「試掘」8か月後)でしたから、それから、1年10か月近く経っていました。
 日本占領期に日本軍兵舎があった場所に建てられている南丁小学校の近くにいた人(1976年生)に村の名を聞くと、“子供のころは朝鮮村と言ったが、いまは三羅村だ”、といいました。なぜ「朝鮮村」という名前だったかと聞くと、“知らない”、との答え。
 南丁小学校横の間の小道を少し行くと、何度も訪ねた蘇亜呑さんの家の前にでます。奥のほうの庭先に蘇亜呑さんが座っていました。前よりもっとやせていましたが、お元気そうでした。目がほとんど見えなくなっていました。朝鮮人を見たことがありますか、と聞くと、はじめは、知らないと答えましたが、すこしたってから、「牛飼いをしていたとき朝鮮人が樹に吊り下げられて殺されるのを見た。怖くてあまりよく見ることはできなかった。当時、日本軍を見たら逃げろといわれていたので、わたしはすぐ逃げた」と話してくれました。蘇亜呑さんからはじめて話しを聞かせてもらったのは、2001年1月でした(『海南島で日本は何をしたのか 虐殺・略奪・性奴隷化、抗日反日闘争』11頁をみてください)。
 蘇亜呑さんに別れ、朝鮮人の遺骨が埋められている所に向かって歩いていくと、林瑞章さんが、自宅の前で、たくさんの鶏にえさを撒いていました。林瑞章さんに朝鮮人が着ていた服の色を聞くと、干してあった淡い青色の洗濯物を示しました。
 日暮れが迫ったころ、遺骨が埋められている南丁小学校裏の広場にでました。広場の3分の1ほどが整地されていました。
 2001年1月に韓国MBCらが発掘した地域、2006年5月に紀州鉱山の真実を明らかにする会が「試掘」しようとした地点、「収蔵庫」と「追悼碑」は、そのままでしたが、レンガ造りの塀の中央部の門は壊され、そこから整地された土地まで幅2メートルほどの道路がつくられていました。この道路の下の遺骨は粉砕されてしまったと思います。
 2006年5月の「試掘」は、最後の機会だったのかも知れません。
                                  佐藤正人
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