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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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『海南省抗日戦争時期人口傷亡和財産損失』について 3

2016年05月19日 | 海南島史研究
 以下は、このブログの2015年12月31日、2016年1月8日の「『海南省抗日戦争時期人口傷亡和財産損失』について」1、2に続くものです。


 『海南省抗日戦争時期人口傷亡和財産損失』の記述には、2011年版の場合も2015年版の場合も、正確とは言い難い個所が多い。それらの不正確な記述には、同書の最終原稿を数時間かけて通読すれば、容易に発見できるたぐいの粗雑なものも少なくありません。2015年版には、同書の編集・審稿などに参加した30人あまりの人たちの名が記されています。
 同書巻末の年表の1941年の箇所には、“7月7日に、澄邁県沙土地区で、日本軍が村民1280人を殺害した”と書かれていますが、同書79~83頁に収録されている雷登華「日軍沙土大」には、沙土で大虐殺がおこなわれたのは1941年農歴4月11日(普通歴5月6日)であったと書かれており、同書12頁の「沙土峒大惨案」の個所には、“日本軍は、1941年7月7日から11月の間に住民1336人を殺害した”と書かれています。また、同書150頁の「澄邁県橋頭鎮欽帝村王世禄的証言」(王世禄口述、中共海南省委党史研究室呉曉紅、符思権、王寒漫2006年10月16日采訪)には、王世禄さんが‟沙土峒惨案”の日を1941年7月6日であったと証言したかのように書かれています。しかし、わたしたちは、2011年3月からこれまで7回欽帝村を訪問し、王徳林さんや王世杰さんに話しを聞かせてもらってきましたが、沙土大虐殺の日が7月6日であったという証言は聞いたことがりません(このブログの2011年3月22日~28日の「沙土の欽帝村で」1~6、2014年4月3日の「『海南省抗戦時期人口傷亡和財産損失』」、2015年5月15日の「2015年春 海南島「現地調査」報告 3」などをみてください)。
 澄邁県橋頭鎮人民政府が2005年8月15日に沙土の聖眼村に建立した高さ12メートルほどの「史証碑」の碑文には、1941年閏6月12日に沙土で1119人が殺され、さらにその後200人あまりが殺されたと書かれています。1941年閏6月12日は、普通歴では1941年8月4日です。
 澄邁県政協文史資料委員会編『澄邁文史』(第十期、日軍侵澄暴行実録、1995年?)の冒頭に掲載されている温家明・温明光口述「血海深仇 永不忘懐(侵瓊日軍制造“沙土惨案”実況)」には、沙土大虐殺の日は1941年閏6月12日であったと書かれています。「史証碑」の碑文は、幸存者である温家明さんと温明光さんの証言にもとづいていると思います。
 2010年12月に内部資料として発行された中共澄邁県委党史研究室・澄邁県地方志办公室編『抗日戦争時期澄邁県人口傷亡和財産損失資料』に掲載されている李樹徳編写「沙土惨案報告」には沙土大虐殺の日は「1941年7月6日(農歴6月12日)」と書かれています。しかし、1941年は閏年で、農歴では、6月と閏6月がありました。1941年の6月12日は普通歴の7月6日ですが、閏6月12日は普通歴の8月4日です。同書に掲載されている温明光口述「血染沙土」には、沙土大虐殺の日は、「1941年(農歴)閏6月12日」と書かれています。

                                   佐藤正人
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