三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

“沙土惨案” 3

2008年12月05日 | 海南島
 2008年10月20日に、沙土を再訪しました。
 前回、10月12日には、梁昌寶さんといっしょでしたが、今回は、林彩虹さんといっしょでした。
 朝8時半に海口西バスターミナルから福山行きのバスに乗って、高速道路を1時間ほど行って福山口で下車。そこからまたバスで30分ほど行くと終点の橋頭鎭に着きます。
 橋頭鎭の市場などを回ったあと、橋頭鎭人民政府に行きました。橋頭鎮人民政府が、虐殺64年後の2005年8月15日に「史証碑」を建てた理由と碑文確定にいたる経過を聞きたいと思ったからです。
 11時ころ訪問し、来意を伝えましたが、1時間ほど待っても、その経過を知っている人が現れなかったので、日をあらためて訪ねることにしました。
 沙土虐殺にかんする記述は『日軍侵澄暴行実録』(澄邁県政協文史資料委員会編、1995年ころ発行)に掲載されている、温家明・温明光口述「血海深仇 永不忘懐(侵瓊日軍制造“沙土惨案”実況)」があるだけです。「血海深仇 永不忘懐」発表から「史証碑」建立まで10年間が経過していますが、320字ほどの「史証碑」碑文の内容は、「血海深仇 永不忘懐」の内容とほとんど同じです。「史証碑」碑文には、「血海深仇 永不忘懐」に書かれていないことは、なにも書かれていません。
 碑文には、“1941年閏6月12日未明に、200人あまりの日本兵が沙土峒に侵入し、昌堂、美梅、那南、北山、昌表、上帝、聖眼、文旭、福留、欽帝等の村で、わずか2時間に、男女老幼1119人を殺し、その後さらに2回侵入してきて200人あまりを殺した”と書かれています。しかし、「史証碑」には、犠牲者の名は記されていません。

 昼過ぎに橋頭鎮人民政府の建物を出ました。あたりに食事をする場所がなかったので、昼食を抜いて、三輪車で、沙土に向かいました。
 まず、10月12日に時間がなくなって行けなかった聖眼村北方の沙土海岸に行きました。
 瓊州海峡に面したその海岸は砂浜で、左手に遠く才芳岬が見えました。
 沙土地域には、聖眼、福留、昌堂、美梅、那南、北山、上帝、昌表、文旭、欽帝、小美良、木春、扶里の13個の村があります。
 三輪車の運転手、王春英さん(1976年生)は、橋頭に生まれ住んでいる人で、沙土地域に親戚や知人がおおい人でした。王春英さんと相談して、沙土海岸から近い福留村を訪ねました。福留村は澄邁湾に面した海岸にあります。エビの養殖池がつらなっていました。その海域の手前に、小さな石油開削基地がありました。
 福留村で、「幸存者」の温天元さん(74歳)、温天芬さん(75歳)、温龍其さん(84歳)、温陳東さん(73歳)、温際貴さん(79歳)に、あの日のことを話してもらうことができました。
                                  佐藤正人
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする