三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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「済州4・3の導火線…1947年3・1事件の目撃者」

2018年11月04日 | 韓国で
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/31863.html
「The Hankyoreh」 2018-10-16 07:19
■済州4・3の導火線…1947年3・1事件の目撃者
 [済州4・3 70周年企画、椿に尋ねる2部(1)] 
 済州北小の運動場には、足の踏み場もないほどの人波があふれ 
 抗議する群衆に脅威を感じた軍政警察の発砲で6人死亡 
 米軍政は、責任者の処罰と真相究明の要求に強硬対応で一貫 
 犠牲者遺族「4・3、容赦はしても忘れないことこそ人間の道理」

【写真】済州市の旧殖産銀行跡から眺めた観徳亭(左)。右側の済州牧官衙跡に第1区警察署と望楼があった=ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

 1947年3月1日、済州市(チェジュシ)の観徳亭(クァンドクチョン)広場を揺るがした警察の発砲は、済州4・3の導火線になった。この日の警察の発砲で6人が亡くなり、6人が負傷するいわゆる「3・1事件」が起きた。犠牲者の中には小学生から乳飲み子を抱いた20代の女性もいた。しかし警察は、真相調査どころか強硬対応に出て済州社会は混沌の中に陥っていく契機となった。これらの犠牲者は、済州4・3の最初の犠牲者だ。当時3・1事件の現場にいた体験者と遺族の記憶を通じて、71年前の事件を再構成した。
 この日午前、済州島民は「第28周年3・1記念済州島大会」に参加するため、済州市北小学校に押し寄せた。済州市の東は朝天(チョチョン)、西は涯月(エウォル)の住民までが歩いて学校へ向かった。大会会場は人波であふれ、各種の記録は2万5千~3万人が集まったと推定した。吾羅里(オラリ)のカン・サンスンさん(83)とカンさんの弟のカン・サンドンさん(80)も学校に行った。20日に会ったカン・サンドンさんは「その時、同じ村のホ・ドゥヨン兄さん(当時16)を含めて4~5人が一緒に行った。すでに運動場は人がぎっしりと埋め尽くしていた。ドゥヨン兄さんが「お前たちは中に入れば踏まれて死ぬかもしれない」と言い、外にいるように言った。垣根に立って人波を見物していたが散り散りになった」と話した。カン・サンスンさんは「観徳亭の方に出て行って見物していると、銃声が響きすぐそばに立っていたドゥヨン兄さんが倒れた。銃声に驚いた人々が散り散りになった」と話した。ホ・ドゥヨンさんは3・1事件犠牲者のうち最年少だった。

【写真】3・1事件の最年少犠牲者、ホ・ドゥヨンの墓碑には、3・1節記念式に出席後帰宅するときに警察の発砲で亡くなったという内容が記されている=ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

 この日午前11時から始まった3・1節記念大会は、済州の左派団体が主導し、参加者は集会が終わった後に街頭デモに入った。しかし参加者は左派だけでなく、一般人や学校の生徒たちも多かった。午後2時45分頃、観徳亭前の広場で騎馬警官がすぐそばの警察署に行く間に6歳くらいの子どもが蹄で蹴られた。しかし警官は、それに気づかなかったのか、そのまま行こうとし、周辺にいた参加者がこれに抗議して追いかけると、慌てた警察が警察署の襲撃だと思って一斉に発砲した。
 この発砲でホ・ドゥヨン(当時16・吾羅里・済州北小6)、パク・ジェオク(21・女・道頭里)、ヤン・ムボン(50・吾羅里)、オ・ヨンス(34・建入里)、キム・テジン(40・道南里)、ソン・トギュン(49・道南里)の6人が亡くなり、6人が負傷した。犠牲者は3・1節記念大会を見物に行った人々だった。

【写真】「米軍部隊が群衆の解散を支援した」という第24軍団司令部の1947年3月3日付日々情報報告書の内容=ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

 3・1事件の現場では、当時済州道駐留米軍第59軍政中隊が集会参加者の解散を支援した。当時、済州北小5年のヤン・ユギルさん(83・女)は「3・1節記念大会があった北小から最後に出てくると、銃声が聞こえ大騷ぎになった。米軍が空に空砲を撃ち、殖産銀行の前で子どもを抱いたおばさん(パク・ジェオク)が倒れるのを隠れて目撃した」と話した。この日の米軍の活動は、駐韓米軍司令部の日々情報報告書(1947年3月3日)に記録された。パク・ジェオクさんは、道立病院に移送されたが数時間後に亡くなった。弾丸はわき腹から左臀部側に貫通していた。
 3・1事件の前日、日本から家族を連れに来たオ・ヨンスさんは、観徳亭に行って遺体で帰ってきた。彼の娘のオ・チュジャさん(80・京畿道)は「地域の目上の人が父に『観徳亭広場で行事があるから一緒に行こう』と言い、午後1時頃に昼食を食べて出て行き、いくらも経たないうちに亡くなったという知らせを聞いた」と記憶していた。

【写真】3・1事件の犠牲者、オ・ヨンスさんの除籍謄本には「観徳亭前で死亡」したと書かれている=ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

 オさんは「母が『死ぬためにここに来たのか』と号泣していたことを思い出す。その翌月に妹が忘れ形見で生まれたが、病気で4歳になった年に亡くなった。弟も病気で死んだ」と話した。オさんは「海辺の地域で暮らしていた母が、眠りもせずにただ海ばかりを眺めてぼうっと座っていた姿が忘れられない」と話した。
 ソン・トギュンさんの息子のソン・ヨンホさん(83)は、当時南小の4年生で3・1節記念大会に参加した。北小から山地橋(サンジタリ)、コンドク公園を経て東門通りへ行進する道で銃声を聞いた。ソンさんは「銃声が鳴るとすぐに南門通りに抜け、学校に戻り家に向かうと兄や近所の方々に会った。その時、父が銃で撃たれ道立病院にいると聞いて一緒に行った」と話した。
 ソンさんは、71年が経過した今でも父親の最期の姿を生々しく覚えていた。「走って行ってみると、お父さんが親戚のおじさんの手を握り『助けてくれ』と哀願していた。水を探したが、水を飲ませてあげられなかった。結局亡くなって、道南里の青年たちが担架で運び葬儀を行った」。ソンさんは「弾丸は腕から腰を貫通していた。当時警察署に望楼があったが、望楼から狙い撃ちしたのだろう」と話した。ソンさんは9歳上の兄が翌年道南の村が燃えた時に行方不明になり、3歳上の姉も病気で亡くなり、辛酸な生活を送らなければならなかった。

【写真】3・1事件当時に父親を失ったソン・ヨンホさんが3・1事件について話している=ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

 「私たちの世代はみな本当に大変な時代を生きた」というソンさんは、4・3を忘れてはいけないと強調した。「歳月が流れて、もうお互いが容赦はするものの、忘れてはいけない。子孫である以前に、人間の道理として絶対に4・3を忘れてはならない」。
 3・1事件以後、米軍政は責任者の処罰どころか「正当防衛」と強弁した。これに抗議して済州島内の左・右派団体も参加する3・10民官ゼネストが起き、米軍政は強硬対応で一貫した。1948年4月3日に武装蜂起が起きるまでに、済州島民2500人余りが無差別検挙された。

ホ・ホジュン記者
http://www.hani.co.kr/arti/society/area/863262.html
韓国語原文入力:2018-09-23 14:43
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