三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

1600年前の「韓流元祖」…日本で発見された耳飾りをした伽耶人の顔=韓国

2023年06月22日 | 朝鮮史
「The Hankyoreh」 2023-06-21 10:31
■1600年前の「韓流元祖」…日本で発見された耳飾りをした伽耶人の顔=韓国
 国立金海博物館企画展「海を渡った伽耶人たち」

【写真】6世紀頃、日本列島に渡った伽耶系移住民を形象化したと推定される日本の古代墓出土造形物。もともと死者の魂を鎮めるために収められた象徴物で、日本では「埴輪」と呼ばれる。千葉県山倉1号墳から出土=ノ・ヒョンソク記者//ハンギョレ新聞社

 1600年前の伽耶の人々の顔を見たことがあるだろうか。
 4~6世紀、嶺南・湖南地方で小さな国を構成し、日本列島と活発な交易を繰り広げ、今日の韓流の有力な元祖に挙げられる彼らの実際の姿を、現在の韓国人が思い浮かべるのは実に難しい。しかし、驚くべきことに日本には当代の伽耶人の姿を形象化した生き生きとした造形物が残っている。
 今年4月末から慶尚南道金海市(キメシ)の国立金海博物館で開かれている特別展「海を渡った伽耶人」の展示場の入り口で、まさにその伽耶人の像に出会うことができる。6世紀頃、日本列島に渡った朝鮮半島の伽耶系移住民を形象化したと推定される現地古代墓からの出土品。もともと死者の魂を鎮めるために収められた象徴物で、日本では「埴輪(はにわ)」と呼ばれる一種の土製人形だ。東京近郊の千葉県にある山倉1号墳から出たもので、海を渡って日本列島で暮らした伽耶人の姿を当時形にした唯一の遺物として挙げられる。尖った三角形の帽子をかぶり、首には玉型の首飾りをして、耳飾りを着けた人物像で、上衣の右の前身頃を先にあわせ、左の前身頃を重ねるかたちの古代朝鮮半島人特有の服装であるため、当代の日本人の姿とは異なる。
 日本の九州国立博物館、福岡県と共催した今回の展示は、規模は大きくないが特別な意味をもつ。鉄器や騎馬術などの先進文物を日本列島に伝播した古代韓流の主役、伽耶人たちが残した交流の痕跡を振り返る最初の展示であるためだ。日本に残した伽耶人たちの痕跡を、見慣れない現地出土品を通じて初めて韓国国内に見せるだけでなく、韓国国内の伽耶遺跡から出土した遺物と比較しながら見ることができる。一風変わった感覚と雰囲気に感じられる日本現地の伽耶系土器や造形物、鉄器、武器など259点の遺物が登場する。
 伽耶移住民の形を模した土製品である埴輪とともに目を引く重要な遺物は、馬と牛の形に作られた5~6世紀頃の墓造形物(埴輪)だ。4~5世紀、日本に移住した伽耶人たちは牛と馬を一緒に連れて行き、現地で放牧しながら牧畜生活文化の土台を築いた。家畜を飼う伽耶人の牧畜文化が、当代日本人の実生活はもちろん、葬儀文化にも大きな影響を及ぼしたという事実を、馬と牛の形をした埴輪から察することができる。一切装飾を施したり飾ったりせず、胴体だけを強調したもの、子馬の姿を造形したものなど、多様な形と日本特有の端正さが特徴のこの家畜埴輪は、伽耶と日本の強い古代交流を示す端的な象徴物といえる。
 特別展はこの他にも、伽耶人たちが乗っていたと推定される船が刻まれた埴輪土器、伽耶の特産品である鉄の塊と鎧、渦巻き装飾がついた刀、甑(こしき)を乗せた移動式かまどなど、日本各地の34遺跡から出土した伽耶関連遺物260点余りを3つのエリアに分けて紹介している。玄海灘を渡った伽耶移住民が、文化的アイデンティティを守り、古代日本社会に大きな影響を及ぼした跡を鑑賞できる稀有な機会だ。6月25日まで。

【写真】国立金海博物館展示に出品された馬を素材にした5~6世紀頃の墓造形物(埴輪)。家畜を飼う伽耶人の牧畜文化が当代日本人の実生活はもちろん、葬儀文化にも大きな影響を及ぼしたという事実をこの馬の埴輪から推測できる=ノ・ヒョンソク記者//ハンギョレ新聞社

金海/文・写真 ノ・ヒョンソク記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2023-06-20 10:04


「The Hankyoreh」 2023-06-07 10:32
■伽耶の王族たちは「ローマングラスの器」をどこで買い求めたのか=韓国
 韓国国内16番目の世界遺産登録を控えた「伽耶古墳群」に行ってみると

【写真】慶尚南道陜川の玉田古墳群から出土したローマングラス=キム・ギュヒョン記者//ハンギョレ新聞社

 穏やかな稜線上に大小の昔の墓がこぶのように集まって盛り上がっていた。墓を取り囲むトゥルレキル(遊歩道)には、散歩を楽しむ市民たちが見えた。稜線の上に立つと、高霊(コリョン)の市街地が一望できた。今月1日に訪れた慶尚北道高霊郡の芝山洞古墳群の姿だった。古代伽耶連盟が残した芝山洞古墳群は、9月にユネスコ世界文化遺産への登録を控えている。
 伽耶古墳群が世界遺産に登録されれば、韓国では石窟庵・仏国寺、海印寺大蔵経板殿などに続き16番目の世界遺産となる。ハンギョレがこの日、伽耶古墳群世界遺産登録推進団と共に訪れた伽耶古墳群は、高霊の芝山洞古墳群のほかに、慶尚南道陜川(ハプチョン)の玉田古墳群、全羅北道南原(ナムウォン)の酉谷里・斗洛里古墳群だった。ユネスコ遺産登録を控えた「伽耶古墳群」(Gaya Tumuli)は、この3カ所を含め慶尚南道金海市(キメ)の大成洞古墳群、慶尚南道咸安(ハマン)の末伊山古墳群、慶尚南道昌寧(チャンニョン)の校洞・松ヒョン洞古墳群(ヒョンは山に見)、慶尚南道固城(コソン)の松鶴洞古墳群までの7カ所だ。

【写真】慶尚北道高霊の芝山洞古墳群の様子=慶尚北道提供//ハンギョレ新聞社

 高霊の芝山洞古墳群は、7つの古墳群の中で最も規模が大きい。5~6世紀の伽耶王族の墳丘704基が集まっている。主山の頂上部のすぐ下にある44号墳は、高さ6メートル、直径25メートルにのぼる大型墳丘だ。韓国で初めて発見された殉葬墓(死者と近かった人や動物を共に埋葬すること)でもある。墓の中央には王の席である「ウトゥムトルバン(第一石室)」が長方形に作られ、南側と西側に「タルリントルバン(付属石室)」2基がある。これを囲むように丸く32基の殉葬木槨があり、10代から60代まで多様な年齢の民40人余りが殉葬されたという。伽耶連盟の最盛期を導いた大伽耶の地位を推し量ることができるというのが専門家たちの説明だった。

【写真】「伽耶古墳群」に含まれる7つの古墳群の現状(左上から時計回りに、高霊の芝山洞古墳群、昌寧の校洞・松ヒョン洞古墳群、金海の大成洞古墳群、咸安の末伊山古墳群、固城の松鶴洞古墳群、陜川の玉田古墳群、南原の酉谷里・斗洛里古墳群)=文化財庁提供//ハンギョレ新聞社

 古墳群の下の大伽耶王陵展示館では、44号古墳群内部をそのまま展示し、発掘された遺物などを直接見ることができた。芝山洞古墳群から車で30分余り離れた慶尚南道陜川の玉田古墳群も高い丘陵の上に墳丘が集まっていたが、丘陵の頂上部には4世紀頃の木槨墓が、西側には5世紀頃の石槨墓が見えた。玉の畑を意味する「玉田」という名前のとおり、ここでは玉のネックレス、金製イヤリングなど華麗な装身具が多く発見されたという。透明ガラス器「ローマングラス」も1点出たが、西域との交流を通じて流入したものと推定される。
 7つの古墳群の中で最も西側にある南原の酉谷里・斗洛里古墳群では発掘作業が真っ最中だった。当初、ここは百済支配層の墓であると考えられていたという。実際、百済式遺物と伽耶式遺物が混ざって出てきた。32号墳から出た青銅鏡は百済武寧王陵から出たものと似ており、百済と交流して影響を受けたものと専門家たちは推定している。

【写真】全羅北道南原の酉谷里・斗洛里古墳群は今も発掘作業が真っ最中だ=キム・ギュヒョン記者//ハンギョレ新聞社

 伽耶古墳群世界遺産登録推進団のイ・ギュホン研究員は「伽耶式石槨墓は細長い長方形という共通点があるが、主槨と副槨を並べて置いたり斜めに置くなど構成方式が全て異なる。対等な水準の威勢品と交易品が発見され、伽耶に属する各政治体が自律的で水平的な関係を形成していたことを示している」と説明した。そして「高句麗・百済・新羅三国の遺跡はすべて世界遺産に登録されている。伽耶古墳群の世界遺産登録により、古代史の最後のパズルを完成させることができることになる」と語った。
キム・ギュヒョン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/area/yeongnam/1094745.html
韓国語原文入力:2023-06-06 16:31


「The Hankyoreh」 2022-04-04 09:49
■「鉄の王国」伽耶古墳群の世界遺産登録、最後の峠を越えるか
 世界遺産委員会、6月の会議で決定の予定 
 古墳群780カ所のうち主要7カ所を推進 
 一部団体「植民史観で歴史歪曲」 
 学術的な欠陥を批判して保留要求 
 専門家「任那日本府説とは無関係」

【写真】世界遺産登録が推進されている伽耶古墳群の位置(1)金海大成洞古墳群(2)咸安末伊山古墳群(3)陜川玉田古墳群(4)高霊池山洞古墳群(5)固城松鶴洞古墳群(6)昌寧校洞・松峴洞古墳群(7)南原酉谷里・斗洛里古墳群=慶尚南道提供//ハンギョレ新聞社

 「鉄の王国」伽耶の優れた文化水準を証明する伽耶古墳群が、価値を認められ、世界遺産に登録されるだろうか。
 世界遺産委員会は6月19~30日、ロシアのカザンで会議を開き、「伽耶古墳群」(Gaya Tumuli)の世界遺産の登録の可否を決める。これに先立ち、伽耶文化圏である慶尚南道・慶尚北道・全羅北道などは、2013年から同意を集め、伽耶古墳群のユネスコ世界遺産の登録を推進している。この9年間、ユネスコ世界遺産の暫定リストへの登録、世界遺産登録申請の対象選定、登録申込書の完成度の検討などの手続きをすべて通過し、世界遺産委員会の最終決定だけを残している。

◆ 慶尚道・全羅道で合わせて780カ所の伽耶古墳群
 紀元前1世紀の朝鮮半島南部地方で生まれ、562年の大伽耶滅亡に至るまでの600年あまりにわたり繁栄した伽耶が残した古墳は、数十万基(古墳群基準で780カ所)に達する。このうち、世界遺産の登録を推進する連続遺産(地理的に接近していないが、関連性が強い遺産)は、伽耶の開始と王墓の出現を示す金海大成洞(キムヘ・テソンドン)古墳群▽殉葬制度を示す咸安末伊山(ハマン・マリサン)古墳群▽日本と中国はもちろん、西域との交流を証明する陜川玉田(ハプチョン・オクジョン)古墳群▽伽耶古墳群のなかで最大規模の高霊池山洞(コリョン・チサンドン)古墳群▽一つの封墳に多くの墓が次々と造成された固城松鶴洞(コソン・ソンハクトン)古墳群▽派手な装飾馬具と金銅冠などが出土した昌寧校洞・松峴洞(チャンニョン・キョドン・ソンヒョンドン)古墳群▽中国系と百済系の遺物が出土した南原酉谷里・斗洛里(ナムォン・ユゴクリ・トゥラクリ)古墳群など7カ所。行政区域別では、慶尚南道5カ所、慶尚北道1カ所、全羅北道1カ所となる。
 当初、2013年までは、慶尚南道と慶尚北道がそれぞれ世界遺産登録を推進していた。しかし、文化財庁が類似の性格の遺産を一つにまとめて登録するよう勧告したことにより、代表的な伽耶古墳群35カ所を専門家が検討し、7カ所を候補地に選定した。これら7カ所は、伽耶の各政治体の中心地に位置し、伽耶文明を代表的に証明し、伽耶文明の社会構造を反映した祭祀と副葬遺物を備えているという評価を得ている。

◆干潟に続く韓国16番目の世界遺産になるだろうか
 「ユネスコ遺産」は、世界遺産・無形文化遺産・世界記録遺産など3種類に分けられる。世界遺産は合わせて10個の基準があるが、伽耶古墳群は、3番目の基準である「現存するかすでに消滅した文化的伝統や文明の卓越性、または少なくとも無二の証拠」に該当する。伽耶古墳群が登録されれば、海印寺大蔵経板殿、宗廟、石窟庵・仏国寺などに続く韓国16番目の世界遺産になる。
 7つの古墳群が位置する3つの広域団体(慶尚南道・慶尚北道・全羅北道)と7つの地方自治体が共同で設立した「伽耶古墳群世界遺産登録推進団」は、「伽耶古墳群が世界遺産に登録されるということは、伽耶史の世界史的な認証を通じて、伽耶が高句麗・百済・新羅に対応する歴史的な実体として認められるようになったということを意味する。ユネスコ世界遺産という世界的な地位の獲得を通じて、観光需要の増大効果も期待できる」と明らかにした。
 韓国政府は2017年、「伽耶文化圏調査研究および整備」を国政課題に加え、伽耶古墳群の世界遺産登録を支援している。2020年、超広域協力伽耶文化圏助成計画も用意した。この作業は、伽耶古墳群の発掘・整備を皮切りに、伽耶史の究明・確立▽伽耶遺産の合理的保存・管理▽伽耶歴史資源の活用と価値創出などに拡大している。2020年10月には、金海大成洞76号墳から出土のネックレス、金海良洞里(キムヘ・ヤンドンリ)270号墳から出土の水晶のネックレス、金海良洞里322号墳から出土のネックレスが宝物(重要文化財)に指定された。

◆多羅国・己汶国などについて植民史観とする議論も
 伽耶古墳群の世界遺産登録は、順調なことだけではない。
 2月18日、「植民史観で歪曲された伽耶史を正す全国連帯」が、記者会見を開き、伽耶古墳群の世界遺産登録推進の保留と、「伽耶古墳群研究叢書」の廃棄を文化財庁に要求した。これらの人々は記者会見で、「伽耶古墳群の登録推進の過程において、学術的にも歴史的にも絶対に容認できないとんでもない欠陥があることを発見した。『伽耶古墳群世界遺産登録申込書』は、日本帝国主義が作ったいわゆる植民史観で汚染されており、伽耶の実情を明らかにするどころか、広く知られている伽耶史自体さえ歪曲している」と主張した。「伽耶史を正す慶尚南道連帯」共同代表のキム・ヨンジン慶尚南道議員(共に民主党)は先月17日、慶尚南道議会の本会議で、「伽耶古墳群の世界遺産登録推進の過程で、日本の極右と植民史学家が主張する任那日本府説が召喚された」とし、「任那日本府説を伴ったまま登録することになれば、倭(日本)が朝鮮半島南部を支配したという任那日本府説を私たち自らが認めることになり、これは、古代から韓国が日本の植民地だったということを認める格好」だと述べた。
 これらの人々は、特に「多羅国」と「己汶国」という伽耶の国の名称を問題視している。世界遺産の登録申込書では、慶南陜川郡の玉田古墳群は「多羅国」、全羅北道南原市の酉谷里・斗洛里古墳群は「己汶国」の古墳に分類されている。この多羅国や己汶国などは、韓国の歴史書の『三国遺事』には書かれておらず、『日本書紀』や『梁職貢図』などの日本と中国の歴史書や資料に出てくる名称だ。
 議論は、伽耶に関する文献記録と、最近発掘と確認がなされた伽耶の実体が反映されている点があることによる。これまで当然視されてきた伽耶についての一般的な常識は、「首露王ら6兄弟が建国した、金官・安羅・大・小・星山・古寧などの6つの小国」だ。しかし、2018年に「伽耶古墳群世界遺産登録推進団」が発行した『伽耶古墳群研究叢書』(研究叢書)はこれについて、「『三国遺事』の記録のために作り出された虚構にすぎず、史実とは完全にかけ離れている」と明らかにしている。伽耶史研究関連の20の機関の専門家25人が共同執筆した研究叢書は、「『三国志』『三国史記』『日本書紀』などを総合的と分析すると、伽耶は12以上の小国で構成されていた」と結論づけた。そのため、世界遺産登録を推進する古墳群7カ所は、金官伽耶(金海大成洞古墳群)、安羅伽耶(咸安末伊山古墳群)、非火伽耶(昌寧校洞·松峴洞古墳群)、小伽耶(固城松鶴洞古墳群)、多羅国(陜川玉田古墳群)、大伽耶(高霊池山洞古墳群)、己汶国(南原酉谷里・斗洛里古墳群)などに整理された。また、韓国と日本の両国の歴史学界の長きにわたる論争の種である「任那日本府」については、「倭王権が伽耶に派遣した外交使節」と定義した。
 慶尚南道・伽耶文化遺産と学芸研究員のキム・スファン氏は、「『三国遺事』 などの韓国の歴史書に、星山伽耶と古寧伽耶という名称が出ているが、この地域の古墳群を発掘した結果、伽耶ではなく新羅の古墳だと確認された」とし、「反対に、韓国の歴史書には、陜川や全羅北道の南原地域に伽耶の国の名称は出ていないが、その地域の古墳群を発掘した結果、伽耶の古墳であることが明確に確認された」と述べた。さらに「そのため、専門家らは、発掘結果の分析と韓国・中国・日本の古文書の比較検討などを経て、『多羅国』と『己汶国』の名称を受け入れたのだ。これは、倭が伽耶を支配したという、いわゆる任那日本府説とは何の関係もない」と説明した。
チェ・サンウォン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/area/yeongnam/1037351.html
韓国語原文入力:2022-04-04 02:32


「The Hankyoreh」 2022-02-19 11:27
■慶尚南道の大伽耶の地から出た「百済式古墳」、被葬者はどの国の人か
 [ノ・ヒョンソクの時事文化財] 
 慶尚南道山清「M32号墳」発掘現場 
 封墳内の石塚の石室構造物 
 アーチ形天井・側壁などすべてが完全な形 
 典型的な宋山里型の墳墓構造 
 「百済勢力の影響力行使の証拠」と解釈 
 「単純に葬祭文化が広がったものではないか」との見解も

【写真】百済系の横穴式石室の墳墓だと確認され学界で注目されている慶尚南道山清生草にあるM32号墳の石室内部//ハンギョレ新聞社

 古代王国である百済の領域は、東にどこまで広がっていたのだろうか。忠清道と全羅道を越えて慶尚道の内陸の奥深い所まで進出したのだろうか。伽耶を直接支配し、新羅と対峙したのだろうか。
 韓国の歴史学界の研究者たちが長い間抱いていた疑問を解く手がかりが、年明けに現れた。智異山(チリサン)の東側の裾にある慶尚南道の山清(サンチョン)の地から、6世紀に精巧に作られた百済風の支配層の古墳が出てきた。洞窟のように古墳の側面を掘り下げていき、遺体を安置する墓室(玄室)を作った古墳だ。何度も葬儀を執り行えるようにした、いわゆる「横穴式石室」墳墓が出現した。百済が高句麗軍によって最初の首都の漢城(ハンソン、現在のソウル)を陥落され、475年に熊津(ウンジン、現在の公州(コンジュ))に遷都した後、武寧王(在位501~523)の治世を機に中興し始めた時期の王族と貴族の典型的な古墳の構造だ。しかも、大伽耶の主要な領域だと思われていた慶尚南道の西部内陸の山清郡にある生草(センチョ)古墳群で完全な百済支配層の古墳が出てきたというニュースに、学界の関心が集中している。

【写真】稜線に位置する山清の生草古墳群の西南の裾で発見されたM32号墳の入口部分。墓内部の石室につながる羨道(通路)の入口が見える。羨道の床には別の石が敷かれており、排水路を引いていた跡形(並行する2本の白線部分)が見える//ハンギョレ新聞社

 15日午前、山清郡生草面於西里山93-1番地一帯の胎峰山の稜線の裾に、強風と寒さに耐え全国各地から中堅の考古学者たちが集まった。昨年末からこの稜線の裾にあるM32号墳を発掘した極東文化財研究院の現場を見にきた人々だった。山清から流れる鏡湖江を見下ろせる稜線の裾に位置する直径13メートルの封墳を開くと、石塚の石室の構造物が現れた。石室の前方にある羨道(通路)の出入口が開いており、内部の未知の世界へと研究者たちを導いた。リュ・チャンファン研究院長の案内を受け、ヘルメットをかぶり、墓室を結ぶ羨道を通り、墓室に入った。長さ2.8メートル、幅1.7メートルの墓室は、2坪にも満たない4.85平方メートルのやや狭苦しい空間だ。しかし、入った瞬間に眺めた天井と壁面の姿に歓声を上げた。

【写真】M32号墳の墓室内部。明るい外側に通じる羨道が片方に偏っている様子が分かる。壁が上に向かうにつれ台形型となるアーチ形構造により狭まり、天井を覆う板石を支える半球型構造となっている。6世紀の百済の石室墓の典型的な特徴だ//ハンギョレ新聞社

 宋山里(ソンサンリ)型の百済貴族の古墳の特徴であるアーチ形の天井が、ほとんど損なわれずそのまま残っていた。四方の壁がアーチ形の輪郭を描き、天井石に向かい狭まりながら上がっていく、百済の石室墓の特有である虹型もしくは半球型の上部構造だ。6世紀初めの百済が熊津に首都を置いた時期の支配層の古墳の形である横穴式の石室墓の典型的な形だ。羨道に敷石と門柱を置き、門扉石(閉塞石)で塞いで閉鎖した構造は、伽耶人たちの石室や石槨古墳とは大きく異なる百済系統の石室墳の特徴だ。忠清南道公州の宋山里古墳群(武寧王陵を含む)の、いわゆる宋山里型の石室とほぼ同じ構造の首長級の古墳であることが明らかだ。割石で狭まっていく側壁を天井部分まで敷きつめた典型的な百済スタイルの石室だが、宋山里古墳群でも見られない側壁と天井の連結部分や天井の板石まで、すべて完全に残っていた。

【写真】山清生草古墳群のM32号墳の石室を覆った封墳を後ろから見た様子。封墳の中央部分に切り開かれた石室の上部を構成する石塚が見える。稜線の裾にある封墳の先に山清を流れる鏡湖江と野原が見える//ハンギョレ新聞社

 武寧王陵や多くの王陵級の古墳がある公州の宋山里古墳群の古墳の様式だということで「宋山里型」と呼ばれるこの古墳の様式が、思いがけず智異山を越えた山清の地の渓谷に現れたという事実は、学者たちを驚かせた。未盗掘古墳だが、残念なことに、当時の百済の風習では副葬品を特に埋めることはなかったため、腐食して失われた棺に使われた釘と小型の手刀以外には他の遺物は出てこなかった。しかし、砂利と粘土が敷かれた状態で整然と並ぶ遺体の場所を表記した墓室の地面からは、死者の霊気が染みでるようだった。発掘の際に封鎖用の石である門扉石が3つも出てきたことから、一人を葬った後に追加で二人の死者を葬ったと推定される。
 墓室を見て回った学者たちの間では、なぜ山清に百済支配層の墓室が登場したのかについて、多くの意見が交わされた。百済系の遺跡であることは明らかだが、はたして百済人のものなのかについてが論点になった。忠北大学のソン・ジョンヨン教授は、近くの山城から百済系の遺物である印章が刻まれた瓦が出ており、百済の宋山里型の典型的な墳墓構造だという点を重視した。百済勢力が明らかに山清に影響力を行使した証拠だと解釈された。一方、全北大学のキム・ナクジュン教授と慶北大学のパク・チョンス教授は、百済風の瓦や百済風の墓室は見られるが、住居地や土器など他の決定的な百済人の遺物が出ていないため、大伽耶勢力が当時友好勢力だった百済の葬祭文化の影響を受け、このような形の古墳を築造したのではないかという見解を示した。

【写真】M32号墳の石室の天井部分。四方の壁面がアーチ形の曲面を描きながら狭まっていき、頂点の1枚の天井石を支える半球型の構造となっている//ハンギョレ新聞社

 百済は5~6世紀に慶尚道に進出し、伽耶の領域を執拗に占有しようと試みた。高句麗に奪われた漢江流域を奪還するために新羅と羅済同盟を結成してからは、後方の防備のために伽耶地域を直接的な支配権のもとに引き入れようと、新羅と水面下で暗闘をした。いわゆる「郡令・城主」という名称で伽耶地域に軍事的な支配権と行政権を行使する官僚を派遣したという史書の記録もある。朝鮮半島をめぐり展開する南北と列強の外交戦が激しい今の状況において、1600年前の朝鮮半島南部を飛び交った戦乱と外交の歴史を改めて思い起こさせる遺跡が、まさに山清の生草古墳群のM32号墳だった。
山清/文・写真、ノ・ヒョンソク記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2022-02-18 22:01


「The Hankyoreh」 2021-10-09 13:01
■全羅道屈指の国宝級古墳、被葬者は倭人?百済人?
 [ノ・ヒョンソクの時事文化財] 国立光州博物館「新徳古墳特別展」

【写真】全羅南道の咸平礼徳里にある新徳古墳の1990年代の調査当時の姿。前方が四角で後方が丸い古代日本特有の前方後円墳(長鼓型墳墓)を示している。墳墓の各部分に割れた石を敷きつめた跡(葺石)が見え、墓の周囲を溝で囲むのも倭式の前方後円墳の特徴だ//ハンギョレ新聞社

 「調査に行った墓が盗掘されていました!」。
 学芸員のソン・ナクチュン氏は青ざめて電話を取って報告した。彼の頭は、少し前に目撃した古代の墳墓の片側に開けられた盗掘の穴の惨状でいっぱいだった。30年前の1991年3月26日午後、ソン氏を始めとする国立光州博物館の職員たちは、全羅南道の咸平礼徳里(ハムピョン・イェドクリ)の丘にある6世紀初めの大型墳墓を測量するために向かった。7年前の1984年に発見された新徳古墳1号墳だった。古代日本特有の前方後円墳、つまり前方は四角で後方は丸い、鍵穴あるいは長鼓型の墳墓形式であり、その年の朝鮮半島における前方後円墳の最初の発見事例として報告された海南長鼓峰古墳とあわせて、学界の特別な注目を集めた。しかし、7年が経過しても実測さえ行われずに放置され、学界では正体をめぐる噂だけが広がった。事情を知る博物館の人々が長年の宿題をするかのように実測を行うために向かったところ、数日前に暴かれた盗掘の穴を見つけたのだ。

【写真】1990年代に新徳古墳1号墳の内部を調査した際に床で発見された木棺の材料。日本産と見られるコウヤマキだ。墓の内部にコウヤマキ製の木棺があるのは武寧王陵や益山双陵など百済高位層の葬法であり、被葬者が現地人や百済系の人物であることを示す根拠となる遺物だ//ハンギョレ新聞社

 墓の中は悲惨だった。盗掘犯は石室の南西側の壁を突き破っていた。内部の遺物をむやみに動かし、金属付きの工芸品や大きな土器類などのみを持ち出し、残りは放り投げてあった。その弾みで石室の壁が損なわれ、床の遺物は踏まれて砕けていた。遺体を収めていた木棺の棺材などと、頭骨や歯などの遺骨が混じりあい、盗掘の穴の近くには鉄器や陶磁のかけらが散らばっていた。副葬品は尋常ではなかった。つぶれはしていたが、冠帯に木の葉の装飾が珠の荘厳とともに付いていた金銅冠の破片は孤高だった。環頭大刀や緑色や黄色のガラス板を重ねて付けていた外国産の練理紋の珠などは、公州(コンジュ)の武寧王陵を思いださせるような東南アジア産の高級品だった。石室の入口の羨道(墓道)の床からは、祭祀で使われた真鯉の骨の入った壺や様々な供え物を入れたふた付きの皿(蓋杯)も大量に発見された。全羅道屈指の国宝級古墳が盗掘されたという急報は、政府を驚かせた。国立中央博物館のハン・ビョンサム館長(当時)から直接報告を受けたイ・オリョン初代文化部長官は、検察総長にすぐ電話をかけ、緊急捜査を要請した。

【写真】新徳古墳1号墳の石室から出た金銅冠の破片。六角形の模様の中に花模様が刻まれた細長い土台の上に木の枝の形の装飾を付けた構造で、九州や畿内地域の高級古墳から出土する冠とほとんど同じだ。被葬者が倭人とする説の有力な根拠の一つだ//ハンギョレ新聞社

 このような内容が報道されると、怖気づいた盗掘犯たちは、旧朝鮮総督府の建物にあった国立中央博物館の東門に盗掘した鉄器類の箱を置いて去っていった。回収した箱の中にあった遺物は、鉄器の刀の柄だった。墓の内部に残っていた刀の刃と合わせてみるとぴたりと合い、副葬品だと確認された。犯人は1993年9月に捕まった。土器や兜など65点の「百済の遺物」を持ち去っていたことが明らかになった。
 新徳古墳には、朝鮮半島の前方後円墳のなかでは最も多くの副葬品が残っていた。博物館も盗掘後の9年間に体系的な調査を行い、相当な研究成果を確保した。しかし、30年間も報告書を出さず、出土品の展示もなかった。理由はいわゆる「倭色」のためだ。二つの山の形の模様を立てる土台を着せた金銅冠や環頭大刀、三角形の鉄帽など、韓国と日本の学界で倭系だと同意できるような遺物が続々と明らかになると、4~6世紀に日本を統一したヤマト政権が任那日本府を設置し、朝鮮半島南部を支配したとする植民地史観の歴史家や日本の極右の主張の根拠として悪用されるだろうという懸念が生じた。朝鮮半島の前方後円墳の研究も不十分な状況であり、公開した場合、日本の学界と論戦する相手になるのは難しいという懸念もあった。

【写真】新徳1号墳の石室から出た環頭大刀(一番上)。鉄棒の上に銀を被せてより合わせて作った輪で刀先を飾ったこの刀は、朝鮮半島にはなく日本列島の支配層の墓からのみ出土する最高級の遺物だ。金銅冠と共に新徳古墳の被葬者が倭人とする説を裏付ける根拠となる遺物だ//ハンギョレ新聞社

 そのような事情を考えると、7月19日から国立光州博物館で行われている新徳古墳特別展「秘密の空間、隠された鍵」(24日まで)と報告書の発刊は、時すでに遅しだが、嬉しい知らせだ。朝鮮半島の前方後円墳についての初の企画展を設け、出土品を学界に全面公開する場まで用意したのは、考古学史上、意義深い事件だ。学界の研究能力が成熟したことを教えてくれるものだ。
 日本に4000基以上残っている前方後円墳は、歴史的な誇りが込められたシンボルだ。3世紀中頃から7世紀初めまでの古墳時代に、現在の大阪一帯の近畿地域に拠点を置いたヤマト政権が、各地の首長と連合して統一国家を建てた歴史的な指標だとされている。近畿から始まった前方後円墳が九州や関東など全国各地で広がっていく過程が、列島統一の過程を端的に示しているというのが定説だ。

【写真】奈良にある6世紀中頃の丸山古墳。日本の古墳時代末期の最後の前方後円墳といわれている//ハンギョレ新聞社

 そのような前方後円墳が、全羅道の西南海岸で現在までに14基確認されており、中心格である新徳古墳から、なぜ倭系の金銅冠や最高級品の刀が中心的な副葬品として出てきたのかについては論争になっている。数が少なく、期間も5世紀末から6世紀初めの50年に過ぎないが、被葬者が倭系の実力者だと解釈する余地が大きい。日本の学界で、ヤマト政権が朝鮮半島に影響を行使したという推論に飛躍されることもありうる。廃棄された任那日本府説をあえて提起する学者はいないが、長鼓型墳墓の研究成果の公開は、日本の学界との解釈の摩擦を呼ぶ可能性が高い。韓国内の学界も墓被葬者をめぐり、倭人説と現地人説、百済人説が交錯している。墳墓の形と構造、中心的な副葬品は倭系だが、もう一つの手がかりであるコウヤマキ製の木棺の遺物は、百済高位層の葬法だからだ。
 博物館の展示は、より積極的な解釈と説明の場を設けられなかった限界も示している。金銅冠と刀と大量の土器、棺材をずらりと並べて置いている遺物報告の形式に留まっているという話だ。前方後円墳については、韓国と日本の学界での議論がなぜ大きくなったのか、任那日本府が及ぼした影響は何であるのかなどについて、歴史的な経緯を詳細に解き明かして説明していない点が不自然だ。史料不足もあるが、長期的に落ち着いてファクトを蓄積し論議していくには、大衆に前方後円墳の歴史的実情を十分に伝え、被葬者の議論を進めていくべきではないだろうか。近代の民族感情による制約を受ける韓国と日本の学界は、今後互いに交流し、共同理解を探る求同存異の姿勢で会うしかない。
光州/文・写真、ノ・ヒョンソク記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2021-10-05 04:59


「The Hankyoreh」 2021-08-28 22:24
■朝鮮半島最大の古代の墓、開けた直後に閉じた理由は
 [ノ・ヒョンソクの時事文化財] 
 長鼓峰古墳をめぐり考古学界で騒ぎに 
 日本の古墳に似た構造や祭祀の跡をめぐり議論 
 「追加発掘後に一般公開」とし、再び埋める 
 墓の被葬者は百済の統制を受けた倭人? 
 日本の右翼が任那日本府説の根拠にすることを懸念

【写真】最近発掘調査された全羅南道海南郡北日面方山里の長鼓峰古墳内部の石室。遺体を置く部屋への入口の玄門が正面にみえ、平らな板石をいくつか置いた床と砕いた石を整然と積んだ石室の壁面が見える。1990年代までに2回盗掘され、内部の遺物は大部分が失われた//ハンギョレ新聞社

 朝鮮半島で最大の古代の単一の墓が、新年の初めについに開かれた。考古学者らは5~6世紀の日本の古墳とそっくりな墓の構造に驚き、すぐに土で覆われ再び埋められてしまったことにがっかりした。今年1月、国土最南端の海南(ヘナム)から聞こえた墓の発掘に続く覆土のニュースは、メディアには公開されなかったが、韓国国内の考古学界を騒がせた。
 この遺跡は、全羅南道海南(ヘナム)の北日面方山里(プギルミョン・パンサンリ)の長鼓峰古墳だ。6世紀前半のものと推定されるこの墓の外側の墳墓と石室内部が、昨年10月から今年2月まで、馬韓文化研究院の発掘調査により約1500年ぶりに明らかにされた。驚くべきことに、石室は日本の九州の外海岸と有明海一帯で5~6世紀に造成された倭人貴族の石室墓と、構造はもちろん墓の内部への入口をふさぐ前に行われた祭祀の跡までほとんど同じだった。

【写真】長鼓峰古墳の石室の入口からみた内部空間。床に細長い板石を置き、砕いた石を整然と積み壁面を作り、上側天井に蓋石を置く典型的な古代日本の九州地域の石室墓の構造だ。天井と壁面にはやはり日本の古代古墳の典型的な特徴である赤い朱漆の跡が確認される//ハンギョレ新聞社

 調査団は、後面の封土を掘り、墓の内部に通じる細い通路(羨道)に入り、内側を観察した。調査の結果、床に細長い板石を置き、上側に砕いた石(割石)を整然と積み壁面を作る、古代九州の石室墓特有の構造であることが明確だった。天井と壁面にも、日本の弥生時代以来の古墳の典型的な特徴である赤い朱漆が塗られた跡が残っていた。
 出土品はほとんどが盗掘されていたが、墓の被葬者を明らかにする手がかりとなる遺物が相当数収集された。墓の内部への入口で発見されたふた付きの皿(蓋杯)10点が代表的だ。一部の蓋杯の中にはイシモチなどの魚の骨や肉類など祭礼での食事と推定される有機物の塊も検出された。「日本の古墳で確認された祭礼の遺物と類似の内容物と配置が注目される」と、チョ・グヌ研究院長は説明した。墓の内部を直接調べた慶北大学考古人類学科のパク・チョンス教授は「九州の倭人の墓に入った時と印象がまったく同じだった」と述べた。

【写真】長鼓峰古墳の内部への入口の玄門と内部の様子。石室は、長さと幅がそれぞれ4メートルを越え、天井までの高さは2メートルに達する巨大な空間だ。床に細長い板石を置き、砕いた石を整然と積み壁面を築く古代の西日本九州地域の石室墓と構造が全く同じだ//ハンギョレ新聞社
【写真】墓の石室に入る羨道(細い通路)の入口部分の発掘現場。土の圧力による崩壊の危険に備え、上部をおおう石の下に金属の支柱を差し込んでいる//ハンギョレ新聞社

 長鼓峰古墳は墳墓の長さが82メートル(溝を含む)、高さは9メートルに達する。皇南大塚などの新羅の慶州の大型古墳より大きい韓国国内最大級の墓だ。外見は日本で古代国家が成立する当時の墓の様式である前方後円墳(長鼓形墳墓)の形だ。前方後円墳は、墳墓の前方は四角い形で後方は丸みのある円形の特徴をとり、日本の学者が名付けた名称だ。日本の墳墓の形式である前方後円墳が古代の海上路の要所である全羅南道の海岸一帯に10基存在するという事実は、1980~1990年代に相次いで確認された。日本の右派勢力は、4~6世紀に日本が朝鮮半島南部を支配したという「任那日本府説」を裏付ける物証だと主張した。韓国と日本の学界で、埋葬された人物の出身地が朝鮮半島か倭国かをめぐり大きな議論となった。

【写真】空中から見下ろした海南の長鼓峰古墳の全景。前方は四角い形で後方は丸みのある円形の前方後円墳の特徴がはっきりとみえる。後方の円形の墳墓の上に7の字を逆にした形の穴を掘り石室を開いている発掘の様子がみえる//ハンギョレ新聞社
【写真】海南北日面方山里にある長鼓峰古墳の外見。前方は四角形で後方は丸い墳墓の形である古代日本特有の墓の前方後円墳の典型的な形だ//ハンギョレ新聞社

 長鼓峰古墳も議論の中で困難を経験した。80年代初め、学界に初めて報告された当時は、自然の地形である丘とみなされた。80年代半ばごろに嶺南大学のカン・イング元教授が発掘許可を申請したが、文化財委員会の許可が下りず、外側の実測しかできなかった。1986年に全羅南道記念物に指定されたが、保存措置がまともにとられず、90年代に2回盗掘された。国立光州博物館が2000年に盗掘の穴を確認し、緊急試掘調査により内部を一部確認したが、公式の発掘は20年後の昨年秋に始まった。
 しかし、墓の石室は2月末に再び埋められた。研究院側は「新型コロナウイルスの防疫のための措置で、5~9月に墓の周溝の追加発掘の後に一般公開を推進する」と明らかにした。しかし、一部では発掘による波紋も考慮したものだという見方が出ている。調査内容は、朝鮮半島の前方後円墳の墓の被葬者の議論を再び引き起こす公算が高い。過去20年ほどの間、百済政府の統制を受けた倭人官僚や傭兵という説と、日本に移住し現地の墓の文化の影響を受け帰国した馬韓人または百済人という説など、多くの推測が出された。長鼓峰古墳から九州の古墳と瓜二つの構造と鉄鎧の破片や鉄の矢じりなどの武器類が埋められた事実が確認されたことは、韓国国内の学界に負担になり得る。日本の右派学者が再び任那日本府説の根拠にすることがあり得るという懸念まで出ている。

【写真】昨年10月から今年2月まで調査された長鼓峰古墳の主な出土品。本来の副葬品は大部分が盗掘されたが、今回は蓋つきの土器の皿(蓋杯)やかまどの枠の破片、鉄製の鎧や鉄の矢じりの破片などが相当数出土し、墓の被葬者を推定する手がかりになるとみられる//ハンギョレ新聞社

 ソウル大学国史学科のクォン・オヨン教授の助言を思い出したい。「長鼓峰古墳は倭系統の墳墓の構造を有していますが、埋葬された人物を軽々しく断定してはいけません。外形、構造、遺物などを当時の情勢とともによく調べなければなりません。民族主義を越え古代人の観点まで考え、開かれたものの見方でアプローチしなければなりません」.

ノ・ヒョンソク記者、写真=馬韓文化研究院提供 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2021-03-21 11:46
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする