三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

「庚戌国恥日に見て回る日帝蛮行の証拠」

2018年08月30日 | 国民国家日本の侵略犯罪
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/31491.html
「The Hankyoreh」 2018-08-29 23:08
■[フォト]庚戌国恥日に見て回る日帝蛮行の証拠
 29日、ソウル市龍山区の民族問題研究所で開館

 国内初の日帝強制占領期間専門博物館である「植民地歴史博物館」が、庚戌国辱108周年の8月29日、ソウル市龍山区(ヨンサング)の民族問題研究所で開館した。博物館には、1875年の雲楊号事件から解放に至るまで70年にわたる日帝侵奪とそれに附逆した親日派の罪状を正確に記録した史料と展示物がぎっしりと収められている。
 ソウル市龍山区青坡洞(チョンパドン)孝昌院(ヒョチャンウォン)近隣の博物館の規模は、地下1階から地上5階まで延面積1500余平方メートルだ。博物館には企画展示室と常設展示室、書庫と収蔵庫、研究室などが備わっている。
 展示室に保管された日帝強制占領期間の日本の蛮行を証言する史料から一部を集めてみる。

1.純宗皇帝の勅諭と寺内統監の遺稿

【写真】純宗皇帝の勅諭と寺内統監の遺稿=植民地歴史博物館//ハンギョレ新聞社

 純宗が国権を渡すと明らかにした勅諭で、石版印刷された原本だ。「国権を自分が信じて頼る隣国日本の皇帝陛下に渡す」との内容が書かれている。朝鮮初代総督の寺内正毅が赴任して施政方針を明らかにした布告文には「前韓国元帥の希望に応じて、その統治権譲与を受諾する」と書いて、条約締結の正当性を強調した。

2.乙巳五賊 權重顯が受けたメダル

【写真】乙巳五賊 權重顯が受けたメダル=植民地歴史博物館//ハンギョレ新聞社

 乙巳五賊の1人である權重顯(クォン・ジュンヒョン)が、韓国併合を記念して受けたメダルと証書。權重顯は、1907年1月乙巳保護条約が無効であることを明らかにした高宗(コジョン)皇帝の親書が「大韓毎日申報」に発表された直後、“乙巳五賊”の暗殺を祈ったナ・インヨン、オ・キホらに狙撃されたが、命は保った。強制併合後、朝鮮総督の諮問機構である中枢院の顧問に任命され、1920年までの10年間、毎年1600ウォンの手当てを受け取った。

3.朝鮮総督府の帯剣

【写真】朝鮮総督府の帯剣=植民地歴史博物館//ハンギョレ新聞社

 朝鮮総督府の文官が帯びる刀。職級と関係なくすべて制服に刀を帯びさせ、朝鮮人に総督府官吏の権威を誇示しようと考えた。刀の柄と鞘に“桐の紋様”が一つずつ彫られていることから見て“奏任官”が使った帯剣だ。柄には鮫革が巻かれている。

4.千人針と軍慰問品の内チョッキ

【写真】千人針と軍慰問品の内チョッキ=植民地歴史博物館//ハンギョレ新聞社

 千人針は、参戦した人の無事を祈って長さ1メートル程度の白布に赤い糸で女性千人が一目ずつ縫って作った一種のお守り。千人針は、お守りのように腹にまいたり、帽子に通して被って通った。下の内チョッキは、釜山公立高等女学校2年生の山口幸子が「武運長久」と書いた南・朝鮮総徳の文字と一種の護身符として朝鮮神宮の印鑑を捺した布を重ねて作った内チョッキだ。朝鮮軍事後援連盟が生徒たちが作ったものを集めて軍人に慰問品として送った。

5.宮城遙拝

【写真】宮城遙拝=植民地歴史博物館//ハンギョレ新聞社

 毎朝“天皇”のいる東に向かって義務的に礼(宮城遙拝)をしなければならなかった当時の姿を撮影した写真だ。

6.中日戦争の戦闘日誌が記録された日章旗

【写真】中日戦争の戦闘日誌が記録された日章旗=植民地歴史博物館//ハンギョレ新聞社

 稲葉部隊歩兵第6師団などが1937年7月から1938年11月までの中日戦争戦闘日誌を記録した日章旗。日の丸の中に南京と漢口を占領した日が正確に記されている。南京大虐殺に加担したと推定される日程が目につく。

7.特別志願兵イ・ウンヒの壮行旗

【写真】特別志願兵イ・ウンヒの壮行旗=植民地歴史博物館//ハンギョレ新聞社

 壮行旗は、青年たちが死にに出かける時に掲げた旗だとして「青春挽章」と呼ばれた。この旗には「祝 陸軍兵志願者訓練所入所宮本恩徽君、国民総力金堤郡(キムジェグン)月村面連盟」と書かれている。イ・ウンヒは1941年、地方公務員試験を受けるため村役場に行き、事実上強制的に志願兵として連れて行かれた。当時妊娠8カ月だった妻を置いて、彼は結局1944年7月11日南太平洋パプアニューギニアのラバウルで戦死した。下は当時日本軍陸軍兵士が使った軍服と鉄兜、水筒などの軍装だ。

キム・ジョンヒョ記者
http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/859802.html
韓国語原文入力:2018-08-29 19:13


http://japan.hani.co.kr/arti/politics/31443.html
「The Hankyoreh」 2018-08-24 10:21
■[インタビュー]「日帝植民地支配が後世に与えた影響まで幅広く見せます」
 民族問題研究所 キム・スンウン資料室長

 キム・スンウン室長は、3年前フランス国家記録院が「ナチス賦役者」をテーマに展示会を開いた事実を思い出し、韓国も植民主義の清算はこれからだという考えを持たなければならないと話した。「フランス国家機関がなぜフランス版親日賦役派の展示会を開いたのか。現実政治で必要だからそうしたのです。当時、フランスの若者たちがナチに類似した政党に大勢加入したんです。ファシズムを警戒したのでしょう」と付け加えた。「徳成女子大学史学科で勉強しながら『国家はみな歴史を歪曲する』ことを学びました。その時、国家が記録しなかった話を私が記録しようと考えました」。
 国恥日(日本に国権を奪われた1910年8月29日)である今月29日、ソウル龍山区(ヨンサング)青坡洞(チョンパドン)に植民地歴史博物館がオープンする。建設準備委員会発足から11年。民族問題研究所(以下、民問研)が昨年12月に越してきた5階建てビルの1~2階、140坪あまりの空間に設けられる。開館日には日帝強制動員被害者遺族たちが歓迎プラカードを持ち、独立運動家の子孫など出席者を迎える予定だ。午後3時30分の開館式に先立ち、近くの孝昌公園の独立烈士墓地を訪ねる行事もある。最初の企画展は、10月に開かれる「反民族行為特別調査委員会70年特別展」だ。博物館の学芸室長を兼ねるキム・スンウン民問研資料室長と21日、民問研事務所で会った。
 「当初2010年に開く予定でしたが8年も遅れてしまいました。李明博(イ・ミョンバク)、朴槿恵(パク・クネ)政府の時に起こった歴史歪曲のせいが大きいです」。説明を詳しく聞いた。「李明博大統領時代、ニューライト陣営は親日賦役を美化する代案教科書を出し、朴槿恵政府は国定歴史教科書を推し進めました。公営放送KBSも親日賦役・独裁を美化するドキュメンタリーを流しました。それらと闘うのに忙しく、開館に力を入れられませんでした」。

【写真】開館を控えた植民地歴史博物館の展示館内部=民族問題研究所提供//ハンギョレ新聞社

 民問研は昨年、博物館が入る建物を51億ウォンで購入した。内装費用などまで合わせると56億ウォン(約5億6千万円)だ。建物の購入は、市民からの後援金15億ウォンと「親日人名辞典」販売基金11億ウォンが大きな力になった。融資も22億ウォンを受けた。「真実和解のための過去事整理委員長を務めたソン・ギイン神父が2億ウォンを出してくれました。10万ウォン以上寄付した方が4800人もなります。最近はヤン・ボギョン誠信女子大学総長とハン・サングォン徳成女子大学総長代行夫婦が2千万ウォンを送ってくれました」。3年前に結成された日本の市民団体「植民地の歴史博物館と日本をつなぐ会」も1億300万ウォンを集めた。
 キム室長は博物館の開館の意味をこのように指摘した。「親日人名辞典(2009年)が清算できていない歴史を記録し、韓国社会に正義と常識を立てる運動だったとすれば、博物館はこのように記録された歴史を教育・伝承し、これを通じて世界と疏通する場になるでしょう」
 博物館の名前に「植民地」を入れたのも一つの挑戦だったという。「植民地の代わりに日帝強制占領期や日帝侵奪史とも言えました。しかし、植民地という言葉によってその時代をもっと深く理解できます。(博物館は)なぜ植民地時代を考えなければならないのかに焦点を当てています」。展示の構成で、彼女の言わんとすることが理解できる。2階に入る常設展示場は全部で4部だ。1部は「日帝侵略と植民地支配」であり、2部は「日本の侵略戦争と強制動員」、3部は「同じ時代の異なる人生、親日と抗日」、4部は「過去に打ち勝つ力、いま何をすべきか」だ。「3部では友堂(李会栄)、石洲(李相龍)など亡命独立運動家一族と、代表親日派である尹氏一族を対比させます。新興武官学校出身の独立軍たちと、独立軍の摘発に乗り出した日本陸軍士官学校出身の将校たちも一緒に見せます。4部は反民族特別調査委員会の挫折に続いた親日派の帰還と遅延された歴史の正義を、共感と連帯の力で克服してきたことを示します」。35年の植民地の跡が後世に及ぼした影響まで幅広く見せるというわけだ。

 「植民地歴史博物館」29日の国恥日に開館  
 保守政権の歴史歪曲と闘い8年遅れ  
 市民の寄付金と融資などで建物を購入  
 ソン・ギイン神父が2億・日本の市民も力を添え 
 学芸室長を務め、10月に「反民特委特別展」

 日本の市民団体の募金には800人余りが参加した。「日本の後援者の人々が真っ先に言った言葉は『私たちが先につくるべきだったのに』でした。『韓国政府でもなく市民が自発的にやっているのに、じっとしてはいられない』といって参加してくれました」。日本にはこのような博物館があるだろうか。「全世界で平和博物館がもっとも多いのが日本です。小さな市民団体や個人がつくった空間が多いです」。しかし、国や地方自治体が運営する公共博物館の中には、植民地支配を批判的に省察するところは見当たらないという。「大阪人権博物館が日本社会の朝鮮人差別問題に関心を持って展示をしたが、極右性向の知事が来て性格が変質しました。京都の立命館大学の国際平和博物館も戦争反対と平和を目指すが、自国の戦争犯罪を浮き彫りにはしていません」

【写真】開館を控えた植民地歴史博物館の展示館内部=民族問題研究所提供//ハンギョレ新聞社

 注目する展示品を一つ選んでほしいと言うと、キム室長は純宗が国権を渡すと発表した勅諭をあげた。「国権を自分が信じて頼る隣国の日本皇帝陛下に渡すという内容です。石版印刷された原本です。どこでも見ることのできない資料です。朝鮮第1代総督の寺内正毅が赴任し、施政方針を明らかにした文もあります。それを見ると、当時日本が朝鮮人協力者の養成をどれほど重要に考えたかを知ることができます。教科書で機械的に習った植民地支配の実像が生々しく伝わってきます」
 展示資料の収集は7年前から行なってきたという。「昨年2月、博物館の建物を契約したという知らせが広まり、日本からたくさんの資料が入ってきました。日本植民地時代に朝鮮で暮らしていた日本人が70万人います。今も当時朝鮮や満州で発行された本を持っている方が多いです。1932年に尹奉吉(ユン・ボンギル)義士が処刑された時に出た日本の地域新聞も寄贈されました」。神社の資料は、当博物館がおそらく世界で最も多いという話もした。「70年代から天皇制反対運動をしてきた日本人(辻子実氏)が、これまで集めた神社の資料を2009年から寄贈しています。靖国神社で出した資料はほとんどあります。日本植民地時代の朝鮮の神社の資料も、はがきを含めてたくさんあります」

【写真】開館を控えた植民地歴史博物館の展示館内部=民族問題研究所提供//ハンギョレ新聞社

 キム室長は2005年から民問研で働いている。「高麗大学大学院博士課程で勉強したときに先輩の勧めで合流しました」。1990年に徳成女子大学史学科に入ったのは、日本の歴史歪曲に対する怒りが大きかったためという。今後の計画を聞くと「1970年代から始まった日帝強制動員被害者の法廷闘争を一つ一つ記録したい」と語った。

文・写真 カン・ソンマン先任記者
http://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/858966.html
韓国語原文入力:2018-08-23 20:01


http://japan.hani.co.kr/arti/opinion/31437.html
「The Hankyoreh」 登録:2018-08-23 22:29 修正:2018-08-24 08:10
■[コラム]我が身に刻まれた8月

【写真】被爆者健康手帳(原爆手帳)//ハンギョレ新聞社

 2008年、国務総理室「日帝強制占領下強制動員被害真相究明委員会」(以下、強制動員委)は『我が身に刻まれた8月-広島、長崎強制動員被害者の原爆体験』という本を出した。この本は、強制動員されて原爆被害を被った人々の証言を集めた貴重な資料だ。強制動員委は2014年に活動を終了し、この本の存在も忘れられつつある。だが、被害当事者のからだと心に負った傷は癒えない。
 三菱重工業長崎造船所に強制動員されたイ・クァンモさん(95)とキム・ソンスさん(92)は、6月26日に被爆者健康手帳の交付を日本政府に要求する訴訟で証言するために長崎を訪れた。日本政府は「被爆者援護法」に則り1945年原爆投下当時に広島と長崎の被爆地域にいた人々を「被爆者」と規定し、彼らに「健康手帳」を交付し、医療費を支給している。
 一緒に訴訟を提起したペ・ハンソプさん(92)は、健康状態が良くなく日本に来られず、日本の市民団体「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」の会員である河井章子さんが代わりに証言した。イさんは、三菱重工業が自身に付けた番号である「サンマンロクセンキューヒャクジューニバン」(3万6912番)を日本語ではっきり発音した。キムさんとペさんの強制動員被害証言は『我が身に刻まれた8月』に載っている。
 彼らが健康手帳の発行を申請したのは2014年からだった。日本政府は、健康手帳の発行を日本国内に居住する人に限定し、朝鮮半島に戻った朝鮮人被爆者の医療支援は無視したが、韓国の被爆被害者と日本の市民団体の長い闘争の末に2008年、被爆者援護法が改正され韓国でも被爆者手帳を受け取ることができるようになった。イさんは、自身が収容された宿舎の名前が「木鉢寮」だったと証言し、宿舎の詳細な位置と配置図を描いた。被害者本人でなければ知り得ない情報だった。
 しかし、健康手帳の発行申請を受けた長崎市は、イさんなどに却下決定を通知した。理由は、原爆投下当時にイさんらが長崎にいたという証拠が不十分だということだった。公文書を通じて証明されなければ被爆者として認定できないという話だった。イさんらは、2016年に長崎地方裁判所に長崎市の健康手帳発行却下決定を取り消してほしいとして訴訟を起こした。日本の市民団体は、有力な公文書証拠になりうる未支給賃金供託書を探しに乗り出した。日本の企業らは、強制動員された朝鮮人の未支給賃金を戦後に裁判所に供託したが、この供託名簿を探し出せば決定的証拠を確保することになるためだ。
 ところが昨年8月、衝撃的な事実が明らかになった。長崎地方法務局が朝鮮人労働者のものと推定される3400人の供託名簿を、1970年に保存期間満了を理由に廃棄したと告白した。日本政府が1958年、朝鮮人強制動員被害者の場合には保存期間が過ぎても名簿を廃棄するなという通達を送ったが、通達にも反する措置だった。日本は、自分たちが記録を廃棄しておきながら、もう記録がないから証拠がないと居直っているわけだ。
 最近会った「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」の河井さんは、大きなファイルに入れて関連資料を持ってきて、この事件について詳しく説明した。彼女は「強制的に引っ張って来た人々が被爆したのに、被爆した証拠を出せと言って居直る日本政府の態度に怒りを感じる」と話した。
 韓国裁判所事務総局が、日帝強制占領期の強制徴用裁判の結論を先送りする見返りに、外交部から海外派遣裁判官の席を勝ち取ろうとした情況が最近明らかになっているというニュースも聞こえている。強制動員被害者の被害は、両国双方から無視されている。残忍な話だ。

チョ・ギウォン東京特派員
http://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/858959.html
韓国語原文入力:2018-08-23 19:08
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